7 移り行く空模様
今日は天気が良い。ぽかぽかとした日差しもある。ここ数日、書物との格闘が続いていたゼンは空を見上げ、やはり人間には日光浴というものが必須である、と再認識していた。体の中の細胞が喜んでいる気がする。あー、俺は生きている。ただでさえ細めの目をさらに細め、ゼンは軽く肩を回した。
昨日、ドーイからミレの修繕作業が完了したとの連絡が入った。こちらが引き取りに行くつもりだったが、明日昼頃にミレが持参する、と言ったそうだ。一応この研究所は王宮の一部なので、一般人がひょいひょいと敷地内に入るものではないのだがスゥハの了承を得ているし問題はない。なんとのんびりとした国だろう。しかし当のスゥハは一度黒髪でミレに会ってしまったので、白い髪の状態では会わないことにしている。作業を見たかったな、と少々悔しそうな表情がこれまた美しかった。
蹄の音が耳に届き、ゼンはそちらに目を向けた。ゆっくりと馬車が止まり、ミレが中から出てくる。
「態々ご足労いただきありがとうございます」
「いえ、こちらこそ我儘を」
これを、と絵画が入った包みを渡す。ちら、と視線が周囲に流れたことにゼンは気が付いた。
「シャイネさんは今日は別件に対応していて。言伝を預かりましょうか?」
あ、いや…とミレは口篭った。ゼンはやはりな、と思った。膜の除去作業が終了し、報告のため一旦退室していたゼンだったが戻ってきた時に何かあったのだろうな、とは感じていた。シャイネは書物に没頭している通常運転だったが、ミレの様子に違和感があった。普通に振る舞おうとしていたが、どこかしら不自然だったから。
「もしかして、シャイネさんなんかしちゃいました?」
「いや違うんだ、寧ろ私が失礼なことを言ってしまったから謝りたくて…」
「失礼なこと?」
暫し逡巡したミレだったが、恐らくこの場を逃すともう会うことすら叶わない人達かもしれない、と思い直し、言葉を続けた。
「才能がある人は違う、とかそういう嫌味のようなことを口にしてしまった」
ああ、とゼンは思った。改めて、目の前の女性を見つめる。ミレは自立したサバサバした女性に見える。が、もしかしたら彼女の内面は外見とはややずれているのかもしれない。
「そうですか。まあ、大丈夫でしょう」
その言葉から、ミレはシャイネがこういった言葉をかけられるのが初めてではないことを理解した。恐らく、嫉妬によるものなのだろう。自らが彼女より劣っていることを感じた人間は、言葉で傷を付けようとし、言葉で枠を作り彼女と自分を区切ることで侵食を防ぐ。シャイネはそちらを侵そうなどど露ほども思っていないにも関わらず、存在しない彼女の罪から身を守ろうとするのだ。自分のように。
「…申し訳ない」
ゼンは眉毛を下げて少し微笑んだ。外見から彼女はきっと強い女性として扱われがちであろう。そんな中で彼女の性格は、なかなかに難儀なのではないだろうか。
「シャイネさんは、頭がいいんです」
何を話されたのか頭が追いつかなかったミレが、え?と目線を上げた。
「シャイネさんの凄いところは、情報をどんどん更新していくんですよね。1分前に立てた仮説に固執せず、新たな可能性が生まれたのならそちらを読み解こうとする。これをね、全てに適応しているんです」
話の行く先が未だ読めず、曖昧にミレは頷く。ゼンは優しい表情で話し続けた。
「俺なんかは一度目が細いね、って言われるとこいつムカつく、って思うんです。こいつは意地悪な奴だぞって。そいつが飯を奢るって言っても、断ります。でもシャイネさんは違うんです。どんなに失敗続きの奴でも、今日成功したのならこいつは成功できる人間だ、で情報を更新するんです。過去の感情によって色眼鏡をかけないんです」
ぐ、とミレの眉間に皺が寄った。下唇を噛み締める。じわ、と胸が熱を帯びる。そうか。本当に彼女は自分なんかとは違ったのだ。安心と、何故だか微かな寂しさのような不思議な色合いに染まっていく自分がいた。
「本当に凄いね、彼女。嫌味じゃなくて、才能だ」
「いや才能じゃないですよ」
は、とミレは思わず顔を上げた。
「才能云々関係なく、あの人の性格です」
ゼンはきっぱりと言い切った。
「よく言う人いるんですよ。突飛な行動したりすると、才能あるやつは違う、天才は見ている世界が違う、って。いやいやいや、そんなんで俺は騙されませんよ。人の話聞かないのも、遅刻するのも、ぜーんぶあの人がズボラだからです。才能なんて関係ありません」
「でも、それだって一つのことに天賦の才があると、他がお座なりになるっていうじゃないか。それと同じで」
