11 時を戻して
もぐもぐもぐ。
見ていて気持ちが晴れるほどの食いっぷりである。
「病み上がりで、よくそんなに食べられるな」
嬉しさを奥に隠し、呆れという音で気持ちを包んだスゥハが声をかけた。もぐもぐもぐ、こくん、としっかり飲み込んでから、ルクスは返事をする。
「俺は成長し続ける男です」
何を言っているんだ、と笑いながらスゥハは果物を口にする。本来、自分は少食で特に朝は抜いても支障はない。だが、ルクスとの朝食は別だ。頬張る彼をみていると何故か美味しそうに感じるし、不思議なことに実際胃に入るのだ。瑞々しい果物の生命力が自分の体に浸透していくのが感じられ、ちょっとだけ誇らしくなってしまったりする。そんな時間がスゥハは好きだった。そして、今朝はもう一つ面白い光景が加わっている。
ちら、ちら、とルクスを見るオーマ。気にしていない素振りをしているが、ルクスのことが気になって仕方がないのが溢れている。まるで先住猫と仲良くなりたい新参猫のように、よく分からない距離感でうろうろしているのだ。スゥハはオーマに気付かれないように横を向き、堪えていた笑いを少し放出した。
「そういえばオーマさ」
突然話の矛先が自分に向いたオーマは、まるでルクスがそこにいたことを今初めて気付いたかのような反応をした。その思春期のような小芝居に、スゥハは声を出してしまいそうな口を手で隠した。
「姿って何にでも変えられるの?」
「きおくあるもの、なれる。でもおおきいの、むずかしい」
おお、すご。とルクスは素直に称賛する。
「目の色も?今日変えたよな、どしたの?」
そう。オーマの目の色は海のような空のような、不思議な色合いの青白いものから真っ黒なものに変化していた。その潤んだ黒い目でひとつ、瞬きをしたオーマは答えた。
「オーマ、えらんだ」
えらんだとは、こっちの色に決めた、ということだろうか。ふうん?と少し考えたあと、ルクスは言った。
「青いのも綺麗だったけど、黒いのも可愛いね」
一瞬きょと、と止まったオーマだったが、少し下を向き、体を小さくふるふると左右に揺らし始めた。それが褒められた嬉しさや羞恥を隠している仕草と分かり、スゥハはとうとう肩を小刻みにに震わせてしまう。
「咽たんです?」
心配そうにスゥハに声をかけるルクス。
「逆にお前には腹が立ってきた」
「ええ?そういう脈絡のない攻撃はですね、防御してないから凄く痛いんですよ?」
喧しくも温かい時間。きっと、最期の時に思い出すのはこういったなんでもない時間なのではないだろうか。そして、そういう時間は束の間しか続かないことを、スゥハは理解している。
飛び込んできた報告により、和やかな時は唐突に終わりを告げた。
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一行は馬を奔らせていた。スゥハ、スゥハのフードにオーマ。そしてルクス、ミハク、あの場に報告に来た者がひとり。
世界樹の状態は、朝と夕暮れに1回ずつ確認することになっている。島内全域の治安に気を配っている中、流石に樹の観察だけに常時人員は割けなかった。そして今朝担当の者が巡回したところ、予想外のことが起きていたのだ。
「昨夜の報告では、依然世界樹は変わらず、徐々に衰弱していっている状態だったとのことです。ですが今朝、私が見た時は逆に、明らかに回復しておりました」
馬を奔らせながら、慎重に再度報告する。
「巡回はひとりで行っておりました為、直ぐ様戻りご報告した次第です」
手綱を握りながら、スゥハは考えていた。書庫にあった手記、あれは確かに世界樹の復活が描かれていた。だが、事態がもっと悪化した後、と受け止めていた。今回は違うのか?
…今回とは何だ?私は何かを思い込んでいる?そもそもの思い違いがあるのか?
答えが出ないまま、一行はユール大森林を抜けた。
肌を撫でる澄んだ空気。そこではふわり、と光の粒たちが世界樹の周りを舞っていた。報告の通り、まるで時が巻き戻ったが如く、スゥハたちが初めて見た時と寸分変わらぬ状態で世界樹はそこに存在していた。
「何故…?」
幾分速度を落としたスゥハが呟く。その時、ルクスが鋭い警告を出した。
「スゥハ様!」
他の者も、皆その警告の理由に気が付く。
世界樹のもとに、ひとりの男が立っていた。
「あいつだ」
ルクスが言う。それは彼を水の下に落とし、魔獣の巣に封じた男だった。男はゆっくりとこちらを見た。逃げる素振りはなく、スゥハたちが近づいてくるのをただ待っていた。
ひらりと馬から降り立ったルクスは、迷うことなく剣を抜く。そんなルクスを、男は複雑な表情で見つめていた。
こちらに勝つ、または逃げ果せる算段があるのだろうか。両腕を脇におろしたまま、ただこちらを見ている男にはとても策があるようには見えなかった。無気力、と表現できるその雰囲気はしかし、あと一歩進めば終わりとなる、上がりを理解しているような感でもあった。
スゥハのフードからオーマが顔を出した。そのオーマを見た途端、男の表情が初めて動く。
「なんということを…」
それは悲しみとも、懺悔ともとれる、虚しい音だった。
「お前は何を知っている?」
スゥハの凛とした声が、男の寂莫を断ち切った。
「言え」
断罪する者とされる者。その構図にも関わらず、男は憐れみを含んだ視線をスゥハに向けた。
「……檻の子。貴方が選ばなければなりません」
「檻の子?」
「私は盤上にすら上がれない。この世界には、指し手がいないのです。だが、貴方は駒だ」
「どういう意味だ」
「意味など…。それは無数です。無に等しいほど」
ルクスがちいさな音を立てて柄を握り直す。しかし、男は動じなかった。
「時は少し戻されました。が、それも2年とないでしょう。…檻の子」
男がスゥハを見つめる。
「今なら、貴方のお母様の心が少し分かる気がします…。私が終わる者だからかもしれませんね」
は、とスゥハが息を漏らす。この男、何を知っている?!
「この世界はとても優しく、とても美しい。…ですが、世界とは、集団とは、なんと薄気味悪いのでしょう」
不思議な表情だった。愛する我が子が悪魔だったかのように、悲しい愛しさが漏れ出していた。
「………」
男はちらりとルクスを一瞥し、瞼を閉じた。
そして、ふぅ、と深い息を吐くと世界樹に寄りかかり、ずるりと座り込んだ。
ゆっくりとルクスが近づき、男の前に屈み込む。剣を降ろし、そっと首筋に指を這わす。
ルクスが口を開く前に、全員が分かっていた。
男は既に事切れていた。
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あれから1年程が過ぎた。
相変わらず首元で丸くなっているオーマをそっと撫で、スゥハは執務室の天井を見た。
自分を檻の子と呼んだ男。母を知っていた男。戻された時間。駒である自分。
優しくて、美しくて、
薄気味悪い、
世界。
指し手が不在の世界。
シャイネと話をするため、ルクスが出ていった扉を眺めた。
今ゆっくりと、世界樹は衰弱を再開している。




