4 平和な国
パラリ、とスゥハは手元の書類を捲った。目の前では、この報告書を持ってきたミハクが一通り目を通すのを待っている。少し長めの髪を軽く後ろで束ね、落ち着いた佇まいのこの男性は自らスゥハの補佐を志願した変わり者だ。いや、スゥハの力になりたいと手を挙げる者は大勢いるが、この者は自分の家柄をがばりと脇に寄せ、態々この研究所に籍を置いた静かなる頑固者である。ん、とスゥハは目を上げ、報告を促した。
「先だっての風の領での一件、首謀者の男は国外の者でした。名前はルロワナ=タルセイル。人身売買まがいのことを繰り返し、様々な国を渡り歩いていたようですね。幾つかの国から指名手配されています。まあ、少々外見なり名なりを変えているようですが。この国に住み着いたのは3カ月程前とみられています。恐らく、遺物に目をつけて交易を企んでいたのでしょう。護衛の者たちも、国外から連れてきていたようです。遺物のひとつ、『踊る』を何からの方法で手中に収め、あの屋敷も手に入れていたようです」
あの蛇男の顔が思い出される。遺物『踊る』は、その能力から使用が禁止されているものだ。口に含み、対象者の手を取り言葉をかけると、その言葉の通りに対象者が動く、という危険な代物である。多対一では全く意味を成さないが、恐らくタグリットに契約書を書かせた時もこれを使用したのであろう。踊るが保管されていたのは、風の領付近だと確か…。スゥハは小さく溜息をついた。遺物はかなり厳しく管理をされている。その為、この国自体は犯罪という面では概ね平和であるが、残念ながらそれなりに問題は起こる。そして起こる問題のうち、国外の者が絡んでいるケースが一定数発生してしまうのが現実だ。今回も自らこの国に目をつけたのか、はたまた手引きがあったのか。しかし現状まだこの程度の問題で済んでいるのは、この国は他国から移住する者は極端に少ない、という点が大きいのだろう。他の国にはない遺物や伝承に憧れ、移住を望む者はそれなりにいるのだがあまり継続しないのだ。島国という性質からなのだろうか。中には今回のように、自らその道を閉ざしてしまう愚か者もいる。
「タグリット氏に白羽の矢が立ったのも、国外では静止状態となる遺物の能力を保つことができないか、と考えたことからかと思われます」
そうか、とスゥハは小さく答えた。
「タグリットの方はどうだ?」
「能力としては、本人の説明通り植物の時間操作が主だったもののようです。ただ彼自身も詳細は把握出来ていないようで、今はシャイネの格好の実験台ですね。何がどこまで可能なのか、測っている最中です。そして、仰っていたように恐らく時間を伸ばすだけでなく、縮めることによって爆発的に成長させることも、可能かと思われます」
「ある程度能力の解析が済んだら、近いうちに一度世界樹に行ってみる」
そうですね、とミハクが頷く。
「出来れば早目にしていただいたほうが。タグリット氏の体力と、ゼンの堪忍袋の緒の強度にも限界があります」
ふふ、とスゥハは笑った。シャイネは気になることはとことん調べてしまう。スゥハもその性質はあるが、基本的に負担をかけるのは自分のみである。シャイネは自分と他人の垣根が存在しないのか、満足するまで人を引き摺り回してしまうのだ。その三つ巴が絵に浮かぶようで、微笑ましい。まあ当の二人にとっては微笑む余力もない、汗と涙と血みどろの日々だろうけれど。
「それは大変だ。可及的速やかにしよう」
ミハクも、口の端でふと笑った。必要最小限のことしか話さない、寡黙な青年ではあるがよくよく見ると無表情というわけではないのだ。人より表情筋の可動域が凄まじく小さいため、顔が変わらないと判断されがちになってしまうが、どっこい感情はそれなりに豊かなのである。
トントン、と扉がノックされると同時に開いた。
「スゥハ様、報告でっす」
ルクスがひょいと顔を出した。
「ドーイの親方のところに、連絡があったようで」
「もうか?1週間しか経っていないが…」
「んね。流石腕利きってとこなのかな。膜の処置があるから、出来ればシャイネかゼンを連れていきたいんだけど」
「ゼンは…」
ちらりととスゥハはミハクを見る。あまりにも哀れです、とミハクはゆっくり首を振った。
「ゼンは恐らく心身に限界が来ている。出来れば休息を与えたい。シャイネは体力が無尽蔵だから平気だろうが…どうかな」
「ま、あのミレって人なら大丈夫じゃないかな?あんまり気にしなそうだし」
「そうだね。私もそんな気がする。じゃあ、シャイネに準備させるよ。寧ろ丁度良かったかもしれないな。尊い2つの命が護られた」
ん?とルクスが頭を捻った。そして、すぐに思い立ったようで、クシャッと笑う。
「そいつは上々。スゥハ様はどうする?」
ミハクがまだスゥハに渡していない報告書をくるりと回し、表紙が見えるようにした。それを横目にスゥハは肩を竦める。
「残念だけど、今日は私の髪は白いままだな」
ありゃ、とルクスは返事をした。
「じゃあ1時間後出発目安で、あとはシャイネ時間に任せます。シャイネへの連絡、よろしくです」
分かった、とスゥハは頷いた。シャイネは変人だが、妙に筋を守るところがあり、その筆頭が指揮系統を重んじる点だ。自分はスゥハの部下であり、それ以外の命令を聞く必要はない、と結論付けており、以前ヨルシカの依頼をガン無視した時は流石にその場の全員が凍てつく湖に放り込まれた心境だった。最もヨルシカはそんな彼女の性格を聞き及んでいたから逆に面白がっていたし、スゥハやゼンの教育により、時と場合によっては頼みを聞くものだ、とシャイネも理解したのだが。全く、平和なこの国だから見られる光景である。
ルクス、とスゥハは声をかける。
「気をつけて」
「行ってきます」
ふわ、とルクスは笑って扉の向こうに消えていった。