(侍女の)婚約者が私に婚約破棄を宣言したのですが?
カルディア半島の中央部に位置するカーリタス王国。
その宮廷で開催された国王陛下主催の園遊会の会場に、突如として場をわきまえない居丈高な青年の叫びが響き渡った。
「エルシリア公爵令嬢! 常々身分を笠に着ての専横は目に余りある! ことに下々の者に対してはもとより、婚約者たる俺に対する不敬はもはや許容しがたいっ! ゆえに政略結婚でしかないお前との婚約を破棄し、真に愛すべき彼女――カタリーナ・アレジャーノ・エルミート男爵令嬢と正式に婚約し、真実の愛に従った結婚をすることを、この晴れがましい公の場で、この俺……いや、私、王太子オーバン・ウスターシュ・カーリタスの名において宣言するものである!」
突然名指しされた上、婚約破棄を宣言された彼女――光沢を放つ艶やかな青いドレスをまとった淑女、エルシリア嬢は、煌めくようなプラチナブロンドの御髪ひとつ揺らすことなく、また月の女神を思わせる静謐な表情を変えることもなく、自分を指さして文字通り糾弾するオーバン王子と、その隣に体を密着させて侍るフワフワの栗色の髪をした小動物めいた(反して胸と腰の肉付きは良い)同年代の令嬢を、熱のないアイスブルーの瞳でちらりと一瞥するにとどまった。
それから白孔雀の羽根でできた扇で口元を覆って、嘆息混じりに小さく呟く。
「……度し難いわね」
「――なっ……!?」
折悪しくこの騒ぎの中でも演奏を途絶えさせない、プロの鑑とも言える宮中楽団の奏でる曲がスローテンポになっていたことと、周囲が水を打ったかのように静まり返っていたことで、その独白はオーバン王子の耳にも届いたらしい。衆人環視の下で気に食わない婚約者を吊し上げて、留飲を下げていたアホ面が即座に憤怒に染まった。
「貴様っ、言うに事欠いて、この俺に対する暴言――もはや看過できん! 衛兵っ! 王太子の名において命ずる。エルシリアを即刻ひっとらえて地下牢に幽閉せよ!!」
ヒステリックな口調で警備に当たっていた近衛兵に向かって言い放った。
途端、静まり返っていた園遊会の場が、半ば悲鳴のような驚愕と戦慄のどよめきに覆われる。
困惑した表情で顔を見合わせる近衛兵たちと、その場から動かず厳つい鉄面皮を崩さない警備責任者。
と、そんなオーバン王子の激高も柳に風と無表情を貫くエルシリア嬢に代わって、その背後に慎ましく侍っていた彼女と同年配だと思える金髪の女性が、一歩前に出て憤りもあらわに反論した。
「――殿下、失礼ながら国内の門閥貴族や海外からの賓客が一堂に会するこのような場で、かような発言はあまりにも非常識過ぎます。まして王族たる御身であればこそ、軽はずみな行動と発言は控えるべきでしょう」
エルシリア嬢の美貌には劣るものの(あくまで並んでしまえばと言う意味で)、品格と高い教養を感じさせる十六~十七歳ほどと見受けられる、楚々とした令嬢である。
整った顔立ちではあるものの、黙っていても積極的に周囲を振り向かせるエルシリア嬢のような華やかさはない。仮に女性の容姿に静と動があるなら、この令嬢に備わったものは明らかに前者に属するだろう。
「……誰だ貴様は? 王太子たる俺の許可も得ずに発言をするなど不敬であろう!」
不快気に彼女を睨みつけるオーバン王子。
言われた彼女は、一瞬虚を突かれたような表情を浮かべて絶句し、それからまじまじとオーバン王子の顔を見返すと、どこか途方に暮れたような面持ちでエルシリア嬢に視線を向けた。
事情を知る一部の者たちからも困惑と諦観、茫然自失が混じった視線が向けられる中、騒ぎを聞きつけた主催者であるオーバン王子の父親――ラッパラン国王が、色を失って駆け寄ってこようとしたのを、視線で制したエルシリア嬢が、タンッと音を立てて手にした扇を畳んで、金髪の彼女に向かって差し出した。
慣れた仕草で恭しく扇を預かる彼女。
「エミリアナ・レメディオス・バレンティン伯爵令嬢。バレンティン伯爵家は我が家に代々仕える譜代にして建国以来の股肱の臣、さらに付け加えれば彼女は私の幼馴染にして侍女に当たります」
