プロローグ:全てのはじまり
「それじゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい、兄貴。いい結果期待してるからな。」
「ああ」
季節は真冬。妹との短い会話を済ませた俺は、家を出て積もった雪の上をゆっくり歩き始めた。滑らないよう、慎重に。こんな時に滑ったら洒落にならない。今日は、俺の志望校の合格発表の日なんだから。
「うー寒い寒い」
息が白い。寒さが手袋を貫通して俺の手に襲いかかってくる。体の震えは、きっとこの寒さによるものだろう。力強く地面を蹴りながら、通りにでて赤信号を前に止まる。
駅までの道でこの一年を振り返ってみた。時間の経過の速さに驚く。ついこないだ、中学三年生になって受験勉強を始めたような気がするのだが。この一年は大変だった。受験生としての第一歩を踏んだときのこと、成績が伸び悩んでもめげずに勉強したこと、俺の進路を真剣に考えてくれた担任、塾の先生、両親、友達のこと。今まで色々あったが、それも今となってはあっという間のことだったと思える。それほどにまで、俺はこの一年死に物狂いで闘ってきたつもりだ。
青く光る信号を見て横断歩道を渡る。道路にはまだ雪がかなり残っていたが、朝日は俺の背中を押すように眩しく照りつけている。俺は少し歩くスピードを早めた。
時刻は午前七時半。最寄りの駅、黒崎駅に着いた。するとすぐに聞き慣れた声が聞こえてくる。
「よぉ、疾風。一分遅刻してるぞ?そのお詫びにオレにあったか〜いコンポタ奢ってくれてもいいんじゃないか?」
「おはよう、泰斗。お前よくそんなリラックスしてられんな。悪いけど俺はめちゃくちゃ緊張してんだ。そんな悠長なこと言ってらんねーよ。」
「まったく、相変わらずノリが悪いよなー。」
この男子生徒、白石泰斗は俺と同じ高校を受験した幼なじみ。こいつとは小学校からの付き合いだ。運動神経は抜群、成績もそれに引けを取らない。おまけに明るく非常に社交的。中学時代、絶賛ガリ勉陰キャ生活を満喫していた俺にとってこいつは憧れでもあった。
「ほらいくぞ」
さりげなくコンポタの話を無しにしようと俺は泰斗を急かして改札を通った。
「へいへい」
泰斗は少し不満そうにしながら俺に続いて改札を通る。俺にはこいつみたいな心の余裕はない。あるいはこいつが単に強がっているだけかもしれないが。俺はこの高校受験の結果次第で、こいつと一緒に過ごす時間は劇的に減ってしまうのではないか、といわば『考えたら負け』なことを頭に浮かべてしまっていた。まだ会場にすら着いていないのに口が渇く。
「気負いすぎだって。お前があんなに頑張って落ちるんだったら殆どの人が落ちるようなもんだと思うが…」
「それをお前に言われてもな」
確かに俺はこいつより成績はいいが、それは100%安心できる材料ではなかった。結局は、本人が持つそのポテンシャルをどれだけ当日に発揮できるかだ。成績だの偏差値だのというのはその次に大事な要素。俺はその一番大事な要素でこいつに負けてる気がする。もし周りがこいつのような生徒ばかりだったら、俺に勝ち目はないのかもしれない。それだけがただただ心配で仕方がない。
通勤通学をする人たちでいっぱいになった電車に乗る。中は暖房が効いていて暖かい。高校の最寄り駅までのだいたい十五分くらいで、俺は心をなんとか落ち着かせようと試行錯誤していた。よくある話で、緊張している時に手の平で「人」の字を三回書いて飲み込むと緊張がほぐれる、という迷信を聞くが、一体誰がそんなことを言い始めたんだろうか。冷静さを欠いた今の俺には、そんな冗談交じりの迷信も笑いで済ますことが出来なくなっていた。しかし、そうこうしているうちに時間は刻一刻と過ぎる。
『次はー春華学園前、次はー春華学園前、お出口は左側です。』
「やっぱ春華って近いよなー」
長い沈黙を切り裂いて泰斗は能天気にそう言った。電車はブレーキをかけて駅に到着する。俺の志望校―春華学園高校の最寄りに着いた。俺と同じような中学生らしき人たちが続々と電車から降りる。暖房の効いた車内にいたにもかかわらず、俺の足の震えは止まることを知らない。むしろ強まってるくらいだ。
「いよいよだな。」
さっきまで余裕そうな顔を浮かべてた泰斗も気を引き締めたのかその顔の口角は下がっていた。どんなに成績が良くても未来のことは分からない。さすがにもうへらへらしている余裕はないことを彼は分かっているし、周囲の雰囲気だってそうだ。ここにいる人々は俺と同じ、春華学園高校を受験したのだろう。皆、顔が固まった様子だ。
高校は駅から近く、ほんの五分歩けば着く距離にある。そう、つまり今から五分後に結果が分かるということだ。
「疾風、番号何番?」
「俺とお前は連番だ。お前の番号に一足せばいい」
「合点承知之助」
つまらない洒落を言っているが、当然の如く泰斗の顔に笑みはない。彼なりの誤魔化し方か。
それから高校までの道で、俺らは会話ひとつしなかった。心臓の鼓動が早い。今までに無い感覚が俺を襲う。特に何の根拠も無いが、今までこの日のために努力してきた時間に比例して、その感覚は強くなるような気がした。いくつかの角を曲がって、気づけば俺らは春華学園と書いてある校門をくぐっていた。本当にいよいよだな。
覚悟は決めている。人はこういう時、どうしてもネガティブな感情がポジティブな感情よりも勝ってしまう。落ちたらどうしよう、泣くかもしれない。そんな弱音を必死で心の中だけに抑えることで精一杯だった。少し歩いていると、人混みを発見する。そしてその人混み―合格発表がされている掲示板に駆け寄って自分の番号を無我夢中で探す。じりじりとくる焦燥感が俺を冷静にさせてくれない。さらには合格した者の喜びと落ちた者の悲しみの入り交じった空間が心臓の鼓動を早める。
―頼む。頼む頼む頼む……!
学問の神に願った。ひたすらに。
「あっ…!」
「あー!!」
俺は自分の番号を見つけた。その上には…………
俺と連番となる番号があった。
「いよっしゃあぁぁぁぁ!!」
番号の書いてある受験票を空中へ投げて俺と泰斗は両手を掲げガッツポーズをした。この日のために、この時のために、一体どれだけたくさんのことを犠牲にしただろうか。ただ嬉しくて仕方がなかった。泰斗の合格も、自分の事のように喜ぶことができた。倍率二倍。その競争率を破って、俺ら二人は春華学園入学の切符を勝ち取ったんだ。
そうして俺、橘疾風は無事に私立春華学園高校に入学を果たして、いまここ―入学式の会場の体育館にいる。ついに始まる俺の高校ライフ…!ワクワクがとまらない心を抑えようと、俺は懸命に背筋を伸ばした。
………まあ、この時は、これから迫る危機など考えもしてなかったんだがな。