2 豊穣の裏で
「お待たせしましたっす!お入りくださいー」
チャキチャキとしたシャイネの声に誘われ、彼女の研究室にスゥハとルクスは足を踏み入れた。足を踏み入れる、とはまさに言い得て妙で、彼女の部屋はいつも混沌としている。端的に、物で溢れているのだ。一般的な整理整頓が出来ない人間は、他の者が片付けるとどこに何があるのかは把握しているから触らないで!となる。世のお母様方の悩みの種のお一つであることだろう。ただ、彼女の場合は違う。それは言い訳ではないのだ。彼女は何がどこにあるのかを完璧に把握している。彼女の脳内には恐ろしいほどの情報が詰め込まれており、その情報は常に最新の状態に完璧に整理、管理されている。脳内では整理されているのだが現実世界の整理整頓にはとんと興味が湧かないようで、この有様になるのだ。彼女曰く、どこに何があるかは把握しているから、整理する時間が勿体無い、とのこと。平たくいうと、残念ながら世の片付けられない人間等と大差ないかもしれない。
「ぴーちゃん、ちょっと机の上空けて!んで、椅子2脚ちょうだいー」
机に向かいながらシャイネは助手の青年に声をかける。ぴーちゃんと呼ばれた青年はちょっとマジで所長の前でやめてって言ってんじゃん、とブツブツ言いながら椅子を両手に抱えて運んできた。机にセットし、軽く座面を手で払う。スゥハはふふ、とこっそり笑ってしまった。
「どうぞ」
手で椅子を示したぴーちゃんは軽く頭を下げる。
「ありがとう、ゼン」
目を見て礼を言うと、ぴーちゃん改めゼンは照れくさそうに口をちょっと歪めた。隣でルクスが「ありがとう、ぴー…じゃなかった、ゼン君」と茶々を入れ、ギロりと睨まれていた。
一重で切長の目はともすれば目つきが悪い、と感じるかもしれない。だが、そのぱっと見は尖った外見のゼンが、実は照れ屋であることをよく知っている。
ゼンはシャイネの助手にあたる。元々この第3研究所にと声をかけたのはスゥハだった。そのような流れからか、ゼンはスゥハに対して絶大な憧れを抱いている節がある。後日、彼の細やかさや世話焼きの性格を見抜いたスゥハは、猪突猛進型のシャイネの助手へと抜擢した。彼女の頭脳は本物だが、人間生活の杜撰さから多少、いやいささか他人とのトラブルが起こりがちであった。
最初、ゼンは彼女のような見てくれにも気を配らず、周りにも気を配らない人間に出会ったのが初めてだったようで、心底戸惑っていたようだ。だが次第に彼女の明晰さ、斬新な発想に舌を巻き、生来の世話焼きが本格的に発動したのである。俺が面倒を見なきゃ、この才能が潰れてしまう!と。
以来、彼は正面から彼女にぶつかるようになった。そこからの二人の関係性の変化には、軽く感動を覚える。風呂に入ってください、とゼンが伝えると私は困っていない、臭いなら鼻を摘めばいい、とシャイネが返す。普通の人間ならここで折れてしまうが、スゥハがここに誘うくらいゼンは賢く、そして人を見る人間だった。俺のためではない、貴方のためだ。貴方の研究はスピードを上げるよりも、発想を柔軟に保つ方が重要である。風呂は水圧により静脈に圧力がかかることで血行を促進し、酸素を身体中に行き渡らせる。老廃物も流れやすく、疲労回復などリラックス効果が期待される。脳内の処理リズムが変化することによって、違った視点からの思考が可能になるかもしれない。外見を綺麗にするためではなく、研究のため、入浴は非常に効果的と言わざるを得ないのです!熱弁を奮いつつ、実際に湯船に浸からせながら頭皮をマッサージし目には蒸しタオルを乗せられたシャイネに「そうかもー!」と言わしめた時は、研究所にこっそり拍手が溢れた。一緒に入浴したと言っても、二人とも検証をするテンションだったので着衣のままシャイネは湯船に浸かり、その後ろで同じく着衣のまま頭皮マッサージをしつつ蒸しタオルを準備していたゼンの様子は、おそらく男女が一緒に入浴をする絵面としてこれ以上色気と無関係のものはないと断言できるものであった。
なんにせよ、そのようなやり取りを幾度か繰り返していくうちに、シャイネの奇行は少しずつ減っていった。そして、口うるさく意見を言ってくるゼンを、ピーピーうるさいんだという理由でぴーちゃんと呼ぶようになったのだ。記憶力の良いシャイネは、一度会った人間を忘れない。どんなに覚えづらい名前であっても、正しく記憶する。そんな彼女が肩書以外のぴーちゃん、と愛称で呼ぶのはゼンただ一人である。
