2 時の糸
タグリットは生きた心地がしなかった。
王宮の馬車とはいえ、大森林を通ると流石に揺れは防げない。ガクガクとする眼鏡を押さえるのも諦めてしまった。しかし、彼が生きた心地という謎の大地を喪っている理由はそれではない。ひとつは、王族であるスゥハが馬に乗っているのに自分如き平民が馬車に乗っていること。何故なら俺は馬に乗れないんです!乗る機会なんて庶民にはないんですよ!心の中で泣きながら自分の不敬っぷりを謝罪していた。そしてもう一つが、これからの作業は自分にかかっている、という重責からだった。
スゥハ、ルクス、ミハクそして数人の護衛たちが騎乗し、馬車の中には自分とシャイネ、ゼンがいた。この大所帯は世界樹に向かっている。タグリットが世界樹の時間を動かせるかどうか、いよいよ実践にうつるのだ。
そもそもタグリットは自分の能力を理解していなかった。幼少期に母が教えてくれたやり方で、花が咲く期間を長く保てたことから寿命を延ばせるのだと思っていた。ところが偶然にも種を一気に開花まで進めてしまったことがあり、そこで自分は寿命を延ばすのではなく、成長速度を調整出来るのだと気付いた。どこまでが可能なのか、一度森の中で試したことがある。木の苗を爆発的に成長させ、見事な木に進めることが出来た。正直恐ろしかった。これは自分なんかが保有していい能力ではない。そこから、タグリットは自身の能力を知ろうとするのをやめたのだ。俺は静かに生きていたい。この力は、母ちゃんの墓に供える花にこっそり使うくらいが丁度いいんだ。そう思っていたのに…。
あれよあれよと第三研究所に巻き込まれ、シャイネという探究心の権化にひん剥かれる日々。そこで芽生えたゼンという少年との友情。しかし、その日々で自分はまたしても勘違いをしていたことが発覚したのである。タグリットの能力は、成長速度を操るものではなかった。時間の逆行も可能で、つまり、タグリットの能力は植物の時間そのものの操作だったのだ。何度も失敗はしたが、枯れた花が再び鮮やかに咲き誇ったとき、嬉しさよりも恐ろしさが勝っていた。万歳しているシャイネとそれを取り押さえるゼンを遠くに感じていた。頭の中に、ちらりと蛇男の顔が浮かぶ。本当に、能力の対象が植物だけで助かった。これは人間が持っていい力ではない気がする。自分に対し、薄気味悪さを感じつつも能力の精度を上げてきた。何も、死者を蘇らせる訳では無い。樹を元気な頃に戻せたら、国の危険が少し遠のくらしいじゃないか。ならば、やってやる。そう、自分に言い聞かせていた。
「タグリットさん」
ゼンが窓の外をじとっと見つめたまま固まっているタグリットに声をかけた。
「今回限りじゃないから、無理しないで下さいね。今日は探るくらいでも大丈夫ですから」
「う、うん」
もじゃもじゃ頭をくしゃりと触る。そうだ。自分の能力は、あわよくばの時間稼ぎ。根本的解決を狙っている訳では無いから、出来たら御の字、という位置に居ればよい。ただ、この必死になっている人たちを更に追い詰めたくはなかった。今までタグリットは隠れるように生きてきた。無理せず、目立たず、変わらない日々を。そんな自分が、他ならぬ自分の力に怯えつつも、その力でもって、支えたいと思っている。正直なところ、ぐちゃぐちゃだった。ちらりと窓の外から目線を外す。馬車内では、書物を読み耽ろうとする奇人シャイネと「こんな揺れる中で本を読んだら酔うから、今は駄目です!」とそれを奪おうとするお母さんゼンがすったもんだしていた。こんな自分が頑張ろうとするなんて不思議なものだ。変人ばかりだが、彼等を安心させたかった。かちゃり、とずり落ちた眼鏡を指の節で押し上げる。キッとタグリットは前を向いた。ただ残念なことに、直ぐに眼鏡はまたずれた。
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「いいかい?絶対に、無理は禁物だ。何かおかしいと感じたら、直ぐに中止してくれ。タグリットの安全が最優先だ。分かったね?」
両肩を触られ、覗き込むようにタグリットの目をじっと見つめながらこのとんでもなく美しい白い男、スゥハは話す。至近距離で美の暴力光線を浴び、タグリットは息を殺しながらこくこくと頷いた。その様子を見てにこりと美の魔人は微笑み、改めて肩を優しく叩いた。
「大丈夫!ちょっと無理しても、身体が爆散するとかはないっす。鼻血が出るくらいだもんね!」
短い付き合いだが、シャイネには励まそうという項目は存在しないことをタグリットはそれはそれは激しく理解していた。だから、これは彼女のただの本心。それが逆に彼の心を落ち着かせた。
そう、大丈夫だ。ママドの樹は何度か試した。糸は見つけられる。
「始めます」
そう静かに合図を出したタグリットは前に出た。まるで天秤のように、他の者は後ろに下がる。
ゆっくりと右手を前に伸ばし、左手は右手首を握る。目を閉じ、右手を開いた。
目を閉じた先で、タグリットは糸を探す。水を掻き分けるように、雲を追い越すように、タグリットの精神は世界樹の中を進む。植物の精神は、まるで天から細い透き通ったカーテンが幾重にも降ろされているような世界で構成されている。その中で一筋、タグリットが干渉出来る時間の糸がある筈だ。ゆらり、ふわり、様々な筋が揺れる。焦るな、大丈夫…。タグリットの額にじんわりと汗が滲んできた。右手親指が、ゆっくりと人差し指の横っ腹で円を描く。子供の頃は分からなかった。この行為は、植物の精神世界を泳いでいたのだ。今なら分かる。泳ぎついた先、時間の糸がある。
ぴたりとタグリットの指の動きが止まった。苦しそうな息が漏れる。寄せた眉根から、少しずつ力が抜けていく。タグリットはゆっくりと目を開けた。手が震えている。
「すみません…」
小さくタグリットが呟いた。
「駄目か」
スゥハが確認をする。右手は前に突き出したまま、タグリットはこちらを振り返った。その表情は、絶望よりも、混乱だった。
「いえ、そもそも…」
ずれた眼鏡の縁によって額から流れた汗が本来進むべき方向から曲げられ、ぽたりと非ぬ処に落ちた。
「これは樹ではありません」
タグリットの言葉は続く。
「別のなにかです」
ただ、辿り着きたいだけなのに。
どうして、進みたい方向に歩むことが出来ないのだろう。




