4 止まる針と動く針
王都への帰路、馬車の中。ルクスはスゥハと向かい合う位置に座り、彼を見ていた。ジルキド邸を出てから、スゥハは何かを考え込んでいるようで、今も黙って窓の外を眺めている。そんな時、ルクスはスゥハの思考を邪魔しないようにすることが多い。だが、スゥハがあまりにも深く潜ってしまいそうな気配がある時は、あえて邪魔をしたりする。どうやら今日はそちらをしたほうが良さそうである。ルクスは足を伸ばし、爪先でスゥハの靴をトントン、と叩いた。
「スゥハ様」
反応があるまでルクスのトントン攻撃が繰り返されたため、視線を外からルクスに移し、ん、と小声で返事をしながらスゥハはお返しとばかりにルクスの靴を踏んだ。あひど!とルクスが笑う。スゥハも思わず小さく笑ってしまった。本当にこの男は、自分の扱いが上手くて困る。
「きっと、いい家族なんだろうね」
ぽつりとスゥハは呟いた。あの時の苦しそうなジルキドの表情がずっと目の奥に残っている。チャコチャが既に調査していた資料から、ヒュンケの人物像も大まかではあるが把握は出来ていた。ジルキドが言っていたように、学業の成績としては特筆すべきものはなかった。ただ、友人は多かったようだ。領主の次男ということで少々穿った目で見られることもあったであろう、だがヒュンケ自身の性格が敵を成すものではないようで、周りからは愛されていたようである。過去起こした問題は幾つかあったが、それも友人を庇うものであったりと正義感から起こしたものばかりで、危険人物とは程遠い。きっと父であるジルキドも、やんちゃな面はあれど人としては正しい部類に入る息子のことを誇りに思っていたのであろう。そんな思いをまるで自分が壊してしまったようで、痛い。
「でも、やってはいけないことはあります」
そうだね、とスゥハは返事をする。
「親子とか、家族とか、私が立ち入ってはいけない領域なのかもしれないな」
スゥハは特殊な幼少期を過ごした。そのため、親子の絆を感じるような経験は殆どない。王族であるから当然なのかもしれないが、それ以上に自分が異常な存在であることを理解しているため、親からの愛情を求めることはない。諦めている、というよりも、その枠が自分の心にはもう存在していないことを知っている。兄であるヨルシカとの関係は良好であるし、それで良いと思っている。自分には親からの愛を求めるよりも重要なことがあり過ぎる。だがジルキドの表情を見て、ほんの少し、羨望してしまった。羨望してしまった自分が罪を暴いていくことに、不安を感じている。他意はないか?冷静か?今自分は、正しい道を正しい歩幅で歩いているか?自分という存在の不確かさが、時として怖くて堪らなくなる。
「はい、動きまーす」
不意にルクスが腰を上げ、狭い馬車の中スゥハの隣に移動してきた。
「お前、動くと危ないだろうが」
「へいへい」
どさり、と隣に座り、長い足を組むルクスはひょいとスゥハを覗き込んだ。つい、とスゥハの目に掛かっていた前髪を指で払う。
「俺も一緒です」
じっと目を見つめた後、くしゃ、と笑う。ルクスのこの笑い方がスゥハは好きだった。何度、力を貰ったかもう分からないほど。
「でも俺はあなたがいるから、大丈夫なんです」
でしょ?と悪戯っぽく笑うルクス。隣の熱が、暗い氷を溶かしていく。不要な思考に飲まれてはいけない。スゥハはそうだな、と返事をし軽くルクスにもたれ掛かった。
次第に夕陽が沈んでいく。隣では、静かに寝息を立てているスゥハがいる。
彼は優しすぎて、清廉すぎて、今にも消えてしまいそうな瞬間がある。圧倒的な力を持ちながらも、自らを差し出してしまいそうな危うさ。
眠るスゥハの美しい白い髪。ルクスは顔を近づけ、そっと髪に口付けた。
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夕暮れの部屋の中、ジルキドは執務椅子に深く座り目を閉じていた。脳裏に浮かぶのはなんでもない記憶だ。ヒュンケが生まれた時のこと、長男の出産時には仕事で立ち会えず、今度こそはと年甲斐もなく走ったことを覚えている。自分の誕生日には似顔絵らしきものを描いてくれた。正直、どれが自分でどれが妻でどれが兄を描いたものなのかさっぱり分からなかった。分からなかったのに、嬉しかった。小さい頃は差し出したジルキドの手を握ることができず、かろうじて親指だけを握っていた。思いの外握る力が強く、将来有望だと笑ったこともある。皿の端に野菜を退けていた子が、いつの間にか他国で学んでみたいと言い出した時は不思議な心持ちになった。ああ、私の子は一人の大人になるのだな、と少しの寂しさと眩しさと、そしてその情感に浸っていた自分に笑ってしまった。出発の日の朝、肩を抱いたのを覚えている。デキる男になってくるぜ、とふざけながら手を振ったヒュンケを覚えている。たくさんのことを覚えている。
彼がどこで道を踏み外してしまったのか。それに自分は気づけなかったということだ。早く息子の顔を見て、それを確かめたい。逸る気持ちのまま、ジルキドは立ち上がり窓の外を見た。外はすっかり暗くなっていた。ちらりと時計を見つめる。動き続ける針は、とっくにいつも帰宅する時刻を過ぎていた。
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時間は少し遡り、黄昏の時間が始まった頃。
風の領の街中には広場があり、中央に噴水があった。日中はそのあたりは買い物をする人々や噴水で遊ぶ子供達で賑わう。しかし、夜になると噴水の水は止まり、店仕舞いが始まる。この広場付近は食材や日用品といった日中の用達の店が連なっており、酒場など夜遅くまで営業する店は少し離れたところに固まっている。そのため、この広場の夜は静かなものだ。店先を片付けていた店主が、噴水の近くで寝こけている男に気がついた。まだ冬ではないとはいえ、風の領はその名の通り風が強い。このまま野宿を決め込んでしまったら、その男が風邪をひいてしまうことは明らかだった。全く仕方ねえなあ、と呟きながら店主は男に声をかけた。
「おい、兄ちゃん、起きなって。風邪引いちまうよ?」
しかし男は返事をせず、ぐったりと俯いたままだった。
「おいってば、ここで寝ちゃ危ねえよ」
男の肩を店主が揺する。すると男は力なく、そのまま倒れ込んでしまった。
「ったくよ、おいって、おい…」
店主が男の頬をぺちぺちと叩こうと、顔を覗き込んだ。そして、そのまま店主は息を飲む。
人は止まっていても、黙っていても何かが胎動しているのは感じ取れるものだ。だが、倒れ込んだその男の時間は明らかに静止していた。
ひっ、と店主は小さく叫び、後ろに下がった。倒れ込んだ男は薄く目を開け、虚な表情で止まっていた。彼の肉体はこれ以上の思い出を紡ぐことなく、止まっていた。
領主の次男であるヒュンケは、遺体で発見された。