≪見通す女神≫アナトミア
意識が戻った時には、俺は広大な空間に寝そべっていた。
ぼやけた視界をまぶたの上からこすってピントを合わせようとすると首筋に鈍痛を感じた。そういえば覚えている最後の記憶は狭い便槽に体を折り曲げていたはずだが……。どこかに連れ出されたのだろうか?
そこまで思考が及ぶと、ぶわっと背に脂汗がにじんできた。
すわ逮捕されたか、カメラは大丈夫かと周囲を見回したり服の上から叩いたりあわただしく動く俺。
しかし何やら様子がおかしい。見渡す限り宮殿の廊下のような整地された床石ばかりで、壁が見えないほどに広がっておりむこう側は闇に包まれている。光源もよく分からないが、俺の周りだけがぼうと光っているらしい。どんな照明機材を使っているのか教えてほしい(カメラオタク並みの感想)
あまりの現実感のなさに、警察署に連れて行かれたわけではないことはなんとなしに理解した。
というか、俺はあの時、無理に首をねじって、脊椎を折ったのではなかったか。うずく首をなでながら思い返す。痛みも体の感触も残念な現実感がある。
つまり俺は死んだ、のではなく、気絶しただけなのだろうか。
釈然としないものを感じながらふらふらと立ち上がった時に「それ」は現れた。
「おはようございます、木目澤真さん」
宙に浮いた薄青の布がふよふよとたゆたっていた。その薄い青よりなお白い肌の女性が纏いながら。
日本人離れした目鼻立ち、薬剤で染めたようには見えない静謐な水色の髪、俺のマヌケづらまで反射するよな透き通る瞳。
冗談じみた美しい存在が眼前に飛んでいた。
「私は≪見通す女神≫アナトミア。あなたに使命を伝えます」
カシャッ
「勝手に撮らないでください」
「あ、はい」
その美しい存在に怒られた。
でも仕方ないと思う。薄布の下の乳首とか×××とかがちらちら見えそうなアングルだったんだから。
カメラマンのマナーとして被写体に断りを入れるというのがあるらしいが、盗撮で生計を立てていた俺はそんなマナーを順守したことなどなかった。勝手に撮るからこその盗撮。盗撮だからこそ好きな瞬間にシャッターを切る。それが盗撮犯の矜持だ。
相棒のデジタル一眼レフも問題なく作動していた。
残念ながらR15になるような部分は写っていなかったが。
背面モニターにも彼女の姿は写っていたので物理的な存在ではあるのだろう。多分。デジタルカメラはその場で被写体の構図確認ができていいよね。
「で、その女神様が何の用ですか? 撮影データを焼いてほしいならSNSで連絡してもらえます?」
「そういうコミケのコスプレコンパニオンを女神と呼ぶ感じの意味ではありません」
(詳しいなこの人)
(カシャカシャカシャ)
俺は怒られたのでシャッター音をサイレントモードに切り替えて撮影を続けながら自称女神と会話をする。
会話をしながら脳を切り離し、テーブルの下などでスカートの中を撮影するのは盗撮の必須スキルである。
アングルが固定化されてしまうのが欠点だが、対面の相手に気がつかれないように自然に連続で撮影して好みの絵を探っていく。しかしこのコスプレイヤーなぜ俺の本名を知っているのか。身柄を押さえられた時のために個人情報が特定されるものは持ち歩かず、偽名の名刺(架空の出版社勤務)しか財布の中にはないというのに。怖いっすね。
「だから勝手に撮り続けないでください」
「……っ!? なぜバレた!?」
「そこで驚くんですか……」
自然なはずの俺の撮影を指摘され、つい動揺してしまう。
コスプレネームアナトミアとやらは流麗な眉根を寄せて、呆れたように嘆息した。いい表情だったのでまた撮った。
「言ったでしょう、私は≪見通す女神≫。未来過去、あらゆる事象を観測する神なる座に君するものです。あなたの行動はすべて把握しています」
「っていう設定なんですか? なんてソシャゲのキャラですか? R18ですかね衣装的に」
「……」
「ていうか面と向かってストーカー宣言とか怖すぎるんですけど。メンヘラレイヤーですか?」
「盗撮のためにストーキングをしていたあなたに言われたくはありません……」
あえて撮影をやめたまま適当に会話を続けると指摘もしなくなった。
……これはどちらかの意味で本物だな。
本物の女神か、俺と同レベルの盗撮盗聴技能を持つ本物のストーカーか。
「その盗撮であなたが命を落としたことは覚えていますか?」
「……あー、やっぱ気絶したんじゃなかったわけね」
「物分かりがよくて助かります」
にっこりと、女神は笑った。
