8 たいせつのかたち
とんとん、とルクスは扉を叩いた。暫し返事を待つも、反応がなかったためそっと扉を開ける。
スゥハの自室。その部屋の主は小机に突っ伏した状態で眠っていた。机には幾つかの書類が置かれている。床に落ちそうになっている紙を、オーマが踏んづけて机の上になんとか残そうとしていた。
「お疲れ」
くすりと笑い、紙を机に戻す。くいとルクスを見上げたオーマのちいさな額をこちょりと撫でた。
「全く、俺等のご主人様はすぐ無理をするよな」
そっと優しく、スゥハを抱き上げる。この行為も初めてではない。基本警戒心の高いスゥハもこの温度は信頼しているのだろうか、夢現の状態でルクスを見上げた。ゆっくりと寝台に横たえ、スゥハの目元に掌を乗せる。
「だいじょぶ。おやすみなさい」
ちいさく「ん」と返事があったかもしれない。少しの間の後、再びスゥハは眠りに落ちたようだ。そっとルクスは掌を外した。
本当は孤児院で調べた自分の過去のことを話そうと思って部屋を訪れたのだが、疲れ切っているスゥハを起こそうとは思えない。髪を撫で、スゥハの白い顔を見つめる。
王たるバクザとの対話から、恐らく擬態の存在は確実なものとなった。しかし、バクザが何故それを許容しているのか、何故説明が出来ないのかは分からない。明確な線を何処にも引くことが叶わないという事態は、ひたりひたりと精神を削る。
部屋を暗くして、自分も戻ろう。そう思ったルクスは、オーマが自分を見つめていることに気が付いた。
「どした?」
スゥハを起こさないように、ちいさな声で問いかける。
「ルクス、スゥハたいせつ?」
思わずきょとんとしてしまった。それはルクスにとって、空って上にある?と聞くほどに当たり前のことだった。
「勿論大切」
「すごく?」
「すごーく」
にひ、と笑いながらルクスは答える。そんな彼にオーマは首を傾けながら、問を重ねた。
「なんで?」
ルクスはオーマを改めて見た。オーマの黒い瞳は、真っ直ぐだった。
「おいで」
ルクスは立ち上がり、バルコニーに出る。ついてきたオーマはするりと柵に登った。窓を閉め柵に肘をつき、やや体を傾けながらルクスは話しだした。
「なんでかなあ…。多分、最初から、なのかな」
「さいしょ?」
「うん。初めて会った時。スゥハ様が笑ったんだ。その時、綺麗だな、嬉しいな、って思った」
「スゥハわらうとうれしい?」
「ん。すごーく」
柵を握り、肘を伸ばして後ろ体重になったルクスは体を動かすことでちょっとだけ照れ隠しをした。
「こいばなじゃん」
「こいばな?」
「ん。でもこれ秘密。俺と、オーマだけの秘密ね」
「オーマとルクスだけ?」
「そ。スゥハ様には内緒」
唇の前に人差し指をピンと立て、ルクスは笑った。オーマは共有されたことが嬉しかったのか、体を横に揺らしている。
「ルクス、スゥハたいせつ」
確認するかのように、オーマは繰り返した。
「ルクス、スゥハのためなんでもできる?」
「そだね」
「ささげる?」
地続きの可愛らしい問の音、しかしルクスは慎重に止まった。オーマの表情は変わらない。ただ確認をしているだけなのだろう。
「捧げる…はどうだろう。それは嫌かな」
横にふりふりと揺れていたオーマはぴたりと止まった。
「なんで?」
「スゥハ様に、俺を押しつけたくはないから」
「おしつける?」
「そ。んーー……。なんて言ったらいいかなあ。…例えば、スゥハ様林檎のパイ好きじゃん。だからたくさん食べて欲しくて世界中の林檎を買い占めたとする。スゥハ様のために買いました!って。でもすると、世界中で林檎のパイが食べられない人が出てくる。多分、その人達を思って、スゥハ様は悲しくなる。俺はスゥハ様を思ってやったけど、スゥハ様は世界中の人にごめんってきっと思っちゃう。…分かる?」
「…………んー…。オーマよくわからない」
「だよね。俺もそう思った。……えっと、スゥハ様はすごく優しいから、自分のために何かが犠牲になるのは嫌がると思うんだ。だったら、苦しみを半分こしてくれるほうがいい、て思っちゃうひと」
「…ささげる、だめ?」
「時には、ね」
少し下を向き、考えるような仕草をするオーマの頭をルクスはちょいちょいと撫でる。
「オーマについてもだよ」
ん?とオーマは頭をあげる。
「オーマも、スゥハ様のためにってオーマを犠牲にしちゃ駄目。スゥハ様は、お前のことも大切に思ってる」
「スゥハ、オーマたいせつ?」
ルクスは吹き出した。
「当たり前じゃん」
オーマは黒い目をきょとんと見開き、何も遮るものがないかの如くルクスを全身で見つめた。
「俺もそうだよ」
優しく、オーマの目の下あたりを撫でる。じいっと、オーマはルクスを見つめたまま、その指に体を預けた。
ひんやりとした夜風が吹く。肩を竦めふと空を見上げたルクスの腕を登り、とすんとオーマは首元に巻きついた。
「あったか」
少し擽ったい毛並みにふふ、と笑いつつルクスはありがと、とこのちいさな白い生き物に言葉を返した。するとお返しとばかりに白い生き物はふす、と息をもらした。
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世界樹の周りには現在監視のため、幾つかの『目』が置かれている。
少しひんやりとした夜風に乗り、一羽の鳥が世界樹に降り立った。羽を休めるように、そっと枝の根元で止まる。
その鳥は、まるで寂しさを紛らわすかのように幹に頭を預け、ゆっくりと目を閉じる。
目は音を拾わない。
鳥の囁きは夜に融け、消えていった。




