4 ひとりにしない
夜着に身を包んだスゥハは、自室の窓辺に立ちそっと右腕を前に伸ばしてみた。
白い肌には黒子ひとつ見当たらない。
くるり、と腕を反転させ、掌を眺める。
指先の腹、まるで年輪のように刻まれた指紋。指紋はその人固有のものと言われている。スゥハがスゥハである証。しかし、この紋は本当にひとつきりだろうか。
あの後、第三研究所のスゥハの執務室にて話し合いが行われた。
世界樹が擬態したものだとして、何が擬態しているのか?何故、擬態しているのか?という問題について、解決の糸口は掴めなかった。
何が、という点は例えば切り倒すなどの行為を行えば、何かしらの反応はあるかもしれない。だが余りにも危険過ぎる。現状世界樹はこちらに直接的な害を与えている訳ではなく、寧ろ事態悪化の兆しを衰弱という形で合図している。何が、という点は不明だが、何故、というところに視点を置くとスゥハ達のため、とも受け取れるのだ。万が一世界樹を切り倒すことにより取り返しのつかない状況になることは避けたかった。
覆水盆に返らず。
溢れた水は、もう還らない。
水、か…。
スゥハは窓に映り込んだ自分の姿を見つめた。
枝の紋の男、そしてオーマは水を媒介として魔獣の世界とこちらを繋げることができた。魔獣が関係しているのだろうか?しかし、1年前オーマは紋の者たちは世界をまもる、と言った。うまく噛み合わない。彼等はあれから接触をしてくることはなかった。スゥハの選択とやらを待っているのだろうか。もし、期限が迫ってしまった時、何が起こるのだろうか。
トントン、と扉が叩かれた。こんな時間に訪ねてくる者の心当たりは、一人しかいない。だがルクスであるなら、勝手に入ってきそうなものだが…。
黙ってスゥハは扉を開けた。案の定、そこにはルクスがいた。
「どうした?」
そっと後ろに隠していたボトルとグラスを2つ胸の前に差し出し、悪戯っ子のようにルクスは笑った。
「ちょっとだけ夜更かししません?」
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「ん、美味しい」
冷たい果実の汁が身体にじんわりと染み渡る。その瑞々しい冷たさが、不必要に体内で上昇してしまった何かを落ち着けてくれるようだった。
「ふふん。腕がよいのです」
「お前が作ったのか?」
「そですよ。美味しそうなのがあったので、拝借しちゃいました」
「何やってるんだか」
2人は寝台の上に乗り、ちいさな夜更かしをしていた。ルクスは胡座をかき、スゥハは足を伸ばしていた。2人だけの、正装を崩した時間。
「だって、スゥハ様絶対好きだもん」
スゥハは目を細めた。
「ありがとう」
膝の上に肘を置き、頬杖をつきながらルクスはへにゃりと笑った。
「俺は、スゥハ様の好みを知っています」
グラスを脇に置きながら、改まってなんだろうと思いつつスゥハは軽く頷いた。
「考えていることも、だいたい分かります」
ルクスはスゥハに手を伸ばし、目にかかっていた髪をそっと流す。
「でも、全部じゃないんです」
じっとスゥハの目を見つめる。解き明かそうとするのではなく、解きほぐそうとしてくれる、ルクスの目。扉を叩き、スゥハが開けるのを待ってくれている。
「靄の段階だと、まだ誰かに話したりしたくないと思うんです。曖昧だし、無責任だし、まだ自分の中に留めとこうって。でも、その靄って気付くと泥になっているんです。そうすると、もう掻き出せない。身体の奥で固まって、身動きが取れなくなる」
温かいルクスの掌が、スゥハの頬を包む。
「俺達は隣に居て、言葉がある。形にならなくてもいいから、話しましょ。すれ違いたくない」
もう片方の手で、ルクスはスゥハを引き寄せた。
「ひとりにならないで」
すっぽりと包まれたスゥハは、不思議な風景を見た。自分の胸に潜ませていた暗い海の潮が引いていく、そんな情感。
そっと、ルクスの背中に腕をまわす。
「…怖いんだ」
ぽつりと言葉を落とすスゥハに、ん、とルクスは相槌を打つ。
「私は何かを覚えていない。もし、私が擬態した何かで、それを忘れているだけだとしたら…」
ん、とまた答え、ルクスはスゥハの髪に頬を寄せた。
「私じゃなくても、擬態した誰かが、ずっと周りを騙しているかもしれない。何のためにそんなことをしているのかも分からない。私は何をしたらいいのか分からない」
きゅ、と抱き締める腕に力を込める。
「…怖い」
吹き飛ばされそうな自分。いっそ飛ばされた方が楽なのかと思う時もある。だが、自分には恐らく放棄してはいけない責がある。先の見えない風の中、根付きたいと願う大地は、この腕の中だ。
そしてルクスの腕は、吹き荒れるものから守ろうと包んでくれる。
「…木を見て分からないことは、森を見ましょう。森を見て分からないことは、もっかい木を見ましょう。それでも分からなかったら、空とか、地面とか、色々見ましょう。大丈夫、皆います」
つ、と身体を離し、スゥハの顔を両手で包む。
「スゥハ様には俺がいます」
ルクスはぷに、とスゥハの鼻を摘んだ。スゥハはぷるぷると顔を振り、それを避ける。2人は笑った。笑って、どちらからともなくゆっくりと額を合わせる。
「俺は、明日ダルクのじいさんのところに行ってこようと思います。孤児院は素性の分からない子も多いし、擬態しやすい側面はあるかもしれない」
世界樹がもし擬態している何かだとしたら、それは回復や衰弱も表せている。ということは、子供から大人に成長していくことも可能かもしれなかった。そして、ルクスは孤児院出身だ。恐らくまず自分を調査しようと思っているのだろう。
「分かった」
スゥハはルクスの頬に触れた。
「お前には、私がいるからな」
虚を突かれたルクスは一瞬止まり、幸せそうにふわりと笑った。




