9 幼いことば
そっと開いた先の世界。視点が定まる。ぴくり、と指先を動かすことで、脳が起動する。
ルクスは寝台に横たわっていた。血液と共に記憶が身体を廻る。ああ、そうだ。
ゆっくりと顔を横に向ける。寝台の傍らに座っていたスゥハはその動きに気が付いた。
「ルクス」
そっとスゥハは声をかけた。そんなスゥハを見つめながら、ルクスが彼らしくもなく時間をかけ、口を開く。
「…おはよ」
それはくしゃりと笑う、スゥハが何度も見てきた表情。思わずこみあげてくるものを押し殺すため、スゥハは鼻梁に皺を寄せた。その顔を見て、ルクスは心から綺麗だな、と思う。
「…よく寝ちゃいました」
えへ、と笑うルクスにスゥハは強く包まれたくてたまらなかった。しかし、意地を張って普段通りの自分を演出する。
「この寝坊助」
ぺち、と人差し指の腹でルクスの額を叩く。いた、とふざけながら、ルクスがゆっくり腕を動かしスゥハの手を包む。そしてまるで子供の遊びのように、左右に優しく揺らした。無言で、ふたりは見つめあった。衣擦れの音が、柔らかく耳に届く。
「…」
スゥハは、伝えたい言葉が分からなかった。
また会えてよかった?無事でよかった?もう離れるな?ひとりにしたら許さない?
すべて本当なのに、すべて完全には一致しない。口に出した途端、自分の感情の形とは全く別のものになってしまいそうな不安から、何も言えなくなってしまう。
「スゥハ様」
しかしルクスは、当然の如くいつもスゥハを明るい場所に連れて行く。
「よいしょ」
彼はもう片方の腕を伸ばし、スゥハを引き寄せた。きゅ、と存在を確認するかのように抱き締める。
「ただいまです」
スゥハの髪を撫でながら、ルクスが言った。彼の胸に抱かれる形になったスゥハの耳に、肌に、ルクスの心臓の音が響く。もう駄目だった。スゥハは熱を帯びた目頭に抵抗せず、流れる涙をそのままにした。指先たちを萎ませ、ルクスの服を掴む。
「…喋ってもいいか?」
この甘え下手な美しい男の言葉に、ルクスは目を細める。
「許可しましょ」
「お前が、消えたと聞いて、怖かった。…血塗れの、お前を見て、本当に、怖かった。お前が、もし…。…、お前が生きてて、本当に、よかった」
まるで訴え方が分からない子供のように、拙い言葉たち。しかしそれはスゥハが必死に紡いでいる心の内だ。特殊な環境に置かれ、自分の存在自体に恐怖を感じているスゥハは己の奥底の感情を明かさないことに慣れきっている。それが泣きながら、震えながら、必死に伝えようとしてくれている。ルクスは自分の中にある扉という扉は全てスゥハに繋がっているような、自分という存在はどうなっても彼に行き着くような、不思議な感覚になった。スゥハは顔を上げてルクスを見つめた。
「お前は、私と、いてほしい」
ルクスは息をのんだ。何という殺し文句だろう。この男は分かっているのだろうか。スゥハという男は、人を束縛しない。まるで自分には縛れる価値などないと思い込んでいるが如く、選択は自由にさせる人間だ。そんな男が、「いたい」という自らの願いを超えて、「いてほしい」と求めた。ただ必死に伝えようとしているスゥハは気付いていないだろう。その大きな違いに。そして、それにルクスが喜びを感じていることを。ルクスは見つめ返す。
スゥハの耳に口を近づけ、ルクスは返事をした。彼だけに聞こえるように。自分と、彼だけに。
ほ、とスゥハの身体から緊張が解けた。少し気が抜け、目を閉じ息を吐いたスゥハを見てルクスは堪らない気持ちになった。彼の後頭部に手を回す。ルクスのその動きに気付き、再び目を開けたスゥハは視界に入ったルクスの唇を見て、唐突に自分がしたことを思い出した。必死過ぎて何も考えられなかったが、そうだ、自分は…!
がばり、と身を起こし急ぎ立ち上がる。慌てふためき、無意味に衣服の乱れやら髪を直し始めたスゥハに、ルクスはきょとんとしてしまった。
「どうしました?」
ルクスの声にびくりとしたスゥハは、真っ赤になる自分の頬を隠すように押さえ、後ろを向いた。
「あ、いや、あれだ…乗っかってしまってすまない、重かっただろう」
ルクスは覚えているのか?何と聞けばいい?あれ、覚えていなくとも説明したほうがいいのか?!
「全然平気なのに…」
ちぇー、とのんびりと返すルクス。ああ、これは確実に覚えていない!!ひ、秘密にしておくべきか?いやそれは誠実ではない。だが何といえばいい?事後報告でしかないのに!私の自己満足のために説明するのか?!
突如挙動不審になったスゥハに、ルクスは声をかける。
「いやほんとにどうしました?」
「あ、そうだ、水だな!よし水を飲もう。新鮮な水をだな、私は用意しようと思う。是非期待していてくれ。では行ってくる!」
ぎくしゃくとしたらしからぬ動きで、スゥハは部屋の外に出た。ぱたりと扉を閉め、その場にずるずると座り込む。真っ赤な顔を両手で包み、小さくうめき声を漏らす。
「………私の馬鹿」




