7 触れる、
白い少女と、青白い竜。
空の世界を知った今でも、気を抜くと目の前の現実と繋がる糸が切れ、絵本の中に戻ってしまいそうな、泡沫の存在たち。その淡い靄のような存在が、急激に明確な輪郭を持ち始める。
「竜の鱗…」
バクザは、いや恐らくこの国の深部が、それをずっと保管していたのか。
「いやあ、貴方の御父上はとんだ切れ者ですよ。隠蔽された俺の一族の末路を調べ、居場所を絞るだけでも相当難儀だった筈です。更にその一族の中でも力を持つ者、空の世界の存在を信じる者、且つその存在の異常性に気付いている者…。鳥の種の一手で篩いにかけられます」
ヨルシカはカザンの言葉を脳内で噛み砕いた。
使い鳥の中には訓練の結果、何かに特化した能力を持つものがいる。恐らく術力の大きさを感知出来る使い鳥をバクザは放ったのだろう。また、カザンのように空の世界の存在を察知出来る力を持っていなければ、鳥の種など普通は気にも留めない。
そして。
竜の鱗を提示することでこちら側も空の世界を認知していることを証明し、その上で問いかけているのだ。
《お前はどうする?》
と。
まるで透明な密約だ。
声を上げるでも、文書を交わすでも、
落ち合う時を確かめるでもなく。
バクザはじっと待ったのだろう。
必死に伸ばした手が、誰かに届いていることを信じて。
「お前は、何故この島だと分かったんだ?」
「あの女の護衛になったことで、幸いにも入れる場所が広がりましてね。流石大国ウォルダの王宮書庫、世間には流れていない書物が残っていたんですよ。知っていますか?遠ーい昔、それこそ500年を超えて遡ると、実はこの島、流刑地だったんですよ」
「な、…」
ヨルシカはバクザの背中を見て育った。バクザの偉大さを知るからこそ、自身を鼓舞し研鑽を積んできた。勿論この国についても学んではいたが、国が興る前については歴史が途絶えている為、それはそれとして理解するに留まっていた。
「流刑の記述と地図を照らし合わせると、この島以外に流刑地になり得る場所はないんです。そこで考えました。そもそも何故、この島が流刑地となったのか?と」
カザンは人差し指を蟀谷にとん、とん、と断続的に打ち付けた。まるで彼が登ってきた階段を再現するように。
「ウォルダは中々に苛烈な歩みをしてきた国です。それこそ昔は罪人たちの処刑を見世物にしていました。そんな国が、態々島流しという曖昧な刑罰を選択するだろうか?調べてみたら大当たりです。流刑に処された罪人は、ほぼ冤罪でした。貴族、文化人、目障りな政治的反対勢力の存在をよく分からない罪で拘束するんですよ。流石に実は無実の、地位のある存在の首を大衆の前で刎ねてしまうと暴動が起きかねない。ならば遠い土地で確実に死んでもらえばいい。…そう、この島は魔獣に汚されていたそうですからね、放り出されればいずれ餌食となったでしょうから」
―そうか。
ヨルシカは握った拳の中、掌に爪を立てた。
罪人の烙印を押され、いつ魔獣が現れるかもしれない島に閉じ込められた人々の絶望は計り知れない。そんな中で天上から美しい白い少女と竜が降り立ったのなら、救世主として崇めてしまうのは無理も無いことかもしれなかった。
ヨルシカは豊穣の絵の下に描かれたあの絵を思い描いた。神々しい、という表現がしっくりくるあの絵。描いたのは流刑の憂き目にあった芸術家だったのだろう。その運命を憐れまれ、誰かが身の回りの品を潜ませていたのかもしれない。
―俺はいつも、考えが浅い。
カザンはヨルシカの咀嚼が済んだことを見計らい、先を続ける。
「時代の流れで人道的な風潮が高まったこともあり、次第に流刑は途絶えました。一方で何故かこの島は急激に平和を手にします。ある時を境に。沿岸部の国には、微かですが似たような昔話が残っているんですよ」
カザンは人差し指を上から下に、下から上にと線を描くように動かした。
「白い竜がこの世界に舞い降りた、と」
そして彼は嘲るように肩を竦める。
「勿論、御伽噺のひとつとして認識されています。局所的な豪雨や雷など、幾らでも勘違いの要因は挙げられますからね。ですが不自然なほどに回復した島、同時期に生まれた沿岸部の絵物語…。これは、となりましてね、あの蛇男を使うことにしたんです」
「ルロワナ=タルセイル」
「そう。あの蛇男には貸しがありまして。元々色情魔の犯罪者、拘束された際手首を切って逃げたようでした。まあ、何をしたのかは興味がないので知りません。ただ知能のある愚か者は使えるので、手首を繋いでやったんですよ。代わりにこの島の実態を調べろと」
リラの様子が変わったのは、ルロワナ=タルセイルと会ってからだった。リラの脚を治療した際、作品の印をつけたとカザンは言っていた。もしかして、リラはルロワナ=タルセイルにも自分と同じ印を見たのだろうか。
「あの蛇男が何かを突き止めるとは思っていません。ただあの変態が何か問題を起こせば、この国を公式で訪問することが出来る。使い鳥を送った人間は、ウォルダの土地一部を対象としていたことから、ウォルダの人間が入国したと知れば意図に気付くかも知れないと賭けたんです」
まさかまさかの相手が国王とは。予想だにしませんでしたよ。
カザンはそう言った。
「あの女は置いてくる予定だったんですがね。俺がこの国に興味があることは知っていたので、蛇男の事件を知って意気揚々と手筈を整えてしまったんですよ。お陰で面倒でした」
カザンは鼻の頭に皺を寄せた。
「…何故、話してやらなかったんだ?」
ヨルシカはぽつりと聞いた。それに対し、カザンはゆっくりと首を傾ける。
「いつまでもあの女のお守りは出来ませんよ。俺にはやりたいことがある。そしてこれはあの女には関係のないこと。いい加減、あの女は自分の脚で歩くべきだ」
そうか、とまたヨルシカはぽつりと言葉を零した。
人間とは、難解な生き物だ。
表に現れているものが真実とは限らず、また心はくるりくるりと変化を続ける。相対する存在によってその色は変わり、固定された解釈など不可能となる。
先入観に溺れず、一瞬一瞬の朧気な真実を手繰り寄せて初めて、その存在の何かに触れることが出来るのかもしれない。
ヨルシカは余計な感情をすとんと脱ぎ落とし、カザンを見つめた。
「お前、凄いな」
不意のヨルシカの真っ直ぐな称賛に、カザンは目を見開き止まった。
思わずまじまじとヨルシカを見返す。
やがて、ぷっと吹き出し肩を震わせカザンは笑った。
「貴方、実は変わってますね」
くくく、と少し不器用そうに口を歪めて笑うカザンは髪を掻き上げながら言った。
「ヨルシカでいい、カザン」
少し微笑みながら答えたヨルシカに対し、堪らないとばかりにカザンは口を開けて笑った。