そうしながら、どこか面白がる口調でエルシリア嬢はエミリアナ嬢に語り掛けた。
「リア、どうやらオーバン殿下は貴女の事をご存じないようよ。二年間も同じ特別教室で、国内外屈指の碩学たる教師陣から薫陶を受けたというのに……ま、〝犬も朋輩鷹も朋輩”とも言いますから、犬に多くを期待しても仕方がないのかも知れんせんけれど」
「左様でございますね、エルシリア様。まあオーバン殿下はほとんど特別教室に姿を見せずに、下級貴族や一般庶民が講義を受ける一般棟へ入り浸り、学業そっちのけで女子生徒に囲まれて悦に入っていたようですから。私も苦言を呈して、翻意を促していたのですが――されどまさか認識すらされていなかったとは……。皆様方のご期待に添えず、我が身の不明と力不足を恥じ入るばかりでございます」
『二年も同じクラスに在籍している級友の顔も覚えていないとは、呆れ果てたものね。まあ、いくら立派な師についても生まれついての愚者は治らないので仕方ないかも知れないけれど』
『そうですね。立場もわきまえずに学園でハーレムモドキを作って遊び歩いていました。注意していたのですが、馬の耳に念仏だったようで申し訳ございません』
いまの会話を端的に言い表すとこうなる。
そんな一連の貴族らしい諧謔と高尚な言い回しであてこすられたオーバン王子は、意味は分からないなりに雰囲気と周囲の反応から自分が馬鹿にされたことは理解したのだろう(馬鹿ほど他に何もないから気位とアンテナだけは高い)。
「そうか、思い出したぞ。お前、貴族用特別教室の学級委員長だな! 顔を合わせるたびにウダウダと小言ばかり言いやがって、いい加減うんざりしていたんだが、そうかお前、エルシリアの使用人だったのか!? ――はっ! さてはエルシリアの差し金で俺を公衆の面前で面罵していたんだな!!」
「「違います」」
勝手に得心するオーバン王子に対して無駄だとは思いつつ、周囲へのアピールとしてきちんと口頭で否定するエルシリア嬢とエミリアナ嬢。
「ふん、口では何とでも言えるが、語るに落ちるとはこのことだな。エルシリア、貴様の罪状がまたひとつ増えることになったわけだ。この悪女め!」
調子づくオーバン王子を路傍の石のように見据えて、ひたすらどうでもいい口調で一言言い添える。
「他人を指さすなど紳士にあるまじき行為ですが、その前にひとつ。以前から何度も申し上げている通り、我が家は公爵家ではなく大公家です。それも――」
噛んで含めるかのようなエルシリア嬢の説明を鬱陶し気に手で遮って、オーバン王子は小馬鹿にしたかのように鼻を鳴らした。
「ふん、似たようなものだろうが。王族以外は大公だろうが農奴だろうが、等しく下賎の者だ」
そのあまりな――貴族制度を理解していない言い分に、その場に臨席した国内貴族と海外からの賓客の間に激震が奔った。
確かに臣民公爵は王の臣下と言えるが、王族公爵となればれっきとした王族であるし、まして大公ともなれば王族と同等――第二王族とも言える特権の保持者である。
それをすべて一緒くたにするとは、さしもの選民思想の権化である――階級社会に生きている貴族は、逆に階級にはことさら厳格である――貴族たちにとってこの上ない侮辱であった。
期せずしてまじまじと親であるラッパラン国王とその隣の王妃に、
『息子にどんな教育を施しているのだ?』
『親の顔が見たい』
非難と好奇心が入り混じった視線が向けられる。
身の置き所がない様子で、顔色を青から白、土色へと変えるラッパラン国王と、夫の不甲斐なさに爆発寸前になっている、息子によく似た高慢ちきな(若い頃は)美貌の王妃。
空気が読めないのか読むことができないのか、ともかくもオーバン王子はこれ見よがしにカタリーナ男爵令嬢の腰に手をやって抱き寄せ、脂下がった下衆な笑みを浮かべながら、傲然と言い放った。
