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6 才能の差

黙々と作業をする妙齢の女性が二人。しかしてその手に握るのは小さなナイフのような物。表情たるや目元には明らかな隈があり、肌はくすみそもそも眼球には木の根のように血管が走る様がありありと見てとれるほど、充血している。作業時間は既に本日6時間を超えていた。

勿論、その内のお一方はシャイネだ。人間生活は目盛の単位が常人と違うのかと疑うほどに大雑把な彼女だが、こと作業に関しては例外である。息をしていないのかと思うほど、集中して自らの手元に全神経を注いでいる。そしてもう一人がミレだ。実際彼女が作業に参加し始めたのは昨日からだが、3日前からここシャイネの研究室に通い詰めている。ゼンは最早見慣れてきてしまったこの光景に内心肩を竦めた。

そもそも実は見つけて欲しいツンデレ夜逃げと同じレベルの荷物を抱え、意気揚々とミレのアトリエに出掛けたシャイネが速攻で帰還した時には内心ずっこけてしまった。彼女曰く、道具的には事足りるけど思いの外時間がかかりそうだから絵画ごと持って帰ってこっちで作業をすることにした、そうだ。彼女の脳内に「折角」という単語が登場することはあまりない。こうした方がより良いはず、と結論が出ているのであればどんな労力を払って準備したこともぽいと放り投げることを一瞬たりとも躊躇わない。恐らく一緒にいたルクスはげ、と思っただろうが彼も慣れたものである。それが最善ならそうしましょ、と仲良く戻ってきたのだ。問題なのは、ミレがついてきたことだった。ミレの言い分としては、下の絵に万が一があったら即座に対応できるように、とのことだが理由は恐らく別にあるのだろう。何故だか彼女はシャイネのことを意識していた。不埒な意味ではなく、どことなく観察している節がある。それはなにかきっかけを探しているようにも見え、現に今も作業をしながら、ふとシャイネを見ていたことにゼンは気づいていた。何かよっぽど気に入ることがあったのだろうかとルクスに初対面時のことを聞いてみても、特にいつもの変人ぷりだった、とのことである。小柄な女性が冗談のような大きさの荷物を抱え、嵐のように自己紹介をし目的の絵画に走り寄り突如数分停止した後、帰ると言ったらしい。これでは気に入る要素は見当たらない。

凄腕同士通じ合うものがあんのかなあ?ゼンはそう思ったが、明らかにシャイネは気にしていないので相互の興味、というものではないのだろう。ま、本当に絵の心配をしているだけかもしれないしね、深入りしないで良いでしょう。と彼は結論付けていた。

この研究室に戻ってきて、先ずシャイネは膜の採取に取り掛かった。調べた結果剥がす、という行為は不可能であること、熱や冷却の温度変化はある程度効果的だが下の絵画への影響を避けられないことから削ることになった。豊穣の絵の下にあるこの膜は薄青白く、何かしらの粒子と気泡が混ざったものだった。幾度か慎重に採取をし、顕微鏡でじっと見ていたシャイネは暫くしてなるほど、と呟いて数度頷いた。

「これ以上、保存目的の採取はしないで大丈夫。あとは下の絵を傷つけないように除去する作業に移行するっす」

そう宣言した彼女に、私も一緒にやるとミレが手を挙げたのだった。そしてその共同作業が、漸く終わりを迎えた。

「よし。除去はここまでっ!あとは下の絵の修繕、お願いできますか?」

小さなナイフを置き、シャイネは伸びをした。

「ああ、作業は自分のアトリエでやるよ」

「お疲れ様です。ご帰宅前に少し休んでください」

そう言ってゼンは二人に蜂蜜入りの紅茶を淹れた。どうも、と軽く頭を下げたミレは一口飲む。

「じゃ、俺は報告と馬車の手配に行ってくるんで、ごゆっくり」

そう告げて、ゼンは扉の向こうに消えていった。シャイネは先日顕微鏡を覗いていた時に引っ張り出していた分厚い図鑑のようなものをじっと読んでいる。既に頭は次の作業に移行しているようだ。

ミレはカップの淵を親指でなぞり、こくり、と口の中にはもう残っていないはずの紅茶をもう一口飲み込んだ。

「あのさ」

はい?とシャイネが図鑑から目を上げる。

「…嫌にならない?ずっとこういう仕事」

「はいちっとも」

あ、いや…とミレは口篭った。どういった言葉で表現したらいいのか分からない。そもそも、こんなことを聞いてみようと思ったこと自体初めてなのだ。上手く会話すらできない自分が嫌で堪らない。

