20.夕立ヴァイオリン —入道雲—-1
「わあー、すごい」
真っ青な空に立ち上る白い雲。海も輝くのうに青い。
そんなイメージ通りの夏の空をスワロが飛び回る。
「まあ、海はいつもの通り、作りもんだけどな。まったく、しょうがねえなあ。スワロのやつ、空があんまり青いから飛び出したくなったのか」
セリフだけきくと、奈落のネザアスは冷静だが。意外とそんな彼が、一番海にはしゃいでいる。
スワロがぱっとフジコの肩に戻り、冷めた視線を送る。
スワロのことをいいながら、一番態度がおかしいのはネザアス本人なのだ。
クールな大人の男を演じつつも、どこかそわそわしているのは、海を前にテンションがぶち上がっている証拠である。そんな彼は水着をきているわけではないが、なぜか、近くの海の家で拾った浮き輪を膨らませて、背負っていた。そこからしておかしい。
「ここは、霜月やなんかの海と違って、結構沖まで作り込んであんだよ。秋の海は大体スクリーン投影だからな。葉月や文月のエリアの海は、本当に泳げるし、ボートで沖まで行けるようになってる」
「凄いね」
「葉月の海は、クラゲがわいてやがったから泳げなかったが、ここは遊泳可能区域だぜ」
ふふふっ、と、なぜかやたらクールに笑うネザアス。
これはどう考えても泳ぎたがっている。フジコの肩のスワロもそれを察知し、呆れているようだ。
(と、とはいえ、なあ)
ネザアスの前で水着になるのは抵抗がある。ネザアスはどうだか知らないが、フジコとしては好きな彼を意識してしまうのだ。
(でも、あんなに泳ぎたがってるし、近くの海の家にレンタル水着沢山あったんだよね。か、可愛いのもあったし、それなら、まあ)
「あ、あの、ネザアスさん」
思い切って声をかける。
「せっかくの海水浴場だし、泳いでみようか?」
「マジかー!」
ぱぁぁあとネザアスの顔が明るくなる。
「本当か? いいのか? お嬢、泳げるか? カナヅチじゃないよな?」
(う、嬉しそう!)
これは、どう考えても嬉しがっている。
「やっぱり、夏っつーと海に行かなきゃなー。シャワー浴びなきゃならんの、めんどくせえけど」
そわそわするネザアス。そんなに泳ぎたかったのか。
善行をした。徳を積んだ気分だ。
「それじゃ、更衣室で着替えて泳ごうぜ!」
と、早速、駆け出そうとしたところで、突然、ぽた、と大粒の雨粒が空から降ってきた。
「あれ、雨?」
とフジコが眉根を寄せたところで、ざばあっと海面の一部が盛り上がった。まるで海坊主みたいなそれは真っ黒な体をしている。
泥の獣だ。
そして、砂に黒いあとをつける雨粒。雨は獣の動きを活性化させるのだ。
ネザアスが早速殺気立つ。
「なんだ、っ、コイツ!」
「ネザアスさん、待って。これくらいなら、あたしが歌って大人しくさせてみ……」
慌てて援護しようとフジコが止めるが、ネザアスはもはや人の話を聞いていない。
「てめぇ! せっかく人が水遊びしようとしてたのに!」
浮き輪を空中に飛ばしたのが契機。だんと左足から踏み切り、まだ水分を含まない砂が飛ぶ。
「空気読め! この外道が!」
抜き打ちで、ネザアスの怒りの一撃が現れた獣を真っ二つに切り裂いた。
「せっかくだったのにね」
「ああ」
ネザアスはため息混じりだ。
庭には雨が強く降っていた。避難した海の家近くの休憩施設で、雨宿りをしている二人である。
襲ってきた泥の獣は、怒りの一撃でとっとと沈めたが、その後はスコールのような雨。
雨が降っては泳げない。雨には汚泥が含まれ、感染の危険もあるのだ。
「ごめんな、お嬢。せっかく楽しみにしてたのにな」
「ああ、あたしは大丈夫。明日晴れたら海で遊べるといいね」
(いや、本当にあたしはそんなに)
明らかに落ち込んでいるのは、ネザアスの方だった。かわいそうになってきた。
(へ、凹んでいる。海で遊びたかったんだなあ)
外では雷が鳴っていて、ピカっと稲光が走る。あの入道雲は演出用のものではなく、実際に雷雨をもたらすものだったようだ。強い雨は止みそうにない。
「お嬢は、雷、怖くないのか? こんな縁側にいてよ?」
ふとネザアスに尋ねられる。
「え? そりゃあ、怖いよ? でも、まだ雷のは遠く……」
と言いかけたところで、フジコの視線の先でパッと光が散った。その瞬間、真っ白な光の筋が赤と青の火花が走りながら海に向かって伸びていく。あっと思った時には、凄まじい音がした。
「おっと、雷落ちたなー」
ネザアスは、きれいだなー、あれーと呑気な態度。
「海に落ちると、ざぱーん、ってすげー音するんだよな。迫力あっていいよなっ? あれ?」
いつのまにか、フジコは身をすくめて思わずネザアスの服を掴んでいるし、スワロも驚いたのか、ネザアスの懐に隠れてしまっている。