「ともかく貴様の不景気な面も、取り澄ました態度も、これで終わりだ。せいぜい俺様に捨てられた傷物令嬢として、どこぞのジジイの後妻か修道院にでも入ることだな。見ろよ、このカタリーナの可愛らしさ、愛嬌の良さ。お前の仏頂面とは大違いだ」
媚びを売りまくっているカタリーナ嬢へ満面の笑みを向け、ついで忌々し気な視線をオーバン王子はエルシリア嬢へと向けた。
ねっとりとした口調での追い打ちに、エルシリア嬢はチラリと侍女のエミリアナ嬢の動向を窺い、彼女が『処置なし』という表情で小さく首を横に振ったのを確認し、得心した表情でオーバン王子へと一礼をするのだった。
「殿下の婚約破棄宣言、エルシリア・クリステル・レア・カエルムの名において確かに承りました」
慇懃ではあるものの木で鼻をくくったような返答にオーバン王子が苦虫を噛みつぶしたかのような表情になり、何事か苦言を喚こうとしたところで――蛙が絞殺されたような叫び声が、ラッパラン国王と宰相、外務大臣、国内の有力貴族や商人の間から期せずして放たれ、出鼻を挫かれた形になった舌鋒が止まる。
周りの反応が理解できずに目を白黒させるオーバン王子に向かって、
「婚約破棄に伴う違約金と慰謝料、並びに不貞に対する賠償責任に関しては、後日国家間の――」
「はぁあ!? 慰謝料だと! 当然お前が俺に払うんだろうな?!」
「エルシリア様、あたしにもちゃんオトシマエつけてくださいね?」
気にせずに淡々と――さっさと茶番は終わりにして、園遊会を後にしたいという態度も明瞭に――畳みかけてしまおうとしていたエルシリア嬢の台詞が、癇癪を起こしたオーバン王子の叫びとカタリーナ嬢の甲高い声で遮られた。
「……いえ、この場合は一方的に婚約を破棄したオーバン王子から、婚約者――元婚約者側へ支払うことになります」
カタリーナ嬢の無作法かつ下劣な――貴族言葉ではなく、庶民言葉であったため言葉の意味が理解できなかったこともあり――言いがかりは無視して、オーバン王子に改めて説明をするエルシリア嬢。
「はっ! バカを言うなっ。なぜ俺がお前に慰謝料なりなんなり払わなければならない!!」
「婚約ということは契約であるのですから、そちらから一方的に契約を破棄したり、契約不履行となった場合には、当然それに対する補填や代償を支払う義務と責任があるからですわ」
「ふん、王太子の名において、そんなものは不問にする。そしてそっくりそのまま貴様へ請求を行う! 覚悟しておけ!!」
一笑に付して大御な仕草で宣言するオーバン王子と、
「きゃ~~っ、素敵だわ、オーバン様ぁ!」
嬌声をあげてしなだれかかるカタリーナ嬢。
厚顔無恥なその宣言に、軽く目を細めたエルシリア嬢の視線が無言で巡らされ、固唾を呑んで見守る群衆の中のひとりに留まった。
「コルンガ卿」
「は、はい。大公王女様!」
指名された壮年の男性――法務大臣であるコルンガ伯爵が、そそくさと前に出てくる。
「カーリタス王国は専制君主制ではなく、議会主導の法治国家と理解していましたが、私の認識に誤りはありますか?」
「はい、その通りでございます」
エルシリア嬢に問いかけられたコルンガ法務大臣が、恭しく腰を折りながら簡潔明瞭に答える。
「で、あるならば、先ほどのオーバン王子の言葉には何ら強制力はないものと考えて間違いないか?」
「左様でございます。ただのモノを知らぬ子供の戯言に過ぎませんので、平にお許しを。我ら法務、外務、大蔵あらゆる機関は全力をあげて、大公王女様のおっしゃる通り、今回のオーバン王子の独断による婚約破棄の賠償について、善処させていただく所存にございます」
そんなコルンガ法務大臣に、
「オーバン王子の独断、ね」
意味ありげに含みを持たせた台詞をなぞるエルシリア嬢。
目の前で展開される意に沿わないやり取りに、あからさまに無視されたオーバン王子が激昂してコルンガ法務大臣に詰め寄る。
「どういうことだ!?! 勝手に決めやがって! コルンガ、貴様裏切る気か!?」
