3 綺麗なひとの正面には座りたくないよね
「どうぞ…」
ぶるぶると震える手でがちゃがちゃと湯気の立つカップを差し出す。
なんでこうなったんだろう…?
もじゃもじゃ頭に眼鏡をかけた青年、タグリットは頭の整理が出来ないままでいた。
小さなテーブルと椅子。自分の前には青年が2人、腰掛けていた。じっと自分のことを見ている。
あれ、何か俺間違えたか?あ、言葉足らずだったのかしら…?
「あ、えと、粗茶です…?」
にこり、と白い青年が微笑んだので、思わず下を向いてしまった。胸が尋常でないくらい早鐘を打っている。
こ、こんな綺麗な人初めて見た…。どうしよう…。俺なんかが視界に入っていいのかな…。
墓地で墓石の後ろに彼らがいた時には本当にびっくりし、2人の見目の良さに度肝を抜かれ、更にはよくわからない勢いに飲まれまくって、今ここである。確か、背の高い方の青年の具合が悪いからここで休んでいた、どうか少し落ち着ける場所に案内してもらえないだろうか、などといったことを早口で話された気がする。その間、背の高い方の青年は苦虫を噛み潰したような顔をしていたので、もしかしたら吐き気があるのかと思い急いで自分の家に案内をしたのだが…。早まっただろうか。そもそも苦虫ってなんだ、正式名称だろうか?誰かが本当に噛み潰した故の言葉だろうか。
彼、タグリットは混乱すると思考が斜めに暴走してしまいがちである。今この時も、本来ならもっと考えるべき事柄があるはずだが、苦虫とは、に占拠されはじめてしまっていた。
「いただきます」
白い男のその声で、タグリットは無事現実にカムバックした。苦虫の苦くない調理方法について考え始めていた。危ない。
カップを持ち、コクリ、と一口飲む。喉仏の動きから、ああやはり男性だよな、とタグリットは改めて思った。
目の前の、白い男の美しさは人知を超えていた。白い髪、それは年齢による白髪とは明らかに違っている。白銀という表現が正しいのだろうか。潤いのある、滑らかな絹糸のようだ。髪だけでなく、眉毛、睫毛にいたっても白い。髪は中ほどで分けられ、額は顕になっている。耳の位置ほどで切り揃えられた髪は、彼の動き、表情、世界の流れに順応し正しい位置でサラリと揺れていた。白い肌には黒子すら見当たらなかった。唇は血色がよく、この人物にも温かい血液が流れている、という当たり前のことを証明するかのようだ。少し口角をあげているのは礼儀的に、なのだろうか。普段の彼を知らないけれど、唇で知性を感じられるのは何故だろう?呆けて口が開くような油断や、他者を誘惑するために口内をちらつかせるような下品さ、そういった行為とはきっとほど遠いのであろう。閉ざす時は堅く閉まる門戸、そのような意志というか精神の気高さを感じる。長く、白い睫毛の奥にはこれまた不思議な瞳が鎮座していた。赤、と呼んでよいのだろうか。真っ赤、よりは薄い色をしているが、決して桃色の類ではない。燃えるような、しかしそれは火傷をさせるのではなく何かを灯すような、なんとも言えない色彩で…。
そこで、その赤い瞳が今自分をじっと見ていることに気がつき、タグリットは自分がしげしげと相手を観察してしまっていたことに気付き、血の気が一気に干潮のごとく引いていくのを感じた。
「あ、す、すみま…」
顔を赤らめ、慌てて顔を下げ、髪の毛をもしゃもしゃと触る。自覚はないが、彼の癖であった。多分小さい子が毛布を抱くように、彼にとってはすがるべきものなのである。
しまった…。気持ち悪い奴ってまた思われる…。
その時、ぎ、と床が鳴る音がした。
タグリットは恐る恐る、その出処の背の高い男を見た。男は、なんとも面白くなさそうな顔でタグリットを見ていた。
あれ、具合が悪いってい言ってたけど、なんか機嫌の方が悪いような…。
そんな背の高い男を白い男はちらりと一瞥し、ゆっくりと話し始めた。
「無理矢理お邪魔してしまって申し訳なかった。落ち着いて話せる場に移動したくてね」
男性にしては高めの声だろう。だが、決して少年の瑞々しい音ではなく、むしろ波紋のような、不思議と静けさを連想させる音。タグリットはドギマギするのも忘れ、聞き入ってしまった。
「あ、いえ…」
「私のことはとりあえず白と呼んでくれ。これは私の助手のようなものだ。そうだな、ルークでいいか」
「はい、俺の価値とは」
「白さん、ルークさん…。あ、お、俺、はた、たタグリットです」
「タは幾つ?」
