1 そして暗い雲がひろがる
資料を本棚に仕舞いながら、ゼンはちらりと視線を後ろに流した。その先には彼の上司、シャイネが座っている。
基本何をするにも騒がしく、而して集中している時は呼吸すら忘れるほど己の世界に深く潜る彼女が、何と今はぼーっとしているのだ。椅子の背に深く寄りかかり、少し上を向いて止まっている。ゼンはそのようなシャイネの姿を初めて見た。恐らく何かを考えているのだろう。考えているのは彼女の常だが、書物や器具、そういった物を手に持つことなくただ止まっているのは些かおかしい。彼女の行動は目的地や手段が明確になっていることが殆どだ。このような手ぶらで停止するとは、一体何に躓いているのだろう。少し前まで熱心に何かを調べていたようだったが…。
ゼンはちいさく溜息をついた。力になりたいとは思うが、自分を過信してもいない。出来ることは限られ、そしてその大部分がシャイネの可能範囲にすっぽり包まれている。
俺には俺の出来ることを。
そう思い、そっとシャイネの前に紅茶を差し出す。
「どうぞ」
視界に湯気が入り込み、それに煽られたかのようにシャイネはつとゼンを見た。そのまま、じっと見つめる。
「…ぴーちゃん」
「…何です?」
いつでも真っ直ぐ突き進み、寧ろこちらが体を張ってでも止めなければならない事態の方が遥かに多いこの天才上司は、何故か親と逸れた子供のような目をしていた。
「ぴーちゃん」
もう一度自分を呼ぶ声に本気で心配になってきたゼンは屈み込み、シャイネの顔を覗き込もうとした。するとシャイネの両手がするりと伸び、ゼンの頬に触れる。
「ぴーちゃん」
何かを確かめるかのように、シャイネの指先には想いがこもっていた。その温度に、その距離にその目にゼンは思わず体を離す。
「っと…」
自らの指先から逃げたゼンを追うでもなく、シャイネはまだ何かを知ろうとしているようだった。その見慣れぬ表情から、ゼンは目を逸らした。
「少し気分転換しましょうか、甘い焼き菓子でも持ってきますね」
ゼンは顔を反らしながら心持ち早口で話し、シャイネの研究室を出る。
後ろ手で扉を閉めたゼンは、自分の頬を軽く指の関節で小突いた。
先程の自分の誤作動について思案する。例え誰もが認める変人だとて、いち女性が理もなく異性に触れるべきでは無い。それも顔なんぞ。全く。
この件については、これにて決着。よし、とりあえず外の空気を吸うべし!整理整頓が得意なオカン体質のこの少年は、器用にも自分の脳内の優先順位の組み替えに取り掛かった。しかし、その作業が完了する前に、強制的に脳内は切り替わることになる。
ゼンは廊下の端に寄り、少し頭を下げた。
珍しく険しい顔を顕にしたヨルシカが、第三研究所の廊下を早足で歩いていた。
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スゥハは渡された書簡を机の上に置く。
ヨルシカは不機嫌そうに足を組み、口元を手で隠していた。
「正直それどころではないんだけどね」
「…ですね」
スゥハは宙を睨んだ。
その書簡は、蛇男ルロワナ=タルセイルの祖国からのものだった。以前の引き取りにいく、という半ば宣言のような書簡に対しては、こちらで起きた問題故今暫く調査の時間を、と可能な限り柔和な返答をしていたのだが、本日届いたものに記されていた内容は既に調査師団は出国している、という完全にこちらの意見は無視されたものだった。そして恐らく書簡到着を意図的に遅らせており、記載されている師団到着の日付は、明日である。
下に見られているのは明らかだった。しかし、国力の差を考えると受け入れるしか最早手はない。こうなれば、さっさと蛇男を渡し、即刻出国していただくのが最善となる、のだが…。
「狙いはなんだと思う?」
ヨルシカの口元を覆っていた手は、彼が顔を下げたことにより目を包む体勢になっている。隠れているが、眉間の皺が見えるようだった。
そう、狙いが分からない。今回の行動は強引ではあるが、他国で自国民が罪を犯してしまった際引き取るということに関して訝しむ点はない。ただその場合は罪を裁く機関の官人ないし騎士といった、適した者が任務として行う筈だ。しかし。
「第9王女、ですか…」
その書簡には代表者として第9王女の署名が記されていた。何故ここで王族が出てくる?かなり離れたこのちいさな島国に態々出向く理由が、ルロワナ=タルセイルにあるとは思えなかった。
「何処かでこの方と接点があったのでしょうか」
ヨルシカは渋い表情で頭を振った。
「いや、心当たりはないな。あの国は王太子の勢力は盤石、継承者争いが起こっているという話は聞いたことがない。ましてや第9王女となると、継承者としてのし上がることを画策しているとも思えない。態々この距離を移動し、ひとりの犯罪者を引き取ることで上がる評価などさして無いはずだ。となると」
スゥハはヨルシカの言葉を継いだ。
「個人的な理由がある、ということでしょうか」
「恐らく、ね。それが初めての土地を旅してみたい、というただのお転婆心であればいいんだが」
スゥハは小さく唇を噛んだ。それならばどんなに良いだろう。しかし、嫌な予感は窒息しそうなほどべったりと貼り付いている。
「この件は私が対応する。お前は念の為、滞在中はフードを被っていたほうが良いかもしれないよ」
スゥハの存在は、他国に知られている訳では無い。王太子が対応するのなら、不満は生まれない筈だ。
スゥハは慎重に頷いた。
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明くる日。
長い髪をひとつに束ね、まるで騎士のような格好をした王女がこの島国に降り立った。
凛とした表情を崩し、んー!と思い切り伸びをする。長かった船旅を乗り越えた自分を労うように、肩をぐるりと回した。
「ようやく着いたわね」
隣にいた若い男に声をかける。
男はそれに返事をするでもなく、肺いっぱいに空気を吸い込み、はあぁ、と吐き出した。
「思ったとおり!…いや、思っていた以上に」
両手を空に向かって伸ばし、晴れた空に足跡のように浮かぶ雲を掌でぐっと握る。
そして、心から楽しそうに言った。
「すっげえ気持ち悪ぃ国」




