本学坊宗念大和国於阿舎記是参(ほんがくぼうそうねんやまとのくにあずまやにおいてこれをしるす さん)
その後、しばらく、学念は夕刻におはつの小屋に向かっては朝に荒れ寺に帰るという生活をしていた。その度に学念はおはつに干し飯と芋蔓を持っていった。ときには柿や干し魚を持っていったときもあった。
「ありがとね。」
学念が物を渡すとおはつは、にこと微笑んでそれを受け取る。そして、持って来た物を学念と共に食べる。ただそれだけではあったが、それが学念にとっては大事で何物にも変え難い最上の褒美であった。しかし、その反面、学念の心の内には、この最上の時もいつか終わりを告げるときが来るのであろうという疑念や不安があったと語っている。それは、毒矢に当たったときに感じた死の恐怖にも似ていたと。学念がおはつの小屋に通うようになってから一年ほどの月日が流れた。
あるとき、学念が荒れ寺にいると、戦の陣触れがあった。
「次は下野で戦があるらしい。」
仲間の一人がそう言った。学念たちは、あのときのように槍具足を持って、兵糧、鍋、筵などを担いで城へ向かった。城の侍に連れられて向かった先はおはつの小屋がある河原の方だった。
「(おはつは知っているのだろうか。)」
学念たちの組の侍、足軽たちは、河原から徒歩で半日ほどのところで止まった。学念がおはつの心配をしながら、ぶらぶらと足軽たちのたむろしている付近を歩いていると、侍に被官されている足軽たちが話しているのが聞こえた。
「村の者の話だと、この近くに河原があるからそこに陣取るそうな。」
「今、乙名衆が、そこにいる者たちを追っ払いに行く連中を選んでいる最中らしいの。」
学念は組を抜けて急いで河原へ向かった。学念は河原に着くと、すぐさま、おはつの小屋の中に入った。おはつはそこにいて、細工物をしていた。
「おはつすぐに、逃げろ。戦じゃ。足軽共が、ここへ来るぞ。」
おはつは突然の出来事に驚いているようすだった。
「男たちが、今、牛馬の片付けをしに行っている。」
おはつのその言葉は学念の心に小さな疑念を与えた。おはつが心配しているのはおそらくあの男のことであろうと。
「男など、どうでもいい。お前だけでも逃げるんじゃあ。」
そのとき、外で大きな音と呼ばい声がした。
「来たぞ。」
学念は小屋から顔を出した。侍一人とその組下の足軽たち十数人が河原の小屋を破壊していた。
「邪魔じゃ。失せい。」
足軽たちは、破壊した小屋に火をつけ、乱暴狼藉を働いている。そのとき、運悪く男たちが帰ってきた。あの男もいた。おはつは小屋から身を乗り出して事の様子を見ていたので、学念も仕方なくその場にいた。事の次第を見つけた男たちが、河原へと走って来る。河原の者の中には、既に遠くへ逃げ出している者もいる。学念は死の恐怖と戦っていた。
「(俺は死ぬのか。)」
毒矢を受けて以来、戦場でそれを感じたことはなかった。それはおそらく、戦働きに出たときは、心のどこかにおはつの存在があったからだろうと、後の学念は言う。しかし、今、足軽たちが乱暴狼藉を働いているこの場には、おはつそれ自身がいるのにも関わらず、学念という存在自体が揺らぎ、代わりに、恐怖や不安が起こっていた。嫌な予感がしていた。すぐにも逃げ出したかったが、傍にいるおはつ自身がそれを許さなかった。あの男はおはつのもとへ走って来ようとしていた。遠くから学念のことを見つけた男は怒りと憎しみの眼差しで学念を見た。学念はそっと顔を背けた。そのとき、一人の足軽が男の横に立ち憚り、槍を男の胸へと突き出した。槍は男の脇腹を掠め、男は数歩離れた地面に倒れた。
「あんた!」
その光景を見ていたおはつは男の元へと駆けていった。その瞬間、学念の体から力が抜けた。おはつは男を守るようにして男に覆い被さり。二人は抱き合う形となった。学念の恐れていたことが現実となったようだった。
「あー!!」
突然、天地を引き裂くような大きな叫び声が辺りに響いた。学念は槍を振って、二人の方へと走って行った。足軽はその気迫に驚き、勢いを失った。
「そんな者たちは放っておけい!」
学念は力いっぱい叫んだ。
「お、おう。」
足軽は返事をして走って行った。学念は叫んだ。叫び続けた。そして、おはつの小屋を破壊した。
「あー!」
傍から見るとそれは、乱心者のようであった。学念の心は、悲しみと怒りと疑心と恐怖に支配されていた。
「あー!」
学念は壊した。おはつとの思い出の場所を。
「あー!」
学念は自ら破壊した。居心地の良かったその場所を。その光景を二人はどんな目で見ていたのか、それとも見ていなかったのか、学念は覚えていないという。覚えているのは、破壊されて、燃やされていくおはつの小屋の姿だけであったと。そして、そのまま学念は戦には参加せず、もとの荒れ寺へ戻って行った。学念は二度と戦働きに出ることはなかった。仲間の内には召し抱えられて被官される者もいたが、学念は断った。
学念の心には悲しみと怒りと疑心が渦巻いていた。反面、おはつへの思慕心も残っていた。そのどちらもが学念にとっての真実であったし、そのどちらが学念にとっての真実なのか分からなかった。しばらく学念は無力な日々を送ったあと逃げるように常陸国を離れて西へ向かった。
その後、学念は僧になり、今は、私の友人の一人になっている。今はもう乱世も治まり、泰平の世になって久しい。あるとき何故、僧になろうとしたのかと私は学念に尋ねたことがある。
「かつて、私は乱世の中にひとつの安らぎを見つけました。しかし、私の内なる疑心や恐怖、そして、なにより私自身が、その安らぎの存在を破壊してしまいました。私は、かつて見つけたその安らぎを再び、見つけようとしましたが、ついにどこにも見つけ出すことができませんでした。それ以来、私の心は治まることなく、未だに乱世のままです。」
彼が旅に出たのは、おはつを探そうとしていたのか。それとも彼自身の安らぎを求めていたからなのだろうか。また、彼が僧となったのは、彼自身が安らぎを求めていたからなのだろうか。それとも、かつて見つけた、おはつとのつながりを求めての末なのだろうか。私は未だにその言葉の真意を図りかねているのである。
此の伝記が後世の役に経つかどうか定かではないが
△〇〇年〇月〇日 大和国本学坊宗念 記是