「あ、や、ひひ一つです。一個です。すみませんタグリットです」
「タグリットはここで一人暮らしをしているの?」
「ははい。数ヶ月前に母ちゃんが死んで、それで」
「そっか。大変だったね」
「あ、や、えと………はい……」
「仕事は?」
「母ちゃんが花を、売っていたから、それを続けているんですけど、一応。でも俺は商売が苦手で、その、」
「うん。頑張っているんだね」
タグリットの喉が思わず零れそうになった音を飲み込んだ。少し下を向き、中指の関節で眼鏡を押し上げる。それはまるで零れそうな涙を押し込むような仕草のようだった。
「お母様の墓にはいつもあの花を?」
「…はい。母ちゃんが好きな花で。父との思い出みたいで」
「ロマンチックだね」
「いや、どうなんでしょう。どんな思い出かは教えてくれなかったから」
実際、タグリットに父親の記憶は無かった。物心ついた頃から母が男親も兼ねていて、そして子供心にあまり追求してはいけない事柄であることを、なんとなく理解していたから。自分にとっては、母がいれば満足だったし、死んでいるならきっとそう母が言うであろう。言わないということは、そうではないということ。そしてそうではないということは、父が自ら出ていった、ということだ。態々捨てられたことを掘り返す必要などどこにもない。
「プロポーズした場に咲いていた、とかじゃないかな。夜、ふたりきりの場で。とても素敵だね」
「いや。まぁ、どうなんでしょう」
「何にせよ、花束でないことは確かだね」
タグリットは、もじもじ遊ばせていた指を止めた。
「月路花を切り花にすることは出来ないから」
初めて、タグリットの視線に警戒のようなものが混じった。ああ、この人もか…。警戒、そして少しの悲しみ。
「用件、は、何ですか…?」
「何故、月路花は咲き続けている?」
ぐ、と握りしめた両手。怒りを出してはいけない。悲しみも出してはいけない。この掌から、零さない。冷静に。まだ、決まったわけじゃないから。
「それを聞いて、どうするつもり、ですか」
自らを落ち着かせるように、一句一句、机の上に押しつけるように言葉を絞り出す。
大丈夫。今回も逃げられる。
そんな震える子猫のような状態のタグリットを、表情を変えずに見つめてきた白という男はぽつり、と言葉を返した。
「救いたい樹があるんだ」
思わぬ返答だったタグリットは、思わず顔をあげ、白をじっと見た。勢いよく顔をあげてしまったから眼鏡が多少ズレているが、そんなことも気にならない。
「私達はずっと方法を探している。君が、もし何か知っているのであれば力を貸していただけないだろうか」
「樹…?」
「今、詳しく話すことは出来ない。ごめんね。でも、咲き続ける月路花のことを聞いて、もしかしたら、と思った」
ゆらゆらと揺れるタグリットの瞳をじっと見つめる白から、真摯さと微かな必死さを感じた。
「私達を手伝ってはくれないだろうか」
分からないことだらけだ。しかも、詳しくは話せない、なんてもってのほか。しかし何故だろう。この白という、恐らく名前すら偽っている男は、本当のことを言っている気がする。そして、それは自分にとってもきっと、多分、恐らくとても大切なことのような…。
んんん…、困った…。俺、実は面喰いだったのだろうか…。
しかし、自分にも分かっていた。このひどく美しい人間の頼みだから、というだけではきっとここまで心を動かされなかっただろう。樹を救いたい、なんて突拍子もない理由、嘘だったらもっと違う、現実的に深刻な問題を持ってくるはずだ。
「ほん、本当に、樹ですか…?」
まずはそこから。タグリットは、恐る恐る薄氷に一歩踏み出してみた。踏み抜いた時、ただの水たまりであるか底のない湖であるかは、まだ分からない。
「ああ。花ではなく、樹だ」
この人達は、大丈夫かもしれない。自分が線を引きたいのは、花と樹ではない。そこは問題ではないのだ。
少し警戒を解いたタグリットの様子から、初めて白は眉根を寄せた。
「他に誰か来たんだね。何を言われた?」
反応しては駄目なのに、肩がびくりと震えるのをタグリットは防げなかった。
「あ、いえ…。詳しくは。ただ…」
勝手な行動をした肩を叱るように、触る。
