下
「でさあ、この駅、出るらしいよテケテケ」
終電前の駅のホームをカップルと思しき男女が歩いている。
「ああ、聞いたことある、あれでしょ?線路に落ちたひとを助けてくれるっていう、いい奴のテケテケ。まあ見たらビビると思うけど、害がないならいいじゃん」
数年前からこの駅では、線路に落ちた人間を助けてくれるテケテケの都市伝説がある。本来テケテケは寒い地域の都市伝説なのだが、かつてあった小学生女児の転落事故とそれを救った青年の奇妙な目撃談から、近畿の地方駅であるこの場所にもその都市伝説があった。
一般的な見解は、女児の転落事故と同じ日、同駅に下半身を露出した男の変質者が出没していたためその話が混ざって今の都市伝説になったのでは、ということだが……。
「それがさ、実はそいつに助けられた女の子って、自殺しちまったらしいんだよ。テケテケを見たって言っても誰も信じてくれなくて、心を病んだらしい」
「いや、そりゃ誰も信じんっしょ。てか、せっかく助かったのに、もったいな」
女はスマートフォンを見る。電車が来るまでまだ時間があった。住宅街に近いこのちいさな駅には人気がなく、街もすっかり静まり返っている。暗闇の中、駅構内をぼんやり浮かび上がらせる蛍光灯は、なんとなく心もとない。
「で、最近はそっちの自殺したほうが出るって噂なんだ。いい奴のテケテケに似た男を見つけると、脚をズバッと」
「いやなんでよ、普通狙うのは女じゃないの?自分の足を取り返そうとするのがテケテケっしょ?」
「あ?確かに妙な話だな。まあでも男しか狙わないなら、お前には害が、な」
「は?」
突如、ガクリと男が膝をついた——女ははじめそう思った。
ずちゃ、というなにか水っぽい音。女が視線を下ろす。と、男は膝ではなく、太ももの付け根を地面についていた。
その、胴——もはや胴しかないのだが——がゆるり、とかたむき、倒れる。じわ、と赤い水たまりが広がる。
女は声も出せなず腰を抜かした。震え、あとずさりながら辺りを見回す。線路上には壊れたスニーカーが転がっている。少し離れたところにある、ズタボロになった布切れをまとったもの、あれは男の脚だったものだろうか。頭が勝手に理解を拒んだ。
ふと、気づくと線路の上に人影があった。中学生くらいの少女だ。
「た、助けて……!」
無意識にそう叫んでいた。なにからどう、とか、なぜ線路の上に?などと考える余裕はなかった。
少女から反応はない……すると頭が急に冴えてくる。女児の転落事故があったのは何年前だったか。自殺したのが最近だとしたら、女児は今、いくつ……
ずるり
人影の胴と足がズレた。
てけてけと、滑稽なまでの器用さで胴が、少女の胴が動いて、ホーム端についた梯子をつたい、上ってくる。
遂に女は叫び声をあげて走り出す。転倒しながらもなんとか改札を強引に抜け、どこかへ行ってしまった。
胴だけの少女はそれをみて少し首を傾げた。が、気を取り直して自分と同じ胴だけになった男に近寄り、脚の切断面をじい、とみている。幸運にも男は気絶していた。
「ちがう……」
そう言うと、少女は夜の闇に紛れるようにすう、と消えた。
この少女こそ、乙津白波である。
格の体の上を唐突に見えない車輪が通り過ぎる。血が、肉片が、めちゃくちゃになった足がはね飛んだ。彼が白波を助けて轢かれたあの時の再現だ。肉がベッドを囲むカーテンにぶつかり、壁に飛び散って、ぼたぼたと落ちる。
病院の処置室にあらざる光景が繰り広げられている。
「いっ‼ぐ、うう……!」
脚をずたずたに轢きとばされたにしては、あまりにも鈍い反応だった。気絶するでもない。脛でもぶつけたか、程度の反応だ。
少し息を荒げ、それが落ち着くころには、格だけが五体満足にもどっていた。