「裏切るも何も……。そもそもオーバン殿下に公的な権限など何もありませんよ?」
「俺は次期国王である王太子だ! 俺の命令は国の命令だ!」
臆面もなく言い切るオーバン王子の戯言に、園遊会に参加しているほとんどの面子の顔に、
「なにを言っているんだ、こいつは?」
といった憐憫とも嘲笑ともとれぬ薄ら笑いが浮かんだ。
誰が最初にそれを口にすべきか――不興を買って勘気に触れるのが確実なため――多くが二の足を踏む中、帰りかけたエルシリア嬢が行きがかり上仕方なく……という熱のない口調で、改めて侍女のエミリアナ嬢から白孔雀の扇を受け取って、優雅に広げながらオーバン王子に尋ねた。
「オーバン殿下、貴方の発言は徹頭徹尾意味不明なのですが、そもそも立太子もしていない貴方がなぜ王太子を標榜されているのでしょうか?」
「そんなもの、俺が父上と母上の長子だからに決まっている! 第一王子の俺が王太子だろうが!」
当然とばかり胸を張るオーバン王子と、その尻馬に乗って、
「そーよそーよ! そしてあたしが王太子妃なんだから!」
と騒ぎ立てるカタリーナ嬢。
「それはいつ頃どなたから聞かれた話ですか?」
「ふん、物心ついた時には母上や周りの者たちから耳にタコができるほど聞かされた話だ」
「……なるほど」
冷ややかなエルシリア嬢の瞳に射すくめられて、王妃と側用人たちの何人かが背筋を震わせた。
「――いまだにそのようなことを……。ある種の洗脳ですね。周囲の妄言に踊らされた、あるいは貴方も被害者なのかも知れませんが、十八にもなった男子……まして、第一王子が現実を把握できないというのはいかがなものでしょうか?」
「なにを訳の分からんことを……! 貴様はいつもそうだ。取り澄まして、俺のことを見もしない。だから俺に相応しくないというのだ!」
「……せめて『どういうことだ!?』と疑問を抱くべきでしょうに、自分に不都合な諫言や忠告は聞こえないらしく、実に便利な耳ですね。――これは血筋でしょうか?」
たっぷりと皮肉を乗せた口上と視線を、エルシリア嬢は国王夫妻へと投げかける。
「なっ――この小娘が――がががっっっ!?!?」
癇をたてたらしい王妃が、分厚い化粧をヒビ割って般若のような素顔で、エルシリア嬢へと掴みかからん勢いで喚きながら前に出ようとしたところ、誰かが素早く足をかけて躓かせ、さらに外務大臣である公爵の腰の乗ったフックが前のめりになった彼女の顔面を全力で打ち抜いた。
「王妃陛下が心労でお倒れになられた。誰か別室へ連れていけ」
何事もなかった顔で白々しく言い放った外務大臣の指示に従って、近衛兵たちがテキパキとした動きで、見事に失神した王妃を備え付けの〝失神ソファ”に寝かせ、そのまま縄でグルグル巻きにして、どこぞ目障りでない場所へと運んでいく。
「なっ、なっ、なっ……⁇!」
王妃に対する暴力行為とそれが当然とばかり動じない門閥貴族たち。そして自分の命令には従わなかったくせに、公爵の指示には唯々諾々と従った近衛兵たちの態度に、言葉にならない上ずった呻き声をあげるしかないオーバン王子。
「さて、少々横槍が入ってしまいましたが、改めて説明いたしますと、そもそもオーバン殿下、貴方の王位継承権は限りなく低いのはご存じですか? 確か二十位後半のいても居なくても構わない順位だったはずですが」
気を取り直してのエルシリア嬢の解説に、オーバン王子が「はぁ!?」と間抜け面をさらした。
「バカを言うな、俺は第一王子だぞ!」
「ええそうですね。ですがそれが何か?」
心底不思議そうに尋ね返すエルシリア嬢を、ふたり揃って侮蔑しまくるオーバン王子とカタリーナ嬢。
「常識を知らないのか! これだからバカな女は……普通、国王の第一王子なら次期国王だろうが!」
「そーよそーよ! 当たり前じゃない!」
「この国の王位継承権については、順位は議会の採決で決定され、また王太子の選出も、国王陛下を含む高位貴族八人による元老委員会の過半数の承認が必要とされますが、オーバン殿下を王太子候補とする話は、殿下がお生まれになられた直後に否決された――と聞き及んでおります」