タグリットはしばし逡巡した。言ってもよいのだろうか。特に口止めもされていない、というかどこの誰とも分からないから、確認のしようもないが。それよりなにより、口に出したい内容ではなかったのだ。ただ、ここで説明をしないで切り抜けられるとも思えなかった。目の前の2人の様子から、タグリットは観念をする。言葉にしようとすると、口の中が穢れる気がする。ああ、今苦虫ではなく毛虫が口の中を這いずり回っている。吐き出してしまえ。
「生き物にも使えるのか、対象が死んでいても使えるのか、とか…」
ルークがちらりと白をみるのが分かった。白は、タグリットから視線を外さない。
「君はなんと答えたの?」
「出来ません、て…。俺は本当に植物しか扱えないし、それに何だか嫌な感じだったから…」
うん、と白は労るように相槌を打った。
「そうだね。恐らく、その方が安全だ。その人は納得したのかな?」
「分かりません…。とりあえず逃げたんですけど…」
「じゃあ、家はバレてないんだね」
「はい、多分」
「どんな人だった?」
「男が2人で、多分上下関係がある感じでした。主人ぽい人は、なんか…蛇でした」
「蛇?顔が?」
「はい、いや、うーん。全体的に雰囲気?が…。あ、違う、あいやそれもありますけど、その人の首飾りが蛇?だったので、なんか気持ち悪くてその印象に…」
「なるほど」
「はい。なんか蛇が剣に串刺しになってるような装飾で…。あら剣じゃなくて枝だったかな…?とにかく、趣味悪いなあ、と…」
実際はその時、その男の顔を見られずに下を見ていたから首飾りが目に入ったのだが…。自分の気の弱さを露呈しているようで恥ずかしく、なるべく詳細を伝えようとしてもその時の服装を説明したとてあまり意味がない事に気がつき、タグリットは情けなさで居た堪れなくなった。
しかし、この2人はタグリットに侮蔑の言葉を浴びせることはなかった。それどころか、白とルークは真剣な表情で目配せしていた。
「オーマ、聞いているな。周辺を調べてくれ」
オーマ?
タグリットはきょとんとしたが、何故か微かに「あい」という返事のようなものが聞こえた気がした。
え?と思い、タグリットは耳を澄ませてみる。しかし聴こえたものと言えば少し開けてある窓から零れ入ってきた、鳥の羽音くらいだった。
「もし秘密でなければ、君がどうやって月路花を保たせているのか、聞いてもいいかい」
オーマについては触れず、仕切り直しとばかりに白が質問を投げかけた。
んんん。とタグリットから複雑な音が出る。言うは易し。理解は難し。
「え、と…。信じてもらえないかもしれませんが…、植物に聞いてみる、感じで…」
「聞いてみる?」
「はい。俺は小さいころから、相性のよい植物とは意思疎通が出来るというか、会話、まではとてもいきませんけど…。だから、かえって花屋としては大変で…。月路花は、咲くのが一瞬なので、もう少し長く咲いていてもいいよって子が多いんです。だから、その子たちに甘えて、母ちゃんの墓で咲いてもらってます」
「どうやって咲き続けているの?」
「ええと、いいよって言ってくれた子の時間の速さを変えるっていうか…。あの子達も呼吸をするので、呼吸をすごくゆっくりにするイメージです」
「君はどうしてその方法を知っているの?」
「母ちゃんから教わって…。母ちゃんは出来なかったけど、やり方は知っていたから」
そう、この方法は母から教わった。母は、あの人はよくこうやっていたのよ、と愛おしそうに話していた。花畑で、座る母の隣に寝転んでいたあの頃。
そう、こうやっていたのよ…。
軽く右手を握る。親指が自分の目の前に来るようにし、人差し指だけ少し握りを緩める。人差し指の第一関節と第二関節の間を、親指の腹で円を描くように滑らせるのだ。
母はゆっくりと円を描く自分の指を、愛おしそうに見つめていた。離れてはまた近づく、華やかなダンスを踊る恋人のように。
「母ちゃんは、多分父から教わったんだと思います」
白が小さく頷き、言葉を続けようとした時、また不思議な声がした。
「だめ、もうみつかってる」
子供の声?タグリットは部屋の天井や窓にきょろりと目を向けても、当然ながら誰もいない。
「その2人組に会ったのはいつだ?」
ほぼ初めて、ルークがタグリットに質問を投げかけた。その声色が決して穏やかなものでは無かったため、タグリットはじわり、と嫌なものが迫る気配を感じた。
「ええ、前墓に花を供えた時だから、3日前です」
「その時、話しかけられた以外に何かされたか?」
緊迫した空気に、なにも理解が出来ていないにも関わらず焦ってしまう。何だ?何が起きるんだ?