どこか非人間めいた笑顔だったので、俺はその表情は撮影しなかった。薄々感じていたが、チラリズムを感じさせる衣装はいいのだが恥じらいがなく自然体で着られている感がない。そのためコスプレ撮影のキモとなる非日常感がない、普段からあのハレンチな布を纏っている人間の所作。いや人間ではなく女神か。ここが天国か地獄か、その辺りの別世界であることは腑に落ちた。
と考えながら、考えているとアナトミアに思わせるような動作で、俺は周囲をうろうろ悩んでいる様子で足を動かした。
アングルを変えればあのノーパンぽい股間を撮影できるかもしれないからだ。
「……つまり、ここは死後の世界というわけだな」
「正確にはその直前、肉体から霊体、霊体から魂を抜き取る前の私の創造した空間です」
「で、使命とやらを受ければ死ななくて済むと」
「本当に理解が早いですね、そう、あなたは神に選ばれたのです」
アナトミアは生徒の回答を褒めるような優しいほほえみを浮かべた。
……どうも、見下されている感じがする。
いや、女神は宙に浮いているから物理的に見下ろされているわけだが、そうではなく下等な存在を称えてやっているかのような慇懃な無礼さというか。率直に言って舐められている気がする。
気に入らない。
大体、俺はそういった舐め腐った女を盗撮してネット上にバラまいて生きてきたのだ。
「非業の死(笑)を遂げたあなたに、異世界を救う機会が訪れたのです」
「へー、そうすか」
にこやかな態度を崩さない自称女神は、さぁ喜べと言わんばかりに両手を広げて俺を祝福するポーズをした。
決めた、こいつの恥ずかしい姿を必ず盗撮する。
そして分かったことは二つある。
ひとつは、アナトミアは俺のしていることは完全に把握しているようだが思考までは読めないこと。
もうひとつは、いわゆるなろう系の異世界転生アニメみたいな状況に陥ったということ。
前者はいつか女神様の裏をかくために記憶しておくとして、問題はもうひとつの方だ。
先ほども触れたように、俺はレイヤーの撮影も頼まれれば少額の金で請け負う、その裏で着替えやトイレの盗撮がやりやすくなる関係性が作れるからだ。そのための最低限の知識として、トラックなんかで死んだあとに異世界で無双するアニメの存在は知っている、そういうコスプレはまぁまぁ人気があったからだ。
まぁ、原作小説は読んだことはないが。挿絵はパラパラ見た。
文字だけの話とか何が面白いのか盗撮犯には理解できなかった。
閑話休題。話がそれたが、なろう系の問題は……。
「俺が世界を救えって? 見通す女神(笑)なら知ってるだろ? 俺は盗撮しかできないぞ」
「ええ、ええ、それはもう不幸な結末(笑)を見た時に十分承知しています」
「……言い方が悪かったな、俺は盗撮しかできないし、する気はないぞ」
「というと?」
「赤ん坊からやり直して、盗撮ができる年齢まで我慢するなんてごめんだってことだ」
そう、異世界転生とやらの問題はアニメなんかではスキップされる成長までの時間だ。
こちとら誰かが盗撮映像をアップロードするのを我慢できずに自ら盗撮を始めたんだぞ、また性欲が解消できる年齢になるまで我慢するなんて冗談じゃない。
「確かに子供の頃なら女湯なんかに侵入できるかもしれんが、そこまで待てないし、何年も待つなら死んだ方がマシだ、むりやり赤ん坊にされたらどうにか自殺するからな」
「はいはい、わかっていますわかっています、あなたがそういう行動原理の人間であることを『見通して』いますから」
「……ああ、そう」
顔と肌がいい以外は気に入らなくなってきた女は、また小ばかにしたような笑顔で応じる。
稀にみる美人でなかったら盗撮もせずにツバ吐いて蹴り倒してやるのだが。なお届かない模様。
会話をしながら十分に間を取って接近を続ける。下から布の隙間を撮影する距離まであと少し。
「本来であれば別人として転生してもらうのですが、使命のため特例として肉体の損傷を治してその状態で別の世界に行ってもらうことになります」
「……本当に、俺は撮影くらいしかできないからな? ケンカは弱いぞ」
「大丈夫です、私にはあなたが好き勝手すれば世界を救う未来が『見えて』いますから」
眼を爛々と輝かせて、虹彩に喜悦を浮かべるアナトミア。
未来をみえるが故の全能感、それがこの女の本性なのだろう。
さすがにこの笑みは魅惑的で、撮らないわけにはいかなかった。
カシャ
「だから勝手に……ふぅ、まぁもういいです」
「まぁいい、その使命を受けた」
「あら、理解が早いですね」
「ああ、盗撮ができるなら何でもいい」
俺は笑顔で返してやった。心からの笑顔で。