エルシリア嬢がそう口にした瞬間、国王を除く七人の高位貴族が一斉に頷いた。
「な……っ! なぜだ!?」
どうやらここに来てようやく危機感を覚えたらしいオーバン王子が、狼狽した様子で周囲を見渡して誰にともなく問いかける。
ついでに、
「え~~っ、カタリーナ難しいことわかんな~いっ」
急に落ち着きがなくなったオーバン王子の態度が不満なのか、カタリーナ嬢が拗ねてあざとく頬を膨らませていた。
「まず第一に貴方のご生母である現王妃陛下が子爵家の出身であり、派閥の後ろ盾がないことがひとつ」
細い指を立ててエルシリア嬢がひとつひとつ理由をあげつらう。
「なっ……! 貴様、母上をバカにするのか!? そんな風だからカタリーナを差別し、学園内で孤立させていたのだろう!! 平等を謳う学園にそぐわない下劣な選民思想に染まった化石のような女だ。だから俺はお前が嫌いなんだ!」
「そーよそーよ、イジメ首謀者! いけず女ーっ!!」
キーキー喚き立てるふたりの言動に軽く眉をひそめたエルシリア嬢は、傍らに侍る侍女のエミリアナ嬢に問いかけた。
「シア、そもそも『いじめ』とはいかような意味合いの言葉でしょうか?」
「はい、エルシリア様。下々の言葉で弱いものを苦しめ、痛めつけたり、つらく当たることを指します。なお、『いけず』というのは単なる罵倒語ですので、お耳汚しとしてお気になさらずお忘れください」
折り目正しく答えるエミリアナ嬢の言葉に小さく頷いたエルシリア嬢は、改めてエミリアナ嬢に問いかける。
「シア、貴女は彼女――カタリーナ男爵令嬢とやらにイジメを行ったのですか?」
「いいえ。彼女は一般棟の生徒ですので、伯爵以上の高位貴族の子息子女が学ぶ特別棟とは物理的にも離れており、学則によって自由な行き来も制限されているため、そもそも言葉を交わしたことすらございません」
あっさりと否定するエミリアナ嬢に、案の定食って掛かるオーバン王子。
「噓をつけ! 貴様がエルシリアの命令で可憐なカタリーナに対していじめを行った実行犯なのだろう!」
「そうよ! 一年の頃からあたしの教科書をボロボロにしたり、体操服にハサミを入れたり、それに……そうよっ、夏休み前にはエルシリア様とアンタのふたりがかりで、あたしを階段から突き落としたじゃないの!! オーバン様、あたし確かに逃げていくふたりを見ましたぁ! 本当に死ぬかと思ったんですぅ」
それに追随して涙ながらに訴えかけるカタリーナ嬢。
「おおお、可哀そうにカタリーナ……はっ、そうだこれは殺人未遂だ。コルンガ、これならば十分にエルシリアの有責となるだろう?!」
カタリーナ嬢を慰める途中から俄然鬼の首でも獲ったかのような顔で、オーバン王子はコルンガ法務大臣に同意を求めるのだった。
「……証拠は? カタリーナ・アレジャーノ・エルミート男爵令嬢」
どこか白けた表情でコルンガ法務大臣がカタリーナ嬢に水を向ける。
「たーくさんありますぅ。破れたノートとか、体操服とか、あ、あと階段から落ちて怪我した時に、学園の医務室にも行きました~」
本人は媚びを売っているつもりなのかも知れないが、洗練された言葉遣い、優雅な振る舞い、貴族としての気品が第一であり、美しいという価値観で統一された王侯貴族たちの目と耳には、庶民言葉と躾のなっていない彼女の一挙手一投足が、この園遊会に参加するような身分の者たちには不快でしかなかった。
「つまり客観的な証拠と証言がない、と。――これらの申し出について反論はございますか、エミリアナ・レメディオス・バレンティン伯爵令嬢?」
「一切身に覚えがございません。証拠であるなら私の貴族棟への入退出時の記録を、証言であるなら私の身辺警護に携わる護衛官にお聴き取りください」
堂々たる、なおかつ誰が聞いても一分の隙も無い論理だった反論に、女主人であるエルシリア嬢を筆頭とした大部分の賓客たちが一様に小さく頷いた。