「作業って意味じゃなくて、その、何も分からない時だってあるわけでしょ?解決策が見つけられない時とか」

「見つけるまでやめないからなんともっす」

きょとんとした目で返答するシャイネを見て、ミレの胸を微かな、しかし沢山の感情が掠めた。口が歪んでしまう。じわり、と掌に汗が滲む。

「そっか…。そんだけ才能があると、そうなるか」

シャイネの瞳で何か、色が切り替わったのが分かった。す、と彼女は本に目を戻し以後そちらに没頭し、ミレが退室するまで顔を上げることはなかった。ミレはその瞳を知っていた。何より、自分がその瞳を何度となく他人に向けていたから。それは興味を無くした色だった。排除された。ミレは恥ずかしさで頬が赤くなっていた。しかし幸いにも彼女を視界に入れる人間はこの場には存在しなかった。震える手でカップを持つ。こくり、と紅茶を口に含んだが、石を飲んだかのようにゴツゴツしたものが喉を通っていった。

誰も見ていないというのに、彼女は日常の動作を止めようとしなかった。



********************************************************************



どさり、とミレはアトリエの椅子に座り込んだ。

恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。

脳内をぐるぐると情報が駆け巡る。記憶が暴れている。

シャイネを見て、この人は本物の天才だと感じた。この人なら自分の苦悩を理解してくれるのではないか、そう期待した。初めて同志に出会った喜びから、思わず研究室まで同行してしまった。普段の自分ならそのような積極的な行動は間違いなくしなかっただろう。浮かれていたのだ。

何が同志だ。私とは、格が違う。

のろのろと体を起こし、持って帰ってきた絵画を布から出してイーゼルに掛ける。まだ表面に薄青白いものは残っているが、時間をかければ修繕できるであろう。自分にはその作品の正解がなんとなく掴めるのだ。

そう、自分にできるのはそれだけだった。事前に設定された終着点に、ただ向かうだけ。それが最高でなくとも、正解として存在するものに向かって進む。いつしか彼女は目指す場所がないと、動けなくなっていた。それは彼女にとっては芸術家として欠陥品である証拠だった。

昔のことが津波のように襲ってくる。その飛沫一つ一つに、嫌な記憶が反射している。以前は自由に描いていた、創造していた。それが評価をされるようになり、賞賛されるようになった。人々は口を揃えて才能があるね、と言った。自分もきっとそうなのだろう、隣にいる人と自分は違うのだろうと信じていた。しかし、思いの外すぐに違う言葉を浴びせられるようになっていった。作品を発表した時の、作品を納品した時の、周りの、相手の表情にほんの僅かな失望を読み取り、ああ自分は何か失敗しているのだと悟った。どうしたら満足してもらえるのだろう。どうしたらあの頃の地位に戻れるだろう。これだときっとあそこが不自然だ、こうだときっとあれと似ている。次第に彼女は自分の内から、何も湧き出してこなくなっていることに気が付いた。白い紙。何を描いても良いはずなのに、何も思い浮かばない。感受性が枯れ、想像力が乾き、目の前の大地は割れた。そうして彼女は歩みを止めた。自分の世界を嬉々として表現していた少女は最早自分の世界はとうに空っぽだったことを知ったのだ。そして哀れにも食い繋ぐ術として、芸術から離れる勇気がないため、修繕の仕事を請け負っている。彼女にとって自分の修繕の技量を賞賛されることは泥を浴びせられることと同義だった。自分はさして才能がなかったのだから。

そんな中、シャイネに出会った。人とは違う才能に溢れた彼女の世界の在り方を見たい。何か自分と繋がるものがないかと期待した。周りからの期待のあしらい方、自分を貫き通す術、そのような実践的な何かを自分も得られるのではないかと思った。彼女にとってシャイネはこの奈落に垂らされた細く、美しい糸だったのだ。

しかし、シャイネはそのようなところで躓く人間ではなかった。自分とは才能の格が違う。私がここで躓いてしまったのはやっぱり才能が足りなかったからなのだ。ミレはシャイネの世界を知るどころか、その扉を叩く資格すら持っていなかっった。

喉の奥が、ずっと誰かの手で握り潰されているように苦しい。酸素が鎖骨から下に通らないかのように、苦しい。胸をぐ、ぐと押さえつけミレは大きく息を吐いた。

「仕事…」

小さく呟き、イーゼルの前の椅子に向かっていった。

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