「ご、ごめんなさい。ネザアスさん。やっぱり怖い」
怯えるフジコとスワロに、ふふ、とネザアスが笑う。
「しょうがねえな。ま、雷、いやならここにいても怖いだけだから、小屋の中、探索しようぜ」
フジコはその申し出を素直に受けることにした。
その休憩所は、元は何か催しをする時の控え室にも使われていたようで、色々なものがおいてある。
フジコは、さっそく小部屋に楽器や小物が押し込まれているのを見つけた。
キーボードやスピーカー。海の家のイベント用か何かだろうか。
と思っていたら、なぜかヴァイオリンケースが投げ出してあり、フルートやトランペットなどの金管楽器らしいものも乱雑に置かれている。
「一貫性ないなあ。パレードとかもしてたのかな」
ただ単に、倉庫として使われていただけかも知れない。
ヴァイオリンケースを開けてみると、やはり、中からヴァイオリンが出てきた。他の楽器より保管状態がよく、引き出してみるとまだ弦も大丈夫そうだ。
「これ、まだ大丈夫そう」
ぴぴー? といつのまにか肩にいた、機械仕掛けのスワロが小首を傾げる。試しにチューニングしてみる。なんとか大丈夫そうだ。
「ウィス?」
音を聞きつけて別室のネザアスが興味深そうに覗き込んだ。
「へえ、ウィスはヴァイオリン弾けるのか?」
「えっ、うん。少しならね。歌の方が評価されていたけど、音楽の基礎勉強としてピアノとか、ヴァイオリンとか習っていたのよ」
「へー、凄いな」
じーっとネザアスが、ヴァイオリンを見る。
「おれもなんかしらそういうの、弾けるといいんだけどな」
「え? 興味あるなら教えるよ?」
「んー、いや、そういう才能はねえからー。おれ、音感やべえし」
それならなぜ弾きたいんだろう。という顔をしていたのか、ネザアスが自発的に説明する。
「お嬢の歌に合わせて、なんか音出せると良いなーと思ったんだ。ぼーっと聞いてるといつも寝ちまうしさ」
「ふふ、そういうこと」
ウィステリアの歌は、黒物質でできた彼らの興奮を鎮める。それには黒騎士のネザアスも影響され、心地よい反面、眠くなってしまうのだ。
「ゼラチン・チップでもあればいいんだけどなー」
耳慣れない言葉がネザアスの口から飛び出ていたが、ふと彼はケースを覗き込んでにやりとした。
「お、言ってみるもんだ。ちょうど良いモンあるじゃねえか」
「良いもの?」
ネザアスはヴァイオリンケースから、アルミ包装された何かを引き出してきた。包装にヴァイオリンの絵が描かれている。
「これ、知らねえだろうな。経口式のインストールチップだ。通称ゼラチン・チップ」
「なにそれ?」
フジコの反応に、ネザアスは満足げだ。
「これはゼラチン状の食材に、データぶち込んだものだ。まあ、これは、"おれたち用"なんだよな。元は、奈落のキャストのために用意されたもんなんだろうよ。多分一時的なイベントを行うのに使われた。舌先で溶かして使う」
ぴーっと迷いなく、歯で包装を破るネザアスは、中のぺらぺらのゼリー状のものを取り出した。
「これを食うと、あらかじめ設定された技能が知識としてインプットされる。こいつはヴァイオリン用。つまり、おれみたいな素人でも、ある一定のレベルで弾けるようになるてこと。まあ、当然、おれみたいな、特定のナノマシン使って造られた体のやつしか無理だけどな。ここのキャストにも、そういうやついたから」
フジコは驚く。
「えっ、すごいね! 練習する必要ないの!」
「そこは微妙なとこだな。コイツで覚えたことは、反復練習しないとスカッと忘れるぜ。ま、興味のないやつなら、一週間くらいかなー。だから、慌ててやるイベント用さ」
ネザアスは舌先にそれをのせつつ言った。ゼラチン・チップは、早速とろけて消えていく。
「ま、おれより後からできた黒騎士の中には、永遠に覚えてられるやつもいるらしかったけど。忘れねえでずーっと興味ねえこと覚えていくと、大体のやつは人格がおかしくなったりするからよ。忘れるっつーのも、まあ、大切なことだ」
「そんなもんかなあ」
「ああ。忘れることは救いだぜ?」
にっと笑うネザアス。その言葉は、彼の過去を考えるとなんとなく深い。
「てことで、これで今夜くらいには、おれもヴァイオリンが弾けるようになるてことだ。へへっ、お嬢の歌やヴァイオリンに合わせてなんか弾けると思うぞ」
「えっ、それは素敵だね!」
ウィステリアは、思わずヴァイオリンを抱える。つまりセッションができるということだ。ネザアスとは絶対そういうことはないと思っていたので、フジコは思わず舞い上がってしまう。
「それ、凄くいい」
「へへー、良い考えだろ」
「海に行けなかったけど、代わりにいいことあったね」
ウィステリアは、笑顔で答えた。
「入道雲に感謝しなきゃ」




