89.それぞれの分岐点
ナーガの回復魔法とお父様の手厚い看病のおかげで、倒れてから十日ほどで枯渇していた魔力は完全に回復した。あとは落ちた体力を戻すだけだけれど、こちらもクリフの愛情と栄養たっぷりな食事のおかげで八割は回復している。そろそろ本来の五歳児に戻っても大丈夫そうだ。
『どう思う?』
『うん、さほど問題ないかな。でもその姿で八割なんだから、五歳の姿だと六割もないって認識してね』
『ええ。無理せずもう少し療養するわ』
『なら大丈夫。溜まったダメージは自覚なしに蓄積されていくものだから、リリーが思ってる以上に肉体には過大な負荷がかかっているんだ。リリーの作った魔道具の付与効果のおかげでギリギリ持っていたけど、それがなかったら本当に危なかったんだよ? しっかり休んで』
『心配してくれてありがとう。ナーガのおかげで繋いだ命を粗末に扱ったりしないわ』
『うん。そうして。リリーが倒れて、ナーガたちがどれだけ焦ったかわかる? 魔素なのに! 聖霊なのに!』
確かに、聖霊が俗世に心を砕くなど本来ならばあり得ないだろう。干渉しない傍観者である聖霊が焦るなんて、きっと前代未聞だ。
『神の使徒だから?』
『ないとは言わないけど、使徒だろうと執着はしない』
『じゃあわたくしには執着してくれているのね』
つーんとそっぽを向いたナーガのちらちらと寄越される視線がすべてを肯定している。そのツンデレ具合が可愛くて愛しくて、ふふっと笑みが溢れた。
「疲れてないか?」
「いいえ、お父様。完璧だとは申し上げられませんけれど、落ちていた体力も戻りつつあります。そろそろ本来の姿に戻っても問題なさそうです」
「そうか。少し寂しい気もするが、幼いリリーにも早く会いたい。私は勝手だな」
「あら。こうしてエスコートして頂けるのも大変嬉しいですが、幼い身で抱き上げてくださるのもまた嬉しいのですわ」
「はは、そうか。両方味わえる私は幸せ者だな」
「わたくしも幸せ者ですわね」
ふふふ、と互いに笑い合う。
お父様がどれほどお心を砕いて看病して下さっていたのか、目覚めてから五日の間でよく理解できた。意識のない状態で世話をするのはさぞ骨の折れることだっただろう。
お父様には感謝しかない。こんなに大切に想われて、本当に恵まれていると心からそう思う。
「お母様やお兄様には申し訳ないですけれど、こうしてお父様とお父様のお時間をずっと独り占め出来たのですもの。わたくしは贅沢者ですわ。ずっとお仕事をお休みさせてしまって、お父様にも魔法師団の方々にもご迷惑をお掛けしていることが心苦しいのですが、それを差し引いてもわたくしは幸せなのです」
「陛下の御慈悲だ。気にせずともよい。それにリリーを甘やかすと決めていたからな。そう約束したろう?」
「ふふ、はい」
「うん。存分に甘やかすことが出来て、私も満足だ」
「まあ。お父様ったら」
甘えることに慣れていないと思っていたけど、思いの外がっつり甘えられた。娘らしくお父様に甘えられたのではないだろうか。そんな自分に内心びっくりしているのだけど。
浩介の姿では絶対できないなぁ。お父様に甘える浩介とか、気持ち悪い。
「旦那様。王宮より先触れが」
「誰からだ」
「第一王子殿下です」
「ふん。今は療養中だと突き返せ」
「お父様、お待ちください」
「リリー。お前は部屋で休んでいなさい。殿下に会うなどと言ってくれるなよ」
「お父様」
「部屋へ戻りなさい」
取り付く島もないお父様と同じ形相のエイベルや他の使用人たちに、これは困ったことになったと嘆息した。
近衛騎士たちの態度が我が家全体に知れ渡っていて、それがイル自身の心証になってしまっている。それでは駄目だ。それはイルの正当な評価じゃない。
「お父様。専属近衛騎士の対応は殿下のご意思ではありません。近衛騎士から切り離してお考えください。殿下は決してわたくしを害しようとはなさいませんでした。寧ろ守り通してくださいましたわ」
「配下を制御出来なければ意味などない」
「いいえ。いいえ、お父様。殿下は確かに近衛騎士を抑えておられました。混乱したあの場で、十分に制御なさっておられたと思います。近衛騎士たちは柄に手をかけてはいましたが、剣を抜いてはいませんでしたもの。殿下がお止めしていたのですよ。絶対に剣を抜くな、命令だと。自分達が招いた結果だ、おとなしく斬られろと仰いました。ご自身もグレンヴィル両騎士団に囲まれておられるのに、です」
臣下お抱えの騎士団とは言え、絶対に刃を向けない保証はないのに、自身の安全より誠実であろうとした。全幅の信頼を寄せてくれた。そんなイルの本質をこんなことで見誤ってほしくない。
イルは一度も責めなかったのだ。何一つ秘密を明かさなかったことを、ずっと黙っていたことを、イルはただの一度も責めなかった。一途に心を傾け、ひたすらに真心を見せてくれていた。不誠実だったