8 線を引く
数日ぶりに会うダルクは、やはり微かに疲労の色が濃くなっていた。無理もない。詳細は話せないため、ただ重要人物のセイシアという存在が行方不明、捜索の必要がある、という情報のみ与えられているが、ただならぬ状況ということは感じられる筈だ。なにより彼はもう高齢だ。無理はして欲しくないが、責任感の塊であるダルクが仕事の手を抜かないことを、育てられたルクスはよく知っていた。
「ごめん。大変な時に」
孤児院のダルクの執務室で、彼と向かい合って座るルクスは頭を下げた。
「構わん。大変なのは、お前達の方だろう」
目尻に皺を寄せながらダルクは笑った。それで?と目で促す。
「俺を保護してくれたのはじいさんなんでしょ?その時のこと、覚えていることを教えてほしい」
てっきりセイシア関連の質問かと思っていたダルクは少し意外そうな表情をし、直ぐにふむ、と顎を触った。
「記録は読んでいるな?然程変わらんかもしれんが、構わんな?」
ゆっくりとルクスは頷いた。それを見、ダルクは言葉を紡ぐ。
「街から相談を受けてな。薬草採取をしに森に入っていた時、子供のような人影を見た、迷子かもしれない、と」
「その森って、正確にはどの辺り?」
「ここから少し南にある、ナキの森だ」
この孤児院は、王宮から西に位置する。つまり、王宮から南西にあるナキの森。王宮から南東に位置するユール大森林とは関係が無いはずだ。ルクスは少しだけ、安堵する。
「既に数人で捜索したが、見つける事ができなかったらしい。もしかして孤児院に辿り着くことがあるかもしれないから、と教えてくれてな。何かあってからでは遅いから、こちらからも探すことにした」
ダルクはその時の事を思い出しているのだろう、遠くを見る目をしている。
「孤児院から私を含め、3人で捜索をしてな。しかし手掛かりもなく、どうか無事であれと思った時に、不意にお前が見つかったんだ」
「どんな様子だった?」
「そうだな…。木の根元に座り、実を食べていた。歩き回ったんだろう、かなり汚れていたよ。だが泣いている様子もなく、静かだった」
そう、静かだった。
木々の隙間から光が差し込み、その子供を照らしていた。汚れた体からは絶望は感じられず、また木漏れ日に照らされる体からは希望も感じられなかった。不思議な光景だった。もぐもぐと赤い実を咀嚼しながら、なにも見てはいない様子だったその子供に、ダルクはゆっくりと屈み込み声をかけた。
「きみはひとりか?」
返事はなにもない。耳が聞こえない可能性も考え、子供の目を覗き込む。
「私の言葉は聞こえるか?」
ぴたり、と子供は咀嚼を止める。その目にダルクを映す。ダルクはそっと子供の手に触れた。ぴくり、と子供は震えたが、ダルクの手から逃げることはしなかった。
「もう大丈夫だ」
手を握り、肩を撫で、優しく背を抱く。す、と子供を持ち上げた。
「とりあえず、うちにおいで」
抱かれたことのない子供は、体の預け方が分からない。その子供も暫く固くなっていたが、孤児院に着く頃には寝息を立てていた。
「その後、近隣の街に呼びかけたが親だと名乗りでる者はいなくてな。そのままここで育てることにしたんだ」
「親の可能性、噂としても誰も挙がらなかった?」
「それが、誰もいなかった」
そっか、とルクスは返事をした。
「何か、それ以外違和感とかあった?」
「そうだな…。言葉を教わっていなかったのか、何の単語も知らなかったな。だから何処から来たか、誰と今までいたか、お前から確認をすることは出来なかった。まあ、もっともかなり小さかったから仕方のないことではあるがな。しかし、そうだな…」
改めて記憶を整理しているのであろうダルクが、少し考え込む仕草をした。
「なに?」
「今思えば、なのだが、言葉は知らないが躾がされていない感じは受けなかった。例えばスプーンなどの使い方は最初から知っていたし、生活方法の基本的なことは分かっていたように思う。…そうだ、服もだ」
「服?」
「ああ。見つけた時に着ていた服が、かなり汚れてはいたが仕立てのしっかりしたものだったんだ」
「…へえ?」
「だから捨て子ではなく、迷い子の可能性が高いかと呼びかけは長めに出したんだがな…」
「…そっか」
ルクスはソファに背を預けた。結局自分という存在の起点はよく分からない。付け加えるように最後の質問をした。
「俺の名前をつけてくれたの、じいさんなんだよね?なんか意味とかあるの?」
ダルクはこめかみを軽く掻きながら答えた。
「何だったかな、昔読んだ本から取ったんだったかな」
そっか、ともう一度ルクスは呟いた。
****************
王宮に戻ったルクスは、歩きながら考えていた。
自分という存在の不明瞭さを先ずは解決したかったのだが、中々明確なところに辿り着かない。
色々な問題が気泡のように各所から浮き出ている。それぞれの泡は全く別のものなのか、出処は同じなのか。それすらも分からない。
もっと俯瞰して考える必要があるのかもしれない。しかし、どの高さまで浮上すれば視野として事足りるのか。そしてその高さまで登れる階段は何処かにあるのか。
くそ。
溜息と共に顔を上げたルクスは、少し先にいた人物と目が合った。
その人物、リラは真っ直ぐルクスを見、そして近付いてきた。
「少しお話如何かしら?」
彼女の隣にはいつもいたカザンは居らず、専属の護衛一人きりだった。
スゥハは嫌がっていたが、何であろうと打破する切っ掛けが必要なのは明らかだ。
ルクスはゆっくりと頷いた。
****************
王宮内のガゼボに、リラとルクスは向かい合って座っている。たった一人の護衛は少し離れた位置に立っていた。
用意された紅茶に形ばかりの口をつける仕草をし、リラは微笑んだ。
「ねえ、本当にウォルダに来ない?」
ルクスは少々面食らってしまった。正直、まだその話が続いているとは思っていなかったのだ。
「御冗談はそろそろおやめになったほうがよろしいかと」
「本気よ」
あっさりとリラはルクスの進言を切り払った。
「私は、貴方に傍にいてほしいと思っている」
「申し訳ございません」
「何故?」
「…そもそも、殿下は何故私に?」
「あらなに今更。気に入ったからよ」
リラは足を組んだ。
「お前は強い。そして、美しい。なにより、そうね…」
リラは眩しそうにルクスを見、微笑みながら言った。
「お前は、きっと裏切らない」
その言葉は少女のように不安定で、しかし裏打ちされた過去を感じるほど重かった。ちくり、とルクスは罪悪感を覚える。だが、引くべき線を下げてはいけない。
「そのように評価して下さったことには感謝いたします。しかし、ならばご存じの筈」
「スゥハ殿下?」
ルクスは無言でリラを見つめた。
「スゥハ殿下への忠誠?何故?」
「幼少期に心に決めましたので」
「何よそれ、適当ね。昔決めたことに縛られるの?随分と愚かね」
リラは努めて冷静な声だったが、傷ついているのがルクスには分かった。それは恐らく失恋などという部分的なものではなく、もっと根源的なところで彼女は絶望している。
ルクスは基本的に優しい人間だ。だが、それは時と場合により情を切り捨て打算を働かせることもある。今も、綻びを見せ始めたリラの感情から糸口を探せないか、探る自分に気が付いている。
ごめん。
嫌いになれない彼女に向かって、心の中で呟いた。
「私にとって唯一の方です」
リラは強い。しかし、それは先天的な性格ではなく、強くあろうと自分を律した結果、であろう。そして彼女の核は恐らくとても孤独な少女だ。そんな少女は自分を預けるに相応しい、絶対的な柱を渇望しているように思える。もしそれが崩壊したとしても、共に崩れることを良しと出来るような、共鳴関係を欲しているのだ。
ルクスの言葉の狙い通り、リラの心は血を流し始めた。
「運命の人とでも?とても素敵ね。こんな平和な国に生まれ、あの特別な容姿でしょ。誰も彼もに大切にされるんでしょうね」
「スゥハ様はそのような…」
「お前に何が分かる」
リラは怒気を孕んだ目をしていた。
「生まれながらに役割が用意されていることの幸運を。背中を支えてくれる腕があることを。叫ばずとも察してくれる温かな目を。それらが特別であることを!何も知らずに、ぬくぬくと…」
スゥハの半生をリラは知らない。無責任な言葉達である。だが、彼女の半生もまた、ルクスは知らない。
「…嫌いよ」
リラは呟いた。
「嫌い。こんな世界」
涙を流すことなく血を流し続けるリラに、ルクスはそっと問いかけた。
「…何故、この国にいらしたのです?」
リラは怒りを抜き、少しだけ虚脱する。そしてぽつりと答えた。
「私の願いを叶えるため」
「…願い、とは?」
ふう、と息を吐く音が聞こえる。ふふ、と妖艶に笑ったリラは首を少し傾けた。束ねられた長い髪が重力に逆らえず、揺れる。その動きに沿うように彼女は言った。
「やっぱり、お前は優しい。駄目よ、そんな甘いようでは」
ゆっくりとリラは立ち上がった。その空気は既に少女ではなく、凛とした男装の麗人の仮面をつけていた。血を流した部分を、リラは既に縫い合わせたようだった。
「あいつはもっと容赦ないわ」
軽く手を振り、しっかりとした足取りで歩いていくリラの後ろ姿をルクスは見つめた。
そして、示された対峙すべき男を思い描いていた。




