中
よかった、白波は心からそう思っている。思っているのだが、引っ掛かりを感じる。この人の言っていることは本当なのだろうか。
何かを誤魔化してはいないだろうか。それに……
「私……私どうしてここにいるんですか?怪我は、たぶん、ないと思うんです」
少しの沈黙、この医師はとても慎重な人だと白波は思う。
「そうですね……君は突然、過去の出来事の記憶をなくしてしまうことがあるんです。解離性健忘症、という病気が近いでしょう。
これまでにも何度も症状が現れていて、大抵はホームへの転落事故以降の記憶をまるごと失ってしまいます。今この病院を案内している最中にも、同じ症状が現れました」
「記憶、を?」
「外科的なもの……腫瘍や損傷が原因ではないので、精神的なものが原因だと思われます。一緒に、治していきましょうね」
「……ちが、違う、嘘です、病気なんて、だって……!」
「葦屋くんがいるのはこの部屋です、会いたくはありませんか?」
その部屋には『図工室』というプレートが掲げられていたが、その下に『処置室』という看板がつりさげられていた。そういえば、元学校といっていたか。遠野医師が暗い色をした木製の戸を引くと、なるほど中は病院の施設らしくなっていた。
壁に沿うように置かれた白い机にはいくつかのバインダーとペン、血圧計のようなものが置かれている。その横には向かい合わせに2脚の椅子が置かれていた。壁には曲線図形だけで構成されれた絵画がかけられ、奥側には空間を仕切るように棚がいくつか備え付けられている。机の向かいには、クリーム色のカーテンで隠されていて見えないが、おそらくベッドがあるのだろう。床にはなぜかビニールシートが敷かれていた。
「どうぞ、中へ」
白波は促され、部屋の中へ一歩踏み出す。
「このカーテンの内側に葦屋くんが居ますよ。どうぞ」
なぜ、そんなところに?遠野医師はカーテンを少し広げ、白波を招く。死角になっているのか、まだ中に人が居るかはわからない。先ほどから、なんだか謀られているような気がして仕方がなかった。違和感のような、もどかしさのようなものが、白波を躊躇させる。
あの向こうに居る者を、本当に見てもいいのだろうか。
「ねえ遠野君、白波さん、どうしたの?緊張してる感じ?」
カーテンの向こうから青年らしき声が聞こえる。控えめにこそこそ声で話しているが丸聞こえだ。
「さあどうでしょう、乙津さん、緊張しているますか?」
「え、い、いえ……」
白波はこの衝動にまかせて逃げてしまおうかと一瞬考える。だが、逃げる理由は本当にただ漠然とした気持ち悪さだけで、そんなことで逃げだしたら”また”おかしい子だと思われるかもしれない。それは白波には耐え難いことだった。だから、逃げたがる気持ちを裏切ってカーテンの内側へともぐりこんだ。
そこには確かに、あの時自分を助けてくれた青年が居た。
黄昏ていく空のような不思議な色の二つの瞳、それが白波をとらえていた。
少し吊り上がった目、血の気のない白い肌、さらりとした髪は白に近い金色。そして何より、五体満足でベッドに座っていた
甚平型の患者衣からのぞく長い脚には傷一つない。かといって義足にも見えない。こんなこと、ありえるのだろうか。
「お久しぶりだね、白波さん。僕、葦屋格っていいます」
「……久し、ぶり……?」
久しぶり、という感覚が白波にはない。あの転落事故はついさっきの事だった。白波はもうずっと、あの日から先へは進んでいない、ずっと……?
「あの時は、すぐに逃げちゃってごめんね」
すぐに、逃げた?車輪に轢かれた、脚のない、胴だけの状態で?
そう、確かに逃げたのだ。あのとき、けたたましいブレーキ音を上げて車両が止まったあと。この青年はテケテケのように、血の跡を残しながら這って、そして、止まった車両の下に潜り込んだ。向こう側へ抜け出したころにはもう、立ちあがって駆てけいったのだ。服だった布切れと血痕、靴だけを残して。
「あ、ああ、あ、ああああ!」
証明しなくては、それを証明しなくてはいけない。強い衝動が白波を支配する。突如ガクン、と視界が低くなり、気づくと格と共にベッドへ倒れこんでいた。
ひざをついて起き上がろうとする。が――無い。
目の前の格は微笑みを崩さない。白波を受け入れるように。
ひざが無い。太腿も、腹も半分ほど無い。手をつく。片腕が妙な曲がり方をしてバランスが取りづらい。腹がないのに、不思議と叫ぶことができた。
「あし、ぃ、ちょう、だぁあい……!」
明らかに、テケテケは白波の方だった。