短編集 雨ものがたり②「友達」
雨がしとしと揺らぐこの夜、傘を閉じながら古びたアパートの階段を登る。
3階と4階の間に置いてある段ボールに持ってきた缶ビールを2本置き、今朝買ったメンソールをポケットから出す。
ライターを会社に置き忘れたことに気づきため息をつく。
漏れたため息は白く雨に溶け出し、都会の赤や橙を霞めた。
「こんな寒い雨の日になんで好んで外で飲むんだよ」
待っていた相手がびしょ濡れのまま悪態を吐きながらさっきの階段を登ってきた。
はい、とマッチを渡してくれた。
「今時マッチかよ」
「マッチ箱はロマンよ」
2人はダンボールから冷えっぱなしの缶ビールを取り、手すりに身を委ね、街の灯りをしばらくの間眺めていた。
「明日、雪なんだってよ。更に寒くなるね」
「暖房代かさむと困るな」
他愛のない話である。
本当につまらない。
街から灯りが消えることはないから都会が好き。
昔、「住むなら都会?田舎?」と聞くと彼女はそう答えた。
それ以来2人で飲む時は街の風景が見下ろせる静かなこの場所を選んでいる。
せめて2人で飲む時は寂しさを忘れていてほしい、という僕の気持ちとは裏腹に、当の本人は毎度毎度「寒い」だの「暑い」だの悪態を吐いてくる。
悪態を吐きながら来る彼女はいつも帰る時、「次もここでね」と言い残すので割と気に入ってくれていると思いたい。
つまらない話は途中途切れながら続く。
そこには無理も妥協もない。
2人だけの雨である。
缶ビールを飲み切ったらしい彼女がふいに見つめてきた。
じっと僕の顔を覗き込む。
「何さ」
と聞くが返事はない。
するとしばらくして口を開いた。
「プロポーズされた」
静止した時間にタバコの煙だけがゆらゆらと動いていた。
返す言葉を選んでいると彼女は冷たく続けた。
「2人で会うの、やめようか」
そう言って彼女はにこっと笑った。
街の灯りが照らしたからか、酒で体温が高まったからか、そのどちらでもない理由かは知らないが、薄暗いアパートの非常階段でもわかるくらいには頬が赤く染まっていた。
白い煙でかき消せないそれはもう僕だけの彼女でいてくれないことを認識するのには十分なほど濃い赤だった。
「次は結婚式でね」
そう言って飲み切った缶ビールを置き、雨の中に消え去った。
ダンボールの上に置かれた空っぽのアルミ缶にまだ吸いきれていないタバコを落とした。香水と煙と酒の合わさった嫌な匂いがした。
おめでとうって、言えなかったな。好きだって言えなかったな。さまざまな思いや後悔が、雨が降るかのように心に散り積もる。
最後まで僕たちはただの友達だった。彼女のちょっぴり特別な思いだったり、僕のちょっぴり大切な想いだったりはたった今なかったことになったのだ。
残った一口を喉に一気に流す。
雨の音がやけにうるさかったが、ここにくるのも最後だと思うとそれすらも愛おしく感じた。