西より紫
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ここにきて、ちょ~っぴり日差しが緩んできた気がするかな?
暑さが残るといわれても、気配はじわじわ広がっている。これが布石と相成って、あるときを境にどどっと次の季節へなだれ込んでいくのが、最近の四季の風情だと思っているよ。
空気を感じ取るうえで、重要なのは肌だと僕は思っている。
身体の中で、彼らへ真っ先に触れるのはその部分だからね。これに応じて汗をかいたり、鳥肌を立てたり、身体へ相応の対応を促してくる。
よく知る反応だったら構わないさ。
けれども、生まれてこのかた知らない反応がされてしまったら? そのときは、どう対応していけばいいのだろうね。
僕の昔の話なんだけど、聞いてみないかい?
天気は西から変わる、と理科の授業で習ってからは、僕は天気が気になるときは、西の空を眺めるようになっていた。
雨降りのときなども、窓越しに西の空を見やってさ。雲が切れたり、色がおとなしくなったりと、天気の良くなる兆しをいち早くつかもうとしていたんだ。
その日の昼も、学校の給食配膳の間で、窓へ寄る。
朝から降っていた雨も、いくらか小降りになってきたが、窓にはまだいくらか水滴がくっついている。
そこから垂れる雨水に、わずかゆがむ窓越しに、僕は西の空を見やったんだ。
校舎とは道路をはさんで向かい側。
延々と続く家の並びのかなたに、青々とした山の稜線が連なっている。
そこより、ここから見て数ミリほどを押し上げて、水色の空間が広がっているのを見て、僕はいくらか安心したよ。
ああも晴れ間がのぞくのなら、この雨もそう長くはないだろうな、と。
が、顔を引っ込めようとした瞬間。
肩を並べる山ぎわから、ぞぞっとせり出してくるものがあった。
青く見えていた山の肌より、なお濃い紫色。
水多き絵の具がにじむように、ランダムに、けれども確実にてっぺんから山肌を不揃いに下ってくるそれを見て、つい「あ!」と声を出して、窓から離れちゃったんだ。
まわりの人も、「なんだ?」とばかりにこちらを見てくる。
僕は目にした景色を、これこれ、こうだと説明するも、みんなが見る時にはもう、最初に見た青い稜線が続くばかり。僕自身も、それを確かめた。
けれども、あの鮮明さはとても錯覚だとは……と、もっとよく見ようとして、窓のふちへ手をかけて、僕は気づく。
手の甲の真ん中あたりに、見慣れないあざが浮かんでいることを。
それはちょうど、山ぎわからにじんで垂れ落ちてきた紫色と、よく似ている気がしたんだ。
放課後になるまでに、雨はすっかりあがって、空の雲もだいぶ占有面積を減らしてきた。
この間、僕は授業の合間などを見計らって、引き続き西の空を監視していたんだ。
先の紫色をした、にじみ出るものたちは出てこない。あれを目の当たりにしなくては、ほとんどの人は信じてくれやしないだろう。
あの垂れ落ち具合は、ちょうど窓を落ちる雨粒たちによく似た動きだった。
彼らはてんでバラバラ、我先にと山を乗り越えては、身勝手に幾筋も流れ落ちていた。一部始終を見届けはしなかったが、きっと山全体を染め、駆け下りていっただろう。
そして、僕たちがあらためて見やるときにはもう、視界へ入らない位置へ移動を終えていた……。
想像すると、少し身震いがしてくる。
身震いというと、あのアザの浮かんだ右腕もそうだ。
気のせいかと疑いたくなる程度だけど、アザがわずかずつ大きくなってきているように思えたんだよ。
ぐっと指で押してみても、たいした痛みがするわけじゃない。かわりに、触れてからしばらくすると、腕全体が勝手にふるふると震えてしまうんだ。
力を込めれば、おさえられないこともない。でも、そうしなくてはいけない時点で、おかしい。
病院に行った方がいいんだろうか……と、思案しているうちに帰りのホームルームが終わる。
昇降口を出て、学校を後にすると、今度は特に刺激していなくても、頻繁に腕が震え出すようになっていた。
今度はこらえられるものばかりじゃない。左手でぐっと握りこまないと、満足に止められないほど強いこともある。
はためには、そういうイタイ病気を患ってしまっているかのような、格好だったと思う。
このような姿を、堂々とさらしたくはない。
多少、遠回りになるが、僕はいつもの通学路を外れて、ひと気のない脇道へ入っていく。
曲がりくねった道を抜け、人ひとりが通れるくらいの洞穴みたいなトンネルを抜ければ、また通学路に合流できるルート。
時間とともに、震えはより強くなり、いよいよ僕の握力を動員しても隠しきれるか怪しいレベルに。
ためしに、手近な石を拾って、おしおきしてやるとばかりに、ぐりぐりと力強く押し付けたり、軽く殴りつけたりするも、たいした効果は得られず。
そうして、いよいよトンネル前まで来たときだ。
ついに左腕のおさえをおのずからはねのけ、右腕が手の甲を上にしながら、さっと西へ向かって伸ばされた。
もちろん、僕はそのようなこと望んでいない。けれども、下ろしたり動かしたりする命令は一向に受け付けてもらえず、なりゆきを見守るよりなかった。
いよいよ震えを隠さず、暴れ出すかと思われた右腕。
その動きがぴたりと止まるや、にわかにアザになっていた手の甲がひび割れる。
血をにじませ、一気に皮膚を破ったそれは、ごくごく細く、小さい木の幹のように思えたよ。
高さおよそ数十センチ。その足元が手の甲の中にうずまってさえいなければ、ドールハウスなどのオブジェの一部とも見られたかもしれない。
それが今、僕の目の前でたちまち葉をつけていく。彼らはいずれも、夏に見る青葉ではなく、ことごとくが、さつまいもの皮を思わせるような紫色をたたえていた。
数秒とたたず、うっそうと生え茂ったそれだけれども、いささかもおとなしくはしていない。
生えた端から、彼らの身はちぎれていく。
元から離れていくのではなく、葉の先端の一部が不意にギザギザに破れて消えて、また残りの一部が破れて消えて……何者かにかじり取られていくかのようだったよ。
ここには僕一人しかいないはずなのに、その何者かはできあがったはしから、どんどんと葉を頬張っていく。
ほどなく葉が食べつくされると、ずるりと僕の手の甲から木は滑り落ちた。
丸裸になった幹は、足元の土の上へ転がるや、みるみる黒く色を変えながら、その身をよじっていってしまう。
火にあぶられた紙が、ひとりでに踊っていくかのようだ。最後に残った、一本のひじきのごとき姿を見て、これが木だったと誰が信じられよう。
僕の手の甲は、この幹が抜けたあととは思えないほど、小さい穴が空いていたものの、そこから何本かにゅるりと根らしきものがせり出してきて、幹のあとを追うように、落ちて、黒ずんで、縮れていく。
震えはもうおさまっている。彼らが追いだされ、改めてみる僕の手の甲にはもう、紫色のアザも、その傷痕も残ってはいなかったんだ。
おそらく、あの山を下りた紫色の連中の仕業だろう。
僕の腕を使い、何をしようとしたかは分からないが、きっとその震えは、これから実験台にされることを察した、身体の恐れだったのではないかなあ。