9 水面下
ここ数日、ヨルシカは己の内側に燻る感情を持て余していた。
カザンの尋問はバクザが行うことになり、ヨルシカは接触することが出来ない。あの時の反応。カザンが探していた共犯者はバクザである可能性が高いだろう。しかし、カザンにとってもそれは予想外だったようだ。
何故、予想外だったのか?
先ず、恐らくカザンが知っているこの島の何かを勿論バクザも知っているのだろう。それを伝えたのがバクザであったことも考えられる。その内容がカザンにとって興味をひく、もしくは重要なものだったため、彼はここまでやってきた。共犯となる者を知らなかったということはバクザは身分を伏せていた。
予想外だった点。始めに思いつくのは、国王であること。しかしカザンはリラの存在に慣れており、加えあの高慢な性格から小国とはいえ王族といった身分に尻込みするとは思えない。更にカザンは頭が切れる。そんな彼ですら予想だにしなかったということは、先ず以て国王がするはずのない行為だった、ということか?
あの時バクザは「鳥の種を?」と言っていた。それでカザンには全てが通じていた。つまりその質問は通行証を確認すると同義だったのだろう。そこから考えられることとしては、バクザ自身も接触を図ろうとしていた相手がカザンであったことを知らなかった、ということか。だからこの国に来た当初は何事もなく応対し、カザンが行動を起こしたことでそれが発覚したということだろうか。
相手が誰かも分からず、闇雲に情報を流したのか?国王たる者が、そんな無責任なことを?
ヨルシカの知るバクザは、そのような愚かな人物ではない。確実に意味がある。
ヨルシカはバクザとウォルダ国に特別な繋がりがないか、過去を遡った。
ウォルダ国は内陸に位置する大国であり、今は落ち着いているものの過去は度々戦争を起こす苛烈な国だった。沿岸であれば違っただろうが、かなり距離のあるこの島国との交易関係は薄い。そのため、バクザがウォルダを訪れたという記録は特に見当たらなかった。
しかし微かに気になる点として、過去の王に比べバクザは他国に赴くことが多かった。勿論素直に受け取るのであれば、知見や親睦を深め国力を向上させる縁を作っている、ということであろう。そしてバクザという実力、魅力共に備えている存在ならば狙って然るべきだ。
本当に、それだけだろうか?
数年前から出国の回数や期間が確実に減っているのだ。前述の通り、国益の土壌作りとしては継続するべきである。しかし、何故減少した?バクザの健康面か?確かに年齢は重ねているが、覇気は衰えることを知らない。では、次期王ヨルシカに任せようと?特段ヨルシカの執務内容に変化はない。
となると、他国を訪れる必要が無くなったから、とも考えられる。何故必要が無くなったのか?求めていたものが手に入ったから。もし、求めていたものというのが共犯者で、カザンとは分からずとも伸ばした手が誰かに握り返された、と分かった時点で次の段階に移行したのだとしたら?
ヨルシカはふう、と息を吐いた。バクザの執務室前で止まる。本日少しだけバクザの時間を確保することが出来た。ここで全てを問い詰めることが出来るとは思っていない。以前バクザは「私の位置から説明することも赦されない」と言った。その意味するところを、ヨルシカは掴めないでいる。しかし、擬態について問うた際バクザは当否を回答していた。つまり、少なくとも今の思考が間違っていたら切り捨てられる筈だ。ヨルシカはそこに賭けている。
扉を叩く。入室を許可する声が、中から聞こえる。
「失礼します」
部屋に入ったヨルシカは真っ直ぐバクザを見つめ、言った。
「お忙しいところ申し訳ございません。陛下にお尋ねいたします。先日、カザンの」
「ヨルシカ」
やや緊張したヨルシカの言葉は、和やかなバクザの呼びかけにあっさりと遮られた。
バクザは右手を拳にし、口元に持っていきながら言葉を続けた。
「すまないが、この後も立て込んでいてな。時間があまりないんだ。先ずその資料を貰えるか?」
ヨルシカは眉を顰めた。確かに資料を持っているが、これはバクザの出国記録などをまとめたものであり、提出する内容ではない。証拠として用意したに過ぎないものだ。しかし、バクザはこちらをじっと見つめている。そこでヨルシカは気付いた。先程まで拳だった右手が、人差し指だけ伸ばされ、とん、とん、とバクザの唇に触れている。特段不思議な動作ではない。だがバクザの目からこの仕草には意味があると感じた。
「…はい、ではこちらを」
ヨルシカは資料をバクザに渡す。バクザは軽く頷き、資料をぱらりと捲る。
「こちらに来なさい」
言われるがまま、ヨルシカは執務机をまわり椅子に座るバクザの隣に立った。ふむ、とバクザはペンを取る。
「よく纏まっていると思う。だが、追加で調べて貰いたい箇所がある、そうだな…」
何を言っているのだ?
ヨルシカは戸惑いを隠せないでいた。しかし、有無を言わせない圧がバクザの目にはある。
「ここだ」
バクザは資料のとある箇所に丸をつけ、以降ざっと下線を引いた。そして探るようにヨルシカの目を見る。
記された箇所は「ガルスキアンに滞在。ピュスタ宰相と会談し」という部分の、ガルスキアンのキに丸がつけられ、下線は会談し、まで引かれていた。意味を成さない部分。にも関わらず、ヨルシカはじわりと暗い予感が背中を撫で始めたのを感じた。
「ここは特に気をつけて調べてくれ」
バクザはペンで丸をとん、とん、と叩きながら言った。
「あとはそうだな、ここと…ここ、それから…」
バクザは幾つか下線を引いていった。そのどれもが、追加で調べるという注文にはそぐわない、不可解な箇所だった。
「任せていいか?」
バクザは改めてヨルシカを見つめた。ペンを握った右手で、再度人差し指を伸ばす。先程口にあてたと同様に。
そこでヨルシカは理解した。いや、正確には当初求めていたことは何も掴めていない。しかし、今此処でバクザが伝えていることは、理解した。
―何が起きている?
自分の身を取り囲む空気が、悪意を持って圧縮しようとしてくるかのようだ。耳が詰まり、喉が苦しい。それは混乱と、間違いなく恐怖からくる感覚だった。
唇にあてた人差し指。子供でも使うほど、誰もが知る仕草。
話すな。
引かれた下線。不自然な位置から始まるそれの、冒頭の文字を繋げる。
き か れ て い る。
ヨルシカは足の裏に力を込めた。そうでもしないと、ぱっくりと口を開けた穴に堕ちてしまいそうだった。
「…はい、お任せください」
絞り出した声は掠れていた。ただただ、怖かった。
ゆっくりと頷きバクザは言った。
「私も、もうすぐ動くつもりだ」
口元は柔らかく笑みを浮かべ、しかし目は確固として。そんなバクザを見てヨルシカは苦しくなった。
父は、ずっと耐えているのだろうか、この見えない恐怖に。
穴を前に立ち竦んでしまう自分。
それはまるで深く暗い深海にひとつ取り残された藻屑のように、惨めなものに思えた。