「万が一があるんで、飲み物は今は無しで行きますね」
着席したシャイネは言った。机の上には額から外された絵画。ダルクの部屋から持ってきたそれを、シャイネに解析依頼をしていたのだ。
実った穀物を収穫する風景を描いた絵。一番手前にはふくよかな女性が腰を屈め、小さい鎌のような道具で穀物を収穫している。背中には籠を背負い、その中にはすでに刈り取った穀物が入っている。絵画の奥の方には同様の仕事をしている人物が2人、小さく描かれていた。豊穣を印象付ける、あたたかい堅実な絵と言っても不思議はない。
だが、スゥハは違和感を覚えた。あの時、日の光に照らされた瞬間、何かが震えるような気がしたのだ。
「えっとですね、取り急ぎ分かったことの報告です。おそらくかなり昔に描かれた絵のようで、数百年は前かと。でも問題はそこじゃなくって…」
薄い手袋をつけたシャイネは、絵画をよいしょ、と持ち上げた。
「帆布の素材は亜麻ですね。ただ、絵画専用のものとして制作されたものではないかもっす。少々雨風に晒された形跡があるので、もしかしたら船用の帆布を再利用した可能性もあります。で、問題はここ。側面を見てください」
木枠の厚みの分の奥行をシャイネは二人に示した。
「絵の具の厚みにしては、不必要な厚さがあります。端の方を少しだけ削りましたが、何層か重なっている。今手前に来ている収穫の絵、その下に膜が引かれています。そして、その下にはさらに絵の具がある。つまりはなんらかの絵を別の絵で塗りつぶしている状態です」
シャイネは丁寧に絵を机の上に置いた。
「絵を塗りつぶして他の絵を上から描くのはさほど珍しいものではないっす。厚みが出ることによる独特な表現を狙った場合もありますが、一般的には経済的な問題で、新しく帆布を用意するのが難しい場合、不要な絵を潰して描く。その際、上から下地材を塗ったり、凹凸を削ってなめらかにしてから新たに筆をのせるのが大体っすね」
ひょい、とシャイネは顔をあげ、スゥハとルクスを見る。彼女は余計な感情を乗せず、判明したことを淡々と説明してくれる。二人は目線で先を促した。
「ただ、今回はどうしてもそうとは考えられないっすね。絵と絵の間の皮膜、これが到底一般家庭で手に入ったものとは思えない。新しく布を買えないような人間の手の中に、この皮膜が有り余っていたとは考え難いっす。詳しく調べるのはこれからですが、この膜は遺物の可能性すらある」
「つまりは、じいさんの部屋にあったこの絵は、この収穫の絵を描きたいから描かれたものではなくて、元の絵を潰す方が目的だった、ってことか?」
「可能性としては確実にそっちっす」
「その膜と、何の絵を潰したか調べられるか?」
スゥハが聞いた。
「下の絵を出すことは可能っす。ただ幾つか問題があって、上の収穫の絵を溶かしたり削ることになるのでこの絵を壊してしまうこと。また皮膜の効果がまだ不明なので、下の絵の状態が分からない。おそらく修繕が必要になるから、そっち方面の技術が要ります。そこで、ぴーちゃん」
性懲りも無くぴーちゃん呼びをする上司に一瞬イっと歯を剥いたゼンは、シャイネの脇に立ち話を継いだ。
「俺の友人が工房をやっているんですけど。基本は革製品の鞄とか靴を扱っているところです。たまに他の修理依頼が飛び込むことがあるみたいで。美術品だった場合、腕利きの修繕職人がいるからその人に頼ってるって話を前聞いたことがあったんです。で、さっきその人の家を聞いてきました」
おお、とルクスが拍手をした。
「流石ぴー…ゼン君、仕事が早い!」
「いやだからマジでさあ…」
ルクスを殴るふりをするゼンを見て、スゥハはふふと笑った。
「では、早速案内をお願いしてもよいかな。ありがとうね、ゼン」
憧れの人からの微笑みの爆弾により、ゼンの顔は真っ赤になってしまった。
「いや全然これくらい…」
照れ臭さのあまり、発露を求め目の前のシャイネの束ねた髪を弄り始めた。くい、くい、とシャイネの毛先を天へ向けている。
何が恥ずかしいのか全く理解できないシャイネは、後ろにいるゼンを仰反る形で覗き込んだ。
「何どしたん痛いんだけど」