2 墜落
想像していなかった人物の名前に、部屋の空気が止まった気がした。しかし、そんな空気に戸惑うことなくセイシアは話を続ける。
「私はセイシアという立場を断続的に使用しています。サリュウと出会った時は人としては存在していない時期でした」
ルクスは頭の中で改めて確認した。ルクスが孤児院で生活している時期は、職員の中にセイシアは居なかった。自分が院を出て以降のどこかで、セイシアとして再び働き始めたことは分かっている。彼女はそうやってセイシアとして存在する時期を断続的に作っていた。
「サリュウは特別な人でした。貴方がたが世界樹と呼ぶ場に私が居た時、声をかけられたのです。私は鳥の姿だったのにも関わらず」
既に話は秘匿されていた部分に入っている。薄く走る緊張の中、しかしセイシアは淡々と語る。
「出会ったのは彼女がまだ王太子妃だった時期です」
―ね。あなたは誰?
樹を眺めに来た人間だと特に意識していなかったが、彼女は突然真っ直ぐに話しかけてきた。その時の驚きを、今でもはっきりと覚えている。
「やがてサリュウは王妃となりました。そして依り代に選ばれ、貴方を身籠りました」
スゥハは無意識に拳を握った。分かってはいるものの依り代という異物感のある言葉にほんの少しだけ、身体の何処かから血が流れるようだ。それに気付いたのか、隣に座るルクスの膝がスゥハに微かに触れる。
そう、私は大丈夫だ。温かい場所がここにある。
心配するなとばかりにスゥハは軽く頷いた。
「貴方という存在は役割を持って生まれてくる筈でした。それを閉ざしたのはサリュウです」
やはり。
スゥハはバクザの言葉を思い出していた。
―あれの願いだったんだろうな。
薄々予想していたことである。自分が何かを忘れていることに、サリュウが関わっていた。しかし、一体何故。
「貴方に役割についてお話するか否か、サリュウは私に託しました。初めにお伝えしておきますが、話したから全て皆さまの望み通りの形に収まる、というものでは恐らくないでしょう。私としてはどうすべきか分からなかった。判断する立場ではないのです」
セイシアはスゥハを真っ直ぐに見つめた。
「貴方が幼少期閉じ込められていた理由は、大きくは存在が安定しなかったこと、そしてもうひとつはサリュウによって封じられたものにどんな弾みで侵食されてしまうか分からなかったからだと思います。しかし、バクザ王の判断で貴方は解放され、ここに居る」
セイシアは微かに目を細め、話し続ける。
「先日改めて貴方を見、侵食されることはない、と感じました。貴方はもう軸を持っている。ならば、望まれるならお話するべきかと思ったのです」
セイシアは静かな表情のまま、全員を見回した。
「これが今お話しようとする理由です。不足でしょうか」
ちらり、と皆がワイザードを見る。ワイザードは口をぐにゃりと曲げ、頭をガシガシと掻いた。
「あー、いや。大丈夫だ。すまん」
ばつが悪そうなワイザードとは違い、セイシアの表情には変化がない。彼女はただちいさく頷いた。
「それでは、何からお話すれば良いでしょう」
スゥハが口を開いた。何よりも先ず、確かめたいこと。
「貴方の…、もし私も含まれるなら私達の存在、とは何なのでしょう」
セイシアはまるで決められたやり取りのように、淡々と返答していく。
「私達はこの世界の存在ではありません。上の世界の存在です」
「上?存在価値が上位の、という意味っすか?」
シャイネが聞く。セイシアは首を横に振り、人差し指を立てた。
「いえ。空の存在、という意味です」
呻きともとれる音が、誰から漏れたか分からない。
「え…?」
スゥハが遅れて覚束ない言葉を出した。
「空の世界があり、そして自然と空から零れた澱のような世界が生まれました。貴方がたが魔獣と呼ぶ存在がいる世界です。魔獣は常に空を引き摺り下ろそうとする。だから、蓋をすることにしたのです」
セイシアは少しだけ両手を広げた。
「それが、この世界です」
「いやちょっと待てよ、蓋?この世界が?」
ワイザードが思わず声を荒げる。
「はい。創造されたこの世界に人や植物といった生命が誕生したこと、これに特別な意味はありません」
「はっ…」
ワイザードは額を押さえ、黙り込んだ。誰もが言葉を出せない。それを確認してから、セイシアは続けた。
「この島の部分が薄かったのか、魔獣が狙いやすかったのかは分かりません。この島は徐々に汚染されていきました。そしてそれを空から覗こうとしていた者が、不意の崩落によりこの地に墜ちたのです」
必死に情報を咀嚼している者たちを、セイシアは静かに見つめた。
「皆さんもご覧になった、あの絵。墜ちたのはあの白い少女です」




