Ⅰ
よく世間の成功者は口にする。
「あの時の失敗があったから今がある」
「失敗からしか学べないこともある」
これはおそらく真実なのだろう。
彼らにとって、その失敗から何かを学び今日の自身の糧としているのだろう。
そして彼らは、失敗こそが自身の人生にとって必要不可欠なものであり、まるで神が与えた試練のように、失敗に意味があると狂信する。運命は自分で切り開くと言うくせに都合が悪い時は神を利用する。
「ああ、なんと嘆かわしく忌々しいことであるだろう」
茂樹清隆は大都会で嘆く。
それに、これは成功者にしか言えないセリフなはずだ。
仮に、敗者に留まっている人間が「失敗から学んでます」と言ったところで、それこそ負け犬の遠吠えで戯言で世迷言である。世間はこれを真実とは認めないのだろう。そして彼らが成功するかどうかは運や本人の資質によるのではないだろうか。
つまり、失敗したから成功者があるのではなく、成功したからあの時の失敗が意味のあるものに思えるのだ。
そして私は、まさに今、失意のどん底にいる。失意のどん底であって、人生で言えば失敗の最中。
大学の合否発表にて自身の番号が無いことを確認したところだった・・・
といっても茂樹清隆は、進学校でも上位の成績だったし、落ちたのは第一志望で日本一の大学だけであった。他の大多数の人から見れば、彼の失敗など取るに足らないことであるだろう。それでも、彼にとっては、それが全てだった。見せかけのプライドが高く、およそエリート街道を歩んでいた彼にとっては信じられないことである。
ちなみに母子家庭であり、母親にとてつもなく感謝を抱いている彼にとって、「浪人」の選択は残されていなかった。だからこそ、自分よりも能力も低く、努力も怠ってきた者が、自身の恵まれた環境に気づかず軽々しく「浪人」の選択を取ることにも腹が立った。
自分が大学に落ちたということ。つまり誰かに負けたということ。
また、実力があればどんな環境でも芽を出すはずなのに、自分は環境、レッテルに固執したこと。そして環境のせいにしようとしたこと。
これら全てが、自分が天才でも頂点の人間でも無く、成功するだけの実力が無いということを証明し、私に再確認させた。
それから、自身の存在価値が一気に無くなってしまったように感じた。頭の良い茂樹清隆でなくなってしまったとき、何が残るのだろう・・・
誰も見向きしない人間になるのではないか。何を糧に、何を信じればいいのだろうか。自身が人より優れているという小さな自尊心こそが生きる糧であり意味であり、それが「私」という存在だったのだ。
そして、それが私を取り巻く険悪で過酷な境遇を生き抜く術であった。自身の小さき自尊心を育み、守ることが全てだと成り替わっていたのだ。
彼の中に存在した価値観は一気に崩れ去り、自身の生きる道しるべを失ったのだ。
葛藤を抱えつつも茂樹清隆にとって滑り止めの大学に進学した彼は、そこでできることを考えた。
確かに学歴偏重社会ではあるが、全てではない。大学受験という戦争において一敗を記したことは覆せない事実ではあるが、今後の社会で自身に意味を見出せる機会はあるはずだと心を切り替えることにした。
おそらく、以前までの価値観であれば、これは妥協であると指摘し批判し嫌悪したであろう。しかし、人間はそれほど強くないのだ。どんな状況であろうと自身の醜き自尊心のために自身を肯定してしまう生き物なのだと。
そう言い聞かせることが今の彼の精一杯であった。
自身の境遇を正当化し、それでもめげずに立ち上がろうとする姿が、彼が嫌いで忌々しかったはずなのに。。
「結局、自分も同じ凡庸で忌々しい存在であると再認識しただけではないか」
彼はまたしても嘆く。いや、嘆かされる。
そしてさらに気付かされる。
井の中の蛙にすらなれない自身の無力さに。
上には上がいる、とこれほどまでに知らしめされることは無いだろう。
それと同時、自身がこれ程までに憤りを感じる要因は、自己顕示欲が満たされていないことが一端でもあるのだろうと感じた。