5 理由があれば遅刻は赦す
鈍い音が短く鳴る。響く、と表現するには彩りに欠けるそれの中に、2つの呼吸が紛れていた。
右、左、右の突き、回転して後ろから…。
ルクスの息は殆ど乱れていなかった。対する青年は息を乱しながら、何とか一矢を報いようと歯を食いしばっている。
薙ぎ、躱し、受け、払い…。
彼等2人を中心に、少し距離を空けて男達がぐるりと円を作っていた。ある者は座り、地面に刺した剣にもたれ掛かるような姿勢で両者の剣戟を見つめ、またある者は立ち上がり自らだとどう対応出来るか、と身体の動きを合わせている。
ここは騎士団の訓練場だ。シャイネへの伝言は依頼済だが、第3研究所には通称『シャイネ時間』という共通概念が存在する。彼女は待ち合わせの時間通りに行くこと、向かった先で起こり得る何事かへの対策を練ること、この両者の天秤が派手めに傾く時がある。つまり今は、1時間後、という時間を守るよりも例の膜の採取に際し、不足が無いよう入念な準備をすることを選択しているのだ。最初は約束って何だっけ?と待ちぼうけを食らった面々は胸のもやもやを隠せないでいたが、様々な想定をしておくという行為自体、それはそれで正しいと思うので、次第に皆は慣れていった。人間の順応力とは本当に底知れない。集団心理と優しさの境目も、なんだかぼやける時がある。
そんなこんなでルクスは待ち時間を使ってあれよあれよとここで稽古をつける羽目になってしまったのである。
3.2.1…
速度をあげたルクスが、突きを狙った相手の腕を右に素早くいなし、その身体の流れのまま回転し背後を取る。相手の喉に剣の柄をこつ、と当てる。
「はい、ゼロ」
っ、と相手の男は小さな空気の塊を飲み込んだ。そして、だはぁ、と脱力する。
「くそ…まじかぁ……」
「体捌きはよくなったよ。あとは筋肉で動きすぎるから、呼吸との連動をもっと意識して身体を使うと、また一段変わると思う」
呼吸ねえー、と男が汗まみれの額を拭った。剣をルクスに向かって軽く振る。
「また頼むわ」
ん、と返事をしながらルクスは自分の剣を軽く相手のそれに当てた。鈍く音が鳴る。訓練の際、木刀を使用するのは幼い時だけだ。成長すると、剣は刃を潰したものを使用する。木刀に慣れすぎてしまうと、いざという時何もかもが違うことに怯えてしまうから。両手の中に収まる重みも、反射によって自分がどんな顔をしているのかも、音も、匂いも、何もかも。
そう思うと、やっぱり入念な準備は必要だな、とルクスは独りごちる。
「あとひとりで終わりー!」
さあどいつだ?とルクスは発破をかける。俺!俺行きます!と賑やかそうな男が前に出て、構えた。
身体を動かすのは好きだ。そして何故か、身体を動かしている時の方がルクスの脳は落ち着いて足元を見つめられる。
お願いします!という声が耳の奥、さらに奥へと遠くなる。
頷く自分を後ろから見ている自分を後ろから見ている気分になる。
鈍い音、鈍い音、空を切る音、呻く声。
―あの絵はなんだ?
小さな火花、鈍い音、漏れる息、乱れる髪。
ダルクが物心ついた時からあの孤児院に飾ってあったという。孤児院にあったということは、あいつらから隠すためか?それとも、たまたま飾っていた?いや、スゥハのあの予感はきっと外れない。何かがあるはず。
衣擦れの音、鈍い音、漏れる息、乱れ、乱れ、乱れ。
孤児院から隠す為、絵を潰したとも考えられる。そうとは知らず、保管させられていた?誰に?
ルクスの瞼の奥に残る、目を瞑っても消えない装飾。枝に貫かれる、哀れな幻想。檻の子。
いや、違う。
ルクスは受けをやめ、攻めに転じる。3。
左足を踏み込む、漏れる焦る息、鈍い音、鈍い音、鈍い音。2。
孤児院の設立を洗ってみるか。書庫があったはず、そこを調べてみよう。1。
砂が滑る音がした。相手の男が受け切れず、膝をついたのだ。
「ゼロ」
喉元に切っ先を突きつけながら、ルクスはにかっと笑った。だはーーーん、と言いながら敗北した男は大げさに大の字に寝転んだ。
「嘘だろー!もう20人斬りくらいしてません?!」
かもね?とルクスは肩を竦める。
「いやまじ、なにがどうしてそんなにお強いので…?」
「えー?んー…頑張った」
「うわでた天才。もうお前ツラもいいし…なんか最強じゃん」
ルクスは真顔で男を見、ゆっくりとあけた右手でもって目元ピースサインをした。はーらーたーつー!と大の字の男が笑った。
最強なんて、と小さく自嘲してしまう。
あ?と男が笑いながらこっちを見る。
「いや?」
じゃあまた今度、と伸びをしようとしたルクスに、少年以上青年未満といったところの男が慌てて声をかけた。
「なんか、強くなる秘訣とかあったら教えてください!」
ヒケツう?と腕を組んだルクスはフム、と男を眺める。
「先ずな、最短を狙うな。ちゃんと考えろ、自分で選べ」
それまではそれがむずいんですってー、と男達はざわざわしていたが、んで護るべきものがあるなら、とルクスが言葉を紡ぎながらひたと視線を止めた瞬間、ぴたりと全てが止まった。
「死んでも離すな」
普段はヘニャヘニャしている時が多いこの男は、一度剣を持つとべらぼうに強い。そしてそんな姿に憧れる男達は多い。しかし一方で、踏み込ませない聖域が彼の中に存在していることも、なんとなく肌で理解するのだ。この人の核には触れない。少なくとも自分達は。
だが、すぐにルクスは目をぱちりとし、お呼びだわと今度こそ伸びをした。
遥か向こうから自身の3倍はありそうな荷物を抱え、おおーーい!と叫びながらこちらに向かってくる赤毛の人物に気付き、男達はお開きだと悟った。