1 首ってつくところを温めると良いって言うよね
カタン、とスゥハはペンを置き、目を瞑った。瞼を閉じていても、何かを見つめている感覚が抜けない。脳は常に思考を巡らせ続け、走り続けるそれに精神は伴走する。休まなければならないことは分かっている。だが、まるで休息が罪であるかのように、自分を止めることが出来ないでいた。スゥハは少し頭を傾け、首元にあるものの温度を頬に感じさせた。首元に巻き付いた白いふわふわとしたもの。柔らかい毛並みが少し擽ったいが、この温もりに絆されてスゥハはそのままにしている。ふぅ、と息を吐いたところでノックとほぼ同時に扉が開いた。
「スゥハ様、さっきミハクから…って、またオーマこんにゃろ」
入室した瞬間の真剣な表情を手品の如く消し去ったルクスは、ずかずかと進みスゥハの首元に向けて優しく悪態をついた。
「こら、呼ばれたらお返事しなさい」
重ねたルクスのからかいに、スゥハの首に巻き付いた白いものがもそり、と動いた。
「ルクス、や」
黒い目がルクスをちらりと一瞥し、見せつけるようにスゥハの頬に頭を擦り寄せた。思わずふふ、とスゥハは笑ってしまった。
「ほんとお前には懐かないね」
「こんなに愛に溢れたイケメンはそうそうおりませんぜ、オーマさん」
それでもつーんとしている白いふわふわな生き物、オーマの態度に、ふたりは目を合わせて破顔した。
「それで…、これのことか?」
スゥハは脇に寄せていた書類をルクスに渡した。
ルロワナ=タルセイルの出身国は大国であった。その大国から、簡単に言うとルロワナ=タルセイルの送還を希望する、というか引き取りに行くがよろしいか?という交渉の皮をかぶった宣言に近い書面が届いたのだ。
「どうします?まだあいつから何も聞き出せていない」
そう、収容された彼は、一貫して無言を貫いていた。憔悴した様子ではなく、何処かしら侮蔑を含んだ表情で薄ら笑いを浮かべ、沈黙しているのだ。口を割らせたいが、犯罪者とはいえ人道に反したことは出来ない。彼が引き起こした事件はヒュンケの死で終息したのか、それとも水面下で進行しているのか、そもそもルロワナ=タルセイルの個人的な欲望からの行動と区切って良いものなのか、解決の糸口が見つからないでいた。その中で、この宣言である。
「正直、断るのは難しいだろうな。捜査に協力いただくこともないだろう。送還されたら恐らく処分され、終わりだ」
その大国はこの島国からかなり離れたところに位置する。ただ、その存在感は大きい。軍事方面に注力してきた歴史のある国で、今は落ち着いているが昔は力で領地を拡げてきた事実がある。提案を跳ね除けることで万が一にも怒りを買ってしまったら…、考えたくもない。
「あのタマナシ」
髪をくしゃりとしながら、ルクスが呟く。
「兄さんとこの件は確認する。色々と、手遅れになる前に動かないとね」
「シャイネに状況聞いてみます。世界樹、準備に入りましょう」
そうだね、とスゥハは答えた。世界樹。そっと、オーマに触れる。
「もう1年以上になるんだね」
ルクスもオーマに目をやる。当のオーマは我関せずでスゥハの首に巻き付いたままだ。
オーマがこの白く細長い、ふわふわした生き物の状態になっている時はだいたいスゥハの首に収まっている。最初は、甘えているのだと思っていた。だが今は分かる。スゥハが擦り減ってしまいそうな時、オーマはこのような形で寄り添ってくれているのだ。
「この子のことも、まだなにも分からないな」
オーマは姿を変えられる。鳥や猫、その時の任務に適した形に。そういった生き物は、この島とてオーマ以外に見当たらない。オーマが何故、スゥハの下にいるのかも不明だ。単純にスゥハが気に入ったからなのか、それともスゥハという存在の側にいることが使命なのか。知能としては高く感じるが、言葉が幼いオーマからは明確な答えが得られなかった。
「スゥハ様、ちゃんと寝てますか?」
つ、とルクスは手を伸ばしスゥハの目元に触れた。
「お前こそ」
目を閉じ、ルクスの指先の熱を感じながらスゥハは答えた。
「俺は大丈夫。ね、スゥ…あこらこら」
オーマが首をもたげ、ルクスの手をどかそうとしている。
「ルクス、だめ」
ぐりぐりと頭でルクスの手を押しのける。まるでお母さんは僕が守る!と母の前に立ちはだかる子供のようで、幼気だ。その様子にルクスは降参、とばかりに両手を小さくあげた。
「独り占め、ずるー。じゃま、とりあえずシャイネんとこ行ってきますね」
ん、とスゥハは微笑み、閉まる扉を見つめていた。
急にしんと静まり返った部屋。
首元の生き物が、すぅすぅとちいさな呼吸をしている。
世界樹。この不思議な生き物、オーマと出会った場所。1年と少し前、その時のことを、スゥハはゆっくりと思い返していた。