「違いますよ。そもそもそれも変なんです。あそこまでの天才なら日常生活が破綻していても納得だ、とかなんだそれ?です。第一、どこまでの才能なら何かが欠落していても良しとする、みたいな線引きがあるんですか?才能ある人はみんなもれなく何かが欠落していると?そんなわけないですよ。めちゃくちゃ天才でも、人に迷惑かけるのが苦手な人はいますし、そっちを考えるのが面倒な人もいます。それは性格が違うだけです。才能の大きさとは関係ありません」
ミレは動けないでいた。言葉が出てこない。
「才能って、磨くっていうじゃないですか。でもそういう人達が言う才能って、生まれ持って決まった大きさがあるんです。磨くことはできるけど、容量は決まっている。だから、限界がある。それも俺はどうかと思いますが、でもですね、性格は変わるんです。シャイネさん、風呂に入るんですよ!必要ないって騒いでいたのに、今では歌まで歌っている時があるんです!」
風呂の件は何かの比喩だろうか。停止したままのミレに、ゼンは話し続ける。
「だから、あなたが何を悩んでいるかは存じ上げませんが、悩むことは才能がない証ではありません。あなたの性格だからってだけです」
数秒、ミレは無言でいた。風が通り抜けた。風は、彼女の内に隙間なく積み重ねられていたものを悠々と通り過ぎていく。それは暖かさを感じるものだった。やがて彼女は笑みを溢す。
「大味な理論だ」
「そういう奴なんで」
はは、とミレは腹を抱えた。視界に地面が映った。小さい蟻が足元を歩いている。艶のある黒色だ。しかし、少し輪郭が赤味がかって見える。砂利は灰色で、彼女が今日履いている革靴は茶色だ。爪先の革にすり傷があり、色が薄くなっている。どこかの腕利き修繕職人に頼んでみなくては。空を見上げる。
ああ、今気が付いた。
今日は天気が良い。
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街に戻ったミレは、ドーイの店を訪ねていた。
ミレが履いていた革靴をドーイはじっと調べている。
「これくらいならすぐ直せるな。ちょっと待てるか?」
ん、と小さくミレは返事をする。我ながら単純だ。だが、人生には追い風というものが確実に存在する。それに乗ってみる勇気を出すか、慎重に見送るか、それは自分次第。どちらが正解かなんて、所詮分かりゃしない。だったら、今回は調子に乗ってみたいのだ。待っている間、貸し出された仮靴が少し大きい。きちんと自分の足に合うよう、右の爪先を床に押しつけながら口を開いた。
「あのさ」
ドーイはん?と返事をした。そうだ、彼はいつも彼女が動くのを待ってくれていた。小さく息を吸う。いつも通りの声で。普段通りの色で。さあ。
「今すぐにじゃないんだけど、今度、自分の作品作ろうかと思っててさ…」
返事がなかった。間違ってしまったのだろうか。声が震えてしまっただろうか。慌ててミレが顔を上げた先には、ずっと会えなかった子熊と再会できた親熊のような、それはそれは温かい表情をしてドーイが笑っていた。何その顔、と思わずミレも相好を崩した。
多分、何も変わってはいない。でも、頼れる言い訳が今は胸の内に、ある。
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ミレと別れたゼンは絵画を抱え、研究所の廊下を歩いていた。向こうから見知った騎士が歩いてくるのが見える。恐らくスゥハへの報告帰りだろう。
「よ!今日はシャイネさんと一緒じゃないんだな」
「そ。別件」
「いつもお疲れ。あそうだ、最近さうまい飯屋見つけたんだよ。今度行こうぜ。お前の体力を回復させるために、奢ってやる」
「まじか。楽しみにしてるわ」
軽く会話を交わし、じゃ、と手を振り別れた。先程のミレとの会話を思い出し、苦笑いをしながら頬をポリ、と掻いた。目的地であるスゥハの部屋の扉をトントン、と叩く。どうぞ、と中からスゥハの声がした。
「ミレから預かった絵画をお持ちしました」
執務机で作業をしているスゥハと、正面にはミハク、机の角に腰かける形でスゥハの手の中にある書類をルクスが覗き込んでいた。
「ありがとう」
そう言ってスゥハは絵画を受け取り、布を解いていく。自然とゼンもスゥハの後ろ、覗き込める位置に移動した。布の下、さらに巻かれていた油紙をゆっくりと剥がし、絵が顕になる。
誰も言葉を発さなかった。
そこに描かれていたのは、草原にいる二つの生き物。少し青みがかって見える白い竜がまるで猫のように安心して丸まっている。首を少し持ち上げ、穏やかな表情をしていた。その竜に抱かれるように一人の少女がいる。少女は片手を竜の顔に触れ、見つめ合っていた。
少女の髪は白く、幸せそうに微笑む瞳の色は淡い赤だった。