1 その夏のはじまり
太陽が高い。
口には出さないが、空って神々しいよな、とヨルシカは思う。晴れたり大雨だったり振り回されはするものの、その存在は未来永劫変わらず自分たちを見つめてくれている。ヨルシカは空を見上げるのが好きだった。
じゃあまたな、と学友に手を振り暫しの別れを告げる。何のことはない、明日から夏季休暇が始まるのだ。学舎から解放された少年少女たちは心だけでなく足取りまで踊っているようだ。かくいう少年ヨルシカも、弾む気持ちを隠しきれず笑顔で迎えの馬車に乗った。
楽しいな、と思う。
この国の王太子である自分に対し、気兼ねなく接してくれる友人たち。それが掛け替えのないものであることを理解していた。王族として媚び諂われるのではなく、ひとりとひとりの人間として、意見をぶつけ笑い合う。何故それが許されるのか。間違いなく、この国だから、であろう。この島国は身分による差別がない。勿論不遜な態度は問題だが、独裁政治を敷かない王族、目線を合わせることを望む王族は国民に親しまれている。このような風土になるまできっと過去には様々な苦労があったのだろう。だが今、この国はこんなにも平和だ。
幸せだな、と思う。
休暇中は王であるバクザと話をする時間を増やせるかもしれない。ヨルシカはバクザのことが大好きだった。聡明な国王として。逞しい父として。たまに可愛げのある男として。明確な目標の、彼の背中を見つめるのが好きだった。
遊んでばかりじゃ駄目だぞ。きちんと学んで、鍛練して、少しでも近づくんだ。
少年ヨルシカは脳内で計画を立てる。それらが全て達成された暁には、夏の終わり頃自分は別人のようになっているかもしれない。心の中で、ふふふと笑う。友人たちは驚いてしまうかもしれないな。その時になんて言おう。いや、敢えて何も言わないほうが格好いいな。
一皮も二皮も剥けた自分の姿を想像する。ヨルシカの頭の中でその姿は少し年上になっていたことにふと気付き、ひとりで恥ずかしくなり窓の外を見た。丁度自分が想像していた年頃の少年が街を歩いていた。彼は弟と手を繋ぎ買い物をしているようだった。少し屈み込むようにして、弟のお喋りに耳を傾け、笑っている。
弟。
踊っていたヨルシカの心は足を止めた。
弟。
ヨルシカは考える。しかし、その思考は何処にも行き着くことはなかった。
何故なら存在しているという弟のことを、ヨルシカは何も知らないのだから。
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「ただいま戻りました」
帰宅の報告と、そして夏季休暇に入ったことを伝えにヨルシカはバクザの執務室を訪れた。
ん、と顔を上げるバクザ。
「おかえり。課題はしっかり持って帰って来たか?」
目を細めながらバクザは言った。
「馬鹿にしないでください。抜かりないですよ」
ヨルシカは胸を反らせ、返事をする。
「やるじゃないか」
バクザは答えながら、ふむ、と首を傾げている。目は手元の書類に戻っていたので、何か難しい内容なのだろうか、とヨルシカは思った。ならば、仕事の邪魔をしてはいけない。退室を告げようとしたヨルシカだったが、予想に反し呼び止められる。
「この後、外出の予定はあるか?」
「いえ、本日は特にございません」
そうか、と頷いたバクザは、ちょいちょいと手招きをし、自分の隣を指し示した。
何だろう。そう思いつつもバクザの隣にヨルシカは立つ。
「ちょっとな、手伝って欲しいんだが」
思わぬ言葉にヨルシカは背筋を伸ばした。勿論です、と即答する。
「悪いんだが、この紙を捲ってもらえんか」
「は?」
「いやこの紙がな、薄いしひっつき合うしで敵わんのだ」
私の指先は剣を握り過ぎてつるつるなんだよ。こんな華奢な紙とは相性が悪い。そもそも劣化に強いものをと注文しただろうに、なんだこの頼りなさは。
ぶつぶつと言い訳をするバクザに、思わずヨルシカは笑ってしまった。
「こちらでよろしいでしょうか、陛下」
優雅に給仕をするように、ヨルシカはゆっくりと紙を捲ってみせた。
「おお、見事だ。至高の手捌きだな」
飄々としているバクザの反応に、ヨルシカはぷっと吹き出し顔を背ける。父の、こういった本気なのか巫山戯ているのか分からない性格が好きだった。後学の為と参加した会議でも、父のふとした言動で場が和むのを過去幾度も見てきた。バクザが人心掌握に長けているのは疑いようもないが、技術というより天然で人に愛される人物なのだろう。そしてそれは、与えられる以上の愛を以て他人と接しているからこそなのだ、ということをヨルシカは誰に言われるでもなく、理解していた。
ちょっと待ってくれ、と言いながらヨルシカが捲った書類を読み、別の書類に書き留めていく。時折ヨルシカに紙を宙に浮かせたままにさせ、手触りなどを確かめている。どうやら交渉材料は紙自体のようだ。態々王自身が担うに相応しい実務かは甚だ疑わしいが、他の紙の情報もまとめているようだった。
幾枚目かを捲ったヨルシカは話しかける。
「指先に潤いが足りないのでは?」
むう、とバクザは鼻から息を吐いた。
「分かってはいるんだがな。保湿剤はぬるぬるするだろう?あの感じがな、得意ではないんだ」
ふと気付いた時に机に油分が付いていたりするとな、悲しくなる。あれは何でだろうな。
とても一国の王とは思えない小ささに、しかし更にこの人に追いつきたい、という夢が強くなる。
俺は幸せだな。
ヨルシカは思った。
「よし、ありがとう。昼は食ったか?まだなら一緒にどうだ?」
その言葉に、ヨルシカの顔は一層明るくなった。
話たいことを頭の中で順位付けをしながら、喜んで、と返事をした。