「なるほど。事実関係につきましては憲兵と調査機構に裏付けを取らせることにして……ああ、エルミート男爵令嬢。証拠品である破れたノートや衣服などは町屋敷の自室に保管されておられるのかな?」
「そ、そうよ。だけどそれが――」
「いやなあに、いまから憲兵を派遣して証拠品を回収いたしますので確認しただけですよ。ご安心なさい、最新の調査方法により指紋の採集が可能になりましたので、それらの物品からエルミート男爵令嬢以外の、バレンティン伯爵令嬢の指紋が発見されれば動かぬ証拠になります。――ま、発見されればですが」
それを聞いた途端、エルシリア嬢がまとうドレスに酷似したドレスの青よりも顔色を青くして、露骨に周章狼狽するカタリーナ嬢。
「そ、そんなぁ! 勝手にレディの部屋に入るなんてダメです! ぷんぷんですぅ!」
「……うむ、そうだ。カタリーナに落ち度があるわけがない。調べるならその侍女と、何より黒幕であり共犯者であるエルシリアの身辺であろう。それとも貴様ら、公爵令嬢であるからと有耶無耶にするつもりか!?」
ほとんど脊髄反射でそれを擁護するオーバン王子を、コルンガ法務大臣が感情のない瞳で見据えた。
「大公王女殿下ですな。法の番人たる私が、いかに尊き身分の御方であろうとも、我が国内で犯罪をなしたと成れば忖度などいたしません」
まあ名目上はそう公言するしかないだろう。
「しかしながら大公王女殿下には理由がございませんし、何よりもその〝イジメ”とやらに関わっていない動かぬ証拠がございます」
この場の証言だけで現場も見ていない、証拠の鑑定結果も出ていないこの段階で、自信満々に言い切るコルンガ法務大臣の断定に、オーバン王子は不快そうにコルンガ法務大臣とエルシリア嬢とを見比べる。
納得がいかなそうなオーバン王子に対して、コルンガ法務大臣はあてつけがましく付け加えた。
「先ほどのエルミート男爵令嬢の話では、すべての事件は夏季休暇の前に起きたとのこと。であれば物理的に大公王女殿下が関わることは不可能でございましょう?」
「なぜだ!? 理由を言えっ!」
自明の理という口調で言い切ったコルンガ法務大臣に、オーバン王子が詰め寄る。
「大公王女殿下が我が国を表敬訪問されたのは、学園が夏季休暇に入って以後の事でございます。私も同席しましたが、国王陛下御夫妻の名代として、オーバン王子が代表としてレセプションで歓迎の挨拶を行ったはずですが?」
そこへ、すかさず外務大臣から補足の説明が入った。
「――はぁ!? 俺が挨拶……エルシリアに?! そんな覚え……あ、いや、そういえば父上に命じられて、嫌々出迎えたことが……だが、それは形式として婚約者に挨拶するだけだと……」
ブツブツと呟くオーバン王子の独り言を耳にしたエルシリア嬢が、得心した様子で手にした扇を畳んで手を打った。
「ああ、それで初対面にも関わらず態度が素っ気なかったわけですね。――あ~、あああ、ついでに思い出しました。そちらのカタリーナ男爵令嬢でしたか? その方もオーバン殿下の傍らにおりましたわね。私が着ていたオレンジ色のドレスとまったく同じ色とデザインのドレスを着て」
「「「「「「「「「「なっ――!?!?!?」」」」」」」」」」
さもいま思い出したといった風なエルシリア嬢の言葉に、その場にいた紳士淑女の間に激震が奔る。
言うまでもなく公式の場では、誰がどんな衣装を着ているのか事前に届け出があり、お互いに似たような衣装は避ける、目上の相手を引き立てる慎みを持つ(要するに結婚式と同じ、花嫁以外は純白の衣装、ましてやドレスなど非常識ということ)のは当然のマナーである。
ところがわざわざ相手と同じ色、デザインと同じ衣装をまとって出迎えたとあっては、非礼以前の喧嘩を売るも同然の暴挙と言えた。
さらにとどめとばかり、エルシリア嬢はカタリーナ男爵令嬢がいま現在着ている、自分と同じ海の群青色を思わせる絹織物のドレスをためつすがめつ眺めて、軽く肩をすくめながら顔色が土色に変じて胃の腑を片手で掻きむしっているラッパラン国王へと問いかける。