「あ、えと…、ええと…、あ、なんか顔を触られる?頬を撫でられる?みたいにされそうだったので、避けました、なんか気持ち悪くて…。あ、失礼だったかな…」
「避けたんだな?」
「はい。でもなんか代わりに腕辺りを撫でられて…。服の上からだったのでまあ我慢しましたけど、ちょっとやっぱり気持ち悪かったなあ…?」
何かに飲み込まれそうな恐怖と、それに飲まれまいとする気持ちからなんだか早口のくせにぼんやりとした口調になってしまった。ああ!こんな意気地のない自分が情けない!
ガタリ、とルークが席を立ち、タグリットの腕をぐいと掴む。ひょわわ、と変な声が出てしまった。
ルークの視線がタグリットの左腕、肩の下辺りで止まる。雑に、右手をまるでそこに飛ぶ蚊でも払うように、ふ、と振った。すると、タグリットが着ている上着に指の痕のような一筋の光が浮き出て来た。
「追跡魔法だ。位置がばれてる」
「ええ?!」
何故?!追跡魔法の存在は勿論知っているが、自分のような一般人にはおおよそ一生関わりのないものである。大事件とか、重要参考人とか、そういった物事を対象に偉い凄い方々が用いるものだ。何故しがない花屋の自分が、追跡されなければならないのか。
「どうします?」
ルークが白に尋ねた。
「どういう繋がりかは分からないが。もし関係があるなら、見過ごせないね。接触してみようか」
「姿を見せて?嫌ですよ、何かあったらどうするんだ」
「向こうだって、おおっぴらに事件には出来ないだろう。いつかは接触しなければならないんだ、私達に非はない。それに」
白がルークを見つめる。
「お前がいるだろ」
それはまるで花が咲いたあと、種が生まれるように。どんなに今日が悲しい日であっても、明日という別の日が訪れるように。お前がいることは、普遍のこと。絶対の信頼と、ぐうの音すら出させない、これは殺し文句。
この2人って、なんだ…?一瞬不安を忘れ、タグリットは彼等を見つめてしまった。
脅迫的な太鼓判を押され、ムスッとしたルークはああもう!といって乱暴に椅子に座った。その隣で、明らかな原因である白はふふ、と柔らかく笑っている。
「さて、タグリットさん」
は、はい、と答え、なんとなく自分も着席し直し、背筋を伸ばしてしまった。白の声には、従ってしまう力のようなものを感じる。
「恐らくまもなく、その気持ち悪い蛇の一味がここを訪れる。私達は商売敵となる訳だ。相手の目的や素性はまだ分からないが、私としては現時点、君は彼等に関わるべきでない、と思っている」
こくり、とタグリットは頷いた。
「君を一人で彼らと会わせるのは心配だし、私達としても少々蛇の一味の実体には興味があるんだ。だから、ここに残って交渉の真似事をして、反応を見てみようと思う」
「交渉、ですか」
「うん。私達は君の協力がほしい。蛇の一味も、君に関心がある。それを、金で解決しようとするのか、力で解決しようとするのか、君に選ばせるのか…」
「蛇の一味って、気に入ってます?」
頬杖をつきながら、ぶすっとルークが突っ込んだ。
「まあとにかく、先ずは知性のある生き物として、話し合いから始めよう」
にこり、と組んだ両手の上に顎をのせ、白が微笑んだ。
まるでタイミングを合わせたかのように、扉を叩く音がしたのは、その時だった。