しかし、同じ動画を繰り返し再生するようにまた脚が破壊される。また、戻る。また、もう一度——血だまりだけが増えていく。格はやめろと乞わない、抵抗のひとつもしない。うすく汗をかきながらうめくばかりだ。
吹き飛んだはずの脚や肉片は溶けて赤い水たまりに同化していく。
ずっと白波を捉えていた黄昏色の瞳がふと反らされる。それを追って見ると、遠野医師が少しカーテンを開け、相変わらずの無表情で二人を見ていた。
白波の目からボロボロと涙がこぼれる。だが、表情はどこか切羽詰まったような笑顔だ。
「せ、せんせえ、ほら、私、おかしくない!嘘、ついてなかった。ぜんぶほんと、ほんとのこと言ってたんだよ。嘘はだめって、知ってる、ほんとうに、わかってる!ねえ、おとうさんとおかあさんに言って!せんせぇ!」
駅のホームの下、あの空間で起きたことを、白波は警察にも家族にも、友人にも何一つ隠さず話していた。お兄さんの脚は確かに車輪に奪われていったこと、それでもお兄さんが平然と生きていたこと、いつのまにか脚は戻っていて、走って去っていったこと。
嘘や隠し事は悪い事だと教わっていた。悪いことをすれば。いつかめぐりめぐって自分に罰が当たると信じていた。
だから白波は、それはショックで見た幻だとか、怖がらせようとしてついている嘘だとか言われるたびに、丁寧に根気強く否定してきた。
血だまりが残っていた、靴も。同じ時刻に駅周辺で不審者の通報があった。証拠はあるのだ。
そうして真実の証明を試みる日々が4年ほど続いたころ、白波は自ら線路に降り、今度は轢かれて死んだ。
何を思ったのか、白波はかつて自分が転落したあの線路へこっそりと忍び込んだのだ。またなにか、格の痕跡を探そうとしたのかもしれない。そのころにはもう、白波は本当に病んでいた。いつからかは解らない。友人から、家族から、医師からお前は病気だといわれるうち、本当に心が病んでしまった。
死してなお、線路へ転落したあの日への執着と、自分の正当性を証明しなくてはという衝動だけが残っていた。
あれから何年たったかも、何人の脚を奪ったかも覚えていない。そのころの白波は最早『そういう現象』だった。
「ほんとのこと、いってた。お兄さんの、脚は……」
「ええ、本当ですね。あなたのおっしゃる通りです、」
白波が何年も求めていたものは、遠野医師によて拍子抜けするほど軽々と与えられた。
何の含みもない。白波を諫めようという意図もない、事実に対する肯定。
「かわいそうに、僕のせいでとても理不尽な思いをしたね」
格が血の海に浸りながら白波の涙をぬぐう。涙の跡が血の跡に変わった。ぬぐう指すら血にまみれていたのだ。やっちゃった、と血まみれの格が笑う。
壁も、カーテンもベッドも赤いしぶきでめちゃくちゃだった。
相も変わらず五体満足の格は、今も上半身だけの白波を抱き留め、体を起こした。まるで少年が気に入りのテディベアと向かい合うような無邪気さで格は白波をみつめている。
「ねえ、白波さん、僕のこと恨んでるかな?恨んでるならもっと、気が済むまでめちゃくちゃにしていいよ、あいにくどうしたって僕は死なないんだけど」
なぜ、どこか期待している風なのか白波にはわかりかねた。
ただこれだけは伝えるべきなのはわかる。
「誰も、恨んだことなんて無い……です」
格がきょとん、と目を見開く。瞳に光がはいり、いっそう幻想的な色に見える。
「あ……ごめんなさい、私、私の事ばっかりで……」
折る腰がないので、首だけで頭を下げる。
「格さん、あの時は助けてくれて、本当にありがとうございました」
格は遠野医師と顔を見合わせる。
「まあ、確かに、君の都市伝説には誰かを恨んでってワードはなかったけども……」
とつぶやいた。