「時に、彼女が身に着けているドレスの色は〝ロイヤル・オーシャン・ブルー”ですわね。古来よりカエレスエィス帝国の直系皇族しか身につけられない色。帝国が滅んだいま、これを使えるのは我がカエルム大公国の王族だけのはずですけれど、この国ではたかだか男爵令嬢ごときが身に着けられるのですね?」
「「「「「「「「「「「!!!!!!!!」」」」」」」」」」」
刹那、先ほどとは比べ物にならない驚愕――驚天動地と言っても過言ではない、激震がこの場を支配した。
さしもの宮廷楽団も演奏の手を止めたほどである。
『バカな!?』
『信じられん!』
『尊きカエルム大公国とカエレスエィス帝国に対する侮辱だ!!』
『ラッパラン国王は愚息とともに国を亡ぼすつもりか!?』
『暗愚の愚王めが……!!』
猛然と湧き起るバッシングの嵐にラッパラン国王はもはや言葉もなく、膝から頽れる寸前であった。
「――は? カエルム大公国?」
「なにそれ~?」
いまだに状況が呑み込めないオーバン王子とカタリーナ嬢に向かって、心底徒労感をにじませながら外務大臣が付け加える。
「言うまでもありませんが、カエレスエィス帝国は世界の半分の地を支配していた超巨大帝国です。四百年前にあまりに肥大化したがゆえに内部分裂により消滅しましたが、カエルム大公国は帝国のブエナベントゥラ九世陛下の双子の皇弟であったクストディオ大公陛下により、七百年ほど前に建国された国であり、新大陸など植民地を含めた領土は往年の帝国に匹敵し、こと貿易に関しては大公国の関与なしに行うことは不可能であり、その膨大な富は世界中の財産の三分の二に匹敵するとも言われております」
それを聞いて鳩が豆鉄砲を食ったような表情になるオーバン王子。
「はぁあっ!? エルシリアが?! 何かの間違いじゃないのか?」
再び不躾にエルシリア嬢を指さすオーバン王子の態度に、外務大臣の額に青筋が何本も浮かんだ。
「大公王女殿下です、殿下。品性と正気を疑われますので、そのような態度と口の利き方は即刻おやめください。カルディア半島の一部でしかないカーリタス王国とは、歴史も血筋も国力も、比べるのもおこがましいほど尊き御方なのですから」
「は? いや……なら、なんでそんな女が俺の婚約者だったんだ?」
呆然と尋ねるオーバン王子に対して、エルシリア嬢が心底不思議そうに尋ね返す。
「一番疑問なのはその部分ですわね。オーバン王子、なぜ私が貴方の婚約者などという思い違いをされていたのですか? 貴方の婚約者だったのは、ここにいるエミリアナのはずですけれど?」
エルシリア嬢はチラリと背後に侍るエミリアナ嬢を一瞥してから、周囲にいるカーリタス王国の高位貴族たちに視線で問いかける。
『当然』という顔で無言で頷く彼ら。
「え? え? だ、だって婚約者の名前はエ……なんとかアナって聞いたし、王子たる俺の婚約者なら公爵令嬢なのは当然だろう?」
あまりにもお粗末過ぎる言い訳に、周囲から失笑と乾いた笑いがこだまする。
「再三再四申し上げている通り、私はカエルム大公家の大公女であり、大公国の王女にして、栄えあるカエレスエィス帝国皇帝の直系皇族でもあります。口幅ったい言い方になりますが、小国のお飾りの王子とは釣り合いが取れるわけがないではないですか。そもそもなぜシアにこの国の護衛がついていたと思っているのですか? 貴方の婚約者だからですよ」
凍てつくような眼差しをオーバン王子へ放つエルシリア嬢。それから開いた扇で口元を隠して長々と嘆息した。
「本当はシアを婚約者とすることも私は反対だったのですが、寛容な大公王陛下と、すでに泉下に旅立たれた先代のこの国の国王陛下とが懇意にしていたとかで、不承不承承知したのですけれど、まさか親子二代に渡って我が国の婚約者が愚弄されるとは――」
「は? 二代? どういうことだ?」
寝耳に水という表情で問い返すオーバン王子に、苦虫を嚙み潰したような顔でコルンガ法務大臣が答える。
