金木犀ジャムとクリソベリルキャッツアイ①
朝陽もまだ昇りかけの、弱い光が差し込む刻限。
ふと感じた肌寒さに、掛け布団を無意識に引き上げる。
この季節はどうにも睡魔の誘惑に負けやすいのだが、少し開いた窓からかすかな香りがふわりと漂うと、ぱちりと目が覚めた。
甘く独特なその香りは、玄関と庭に植えてある金木犀のものだ。
んん……と伸びをひとつ。誘惑してくる布団の温もりとはそれで決別する。
(まだ間に合うかな……)
時代箪笥を静かに開け、濃鼠の作務衣に着替える。今日はやりたいことがあるので動きやすい方が良い。
布団を上げ、部屋を出て長い板張りの廊下を進む。かすかな小鳥の声と、遠くに車の走る音。
玄関に置いてあった竹箒で落ち葉を払うついでに、伸びすぎた梔子の剪定を行う。
しゃっしゃっ、と石畳を箒が滑りと、剪定鋏の澄んだ音が庭に響く。
かすかな物音と、己の立てる音が大きく反響して、空に溶けては、消える。
――わずかに外界と異なっているこの空気が、昔から好きだった。
大きく息を吸い込むと、甘い香りが肺いっぱいに満ちた。
ひととおり玄関先が綺麗になると、裏手に回って、土間から竹製のザルを手に取る。部屋の掃除と朝食は後回しだ。これからは時間との勝負なので。
「よし」
小さく気合を入れ、春臣は庭の木に向き直った。
眼前には小さな橙色の花を咲かせる、甘い香りの根源。まだ蕾が開き切らない小さな花たちを、そっと、宝石を扱うように手折ってはザルへと入れてゆく。
まだ花盛りが過ぎない金木犀は塊のまま花を落とす。もう少し後になってしまうと風が吹いただけでも花びらが落ちてしまうので、どうにか収穫が間に合ったようだ。
ぷつり。ふつり。
いつのまにか登った朝陽の眩しさに時折目を細めながらも、手折る
やがて山盛りになった橙の花弁を見て、ようやく春臣はその手を止めた。
(取りすぎちゃったかな……)
甘く香る花びらの山は壮観だが、この後の作業を思えば少しだけ気が滅入る。けれど取ってしまったからにはやるしかない。
(先に朝ごはんの準備するか)
たっぷりの金木犀の花びらは、歩くたびにふわふわと香りを散らす。呼応するように、小鳥の鳴き声が響いた。
土間の縁にザルを置き、土鍋とアルミの鍋を取り出す。土鍋には昨日の冷ご飯と水を、アルミ鍋には水を入れて、火を点ければ準備は終わりだ。
「さて……やるか……」
土間から上がってすぐの部屋にはテーブルが置いてある。普段はここで食事をとることはあまりないのだが、作業用も兼ねているのだ。
新聞紙を広げ、ボウルを置く。その横に色鮮やかな金木犀の山が鎮座した。
ゆったりとした動作で椅子に腰かけて、春臣は再び気合を入れる。
片手に竹串を、もう片方に花びらを。
がくや汚れた花、茎などを慎重に避けて、綺麗な花びらだけをボウルに入れる。
摘まみすぎても花びらが潰れてしまうので、丁寧に、しかし手早く。
穏やかな静寂。年代物の振り子時計の音だけが木霊するが、次第にそれも気にならなくなっていく。
ふと顔を上げると、土鍋が湯気をあげていた。
「っあぶな……!!」
慌てて駆け寄れば沸々と白い米が粥状になっており、焦げてはいないようだ。ほっと息を吐き、火を止める。
時計を見ればちょうどいつもの朝ご飯の時間だった。体内時計は意外と正確だなあと春臣はどこか己の身体に関心しつつ、同居人の物音が一切聞こえないことに思い至る。
「……朱、まだ寝てる……?」
基本的に彼は朝食を取らず、活動時間もまばらだ。しかし春臣の食事の時間には隣にいることが多い。食事時になるとふらりと傍に寄って来ては、自然と春臣の食事風景に溶け込んでいる。
しかし今日は彼に出会ってさえいない。それどころか物音ひとつ無かったような気がする。
もちろん約束しているわけでもないので気にせずに食べ始めてしまっても良いのだが、時折子どものような理由で拗ねるのが朱である。
わざわざ彼の機嫌を取るよりは、一言伝えた方が良いかもしれない。
そう思い支度の手を止め――と言っても、あとは漬物を出すくらいなのだが――家の中をさ迷い始めた。
古さと大きさは桁違いの家だが、彼の性格を考えれば自ずと探す場所は決まってくる。
今日の己は冴えている方だったらしい。まず最初に向かった場所で、彼を見かけた。
内庭に面した部屋の一角。そこは庭を眺めるために大きめのソファを置いてあり、陽当たりも良い。
しかし寝心地の良いソファではなく、床に丸くなって眠っていたのは。