「王子の婚約破棄はこれが初めてではないのですよ。現国王陛下が王太子時代に、先代国王陛下が苦心惨憺をして話をまとめ上げ、迎え入れたカエルム大公国からの婚約者である門閥貴族のご令嬢をないがしろにし、どこの馬の骨――失礼、現王妃である子爵令嬢とねんごろになって、学園の卒業パーティの場で婚約破棄を断行したのです」
「〝俺は真実の愛を見つけた”でしたか。いやぁ、血は水より濃いとはまさにこのことですな」
はっはっはっはっはっ! とカラ笑いを放つ外務大臣に釣られて、あちこちからオーバン王子とカタリーナ嬢に向け嘲笑が放たれた。
年配の貴族たちが口々に当時の思い出を愚痴り合う。
「あの時は文字通り国が傾きましたからな」
「カルディア半島の湾岸諸国は、ほとんどが大公国の属国ですから、宗主国に泥を塗ったカーリタス王国許すまじ、と結託して物流を止められ――」
「いや、その後のラッパラン王太子の対応に激怒したのでしょう。賠償金と慰謝料を払うどころか、『真実の愛なのだから祝福されるべきであり、慰謝料を払う必要などない!』でしたか?」
「バカバカしい。国と国との契約である婚約と恋愛如き、どちらが重要か公人でありながら理解できんとは」
「結果、各地で反乱がおき、主だった領主貴族が王都を包囲し、王族の直轄地を取り上げ賠償金にあて、権限をなくして国の政治を合議制にすることでけじめとしたのでしたな」
「なっ……! 知らん! 俺は知らんぞ、父上っ!?」
それを聞いて取り乱したオーバン王子の呼びかけに、ラッパラン国王はガックリと項垂れてついに膝から頽れるも、誰も介抱しようとはしない。
「己の旧悪を暴露する勇気がなかったのでしょうけれど、『知らない』は免罪符にはなりませんよオーバン殿下。この国の民であれば誰もが知っている事件なのですから、己の不勉強、不見識を恥じるべきでしょう。――つくづくご自分の不都合なことは耳に入らない、便利な耳をお持ちですね」
一息に言うだけ言うと、これでもう話は終わりという風に踵を返してオーバン王子に背を向けるエルシリア嬢。
「早急に手続きをして大公国へ帰るわよ、リア。無駄な時間を潰したけれど、貴女に会いに来てよかったわ。あんな愚物との婚約がなくなったのだから」
「はい、エルシリア様」
エミリアナ嬢も憂いはなくなったとばかり、快くそれに応じるのだった。
「え~~? なぁに~~? カタリーナわかんな~~い」
ただひとり事態を理解できないカタリーナ嬢の声を一切無視して、護衛を引き連れたエルシリア大公王女殿下が侍女であるエミリアナ嬢とともに会場を後にする。
当然それを止められる者はなく、残されたこの国の重鎮たちは今後の先行きを協議するため、暗澹たる表情で別室へと移動し、思いがけずに世紀の見世物に遭遇した他国からの貴賓たちは、速やかに事の次第を国元へ知らせるべく、三々五々と会場を後にするのだった。
ほとんど誰も居なくなった園遊会の会場には、わずかな近衛兵と最後まで事の顛末を見届けようという悪趣味な野次馬の他には、倒れたっきりのラッパラン国王と、
「ねーねー、どーいうこと、オーバン様ぁ? あたし結婚して王妃様になれるのよね~?」
オーバン王子の二の腕のあたりを両手で引っ張って、いまだに能天気なことをのたまっているカタリーナ嬢。
そして、それをうざったく振りほどくオーバン王子の姿だけがあった。
この後、王家はなくなり国王夫妻はそれぞれ修道院で余生を送り、平民へと没落したオーバンは半ば無理やりカタリーナと結婚したが、男爵家は寄り親に見限られて、莫大な賠償金を払えずに破産し一家離散。森の中へ隠れて住んでいたオーバンとカタリーナ夫婦は、その後、野獣に襲われて命を落とした……ということになっている。
今度こそ周辺国にソッポを向かれたカーリタス王国は立ち行かなくなり、属州として周辺国に分割統治されることになった(つまり大公国の属国の付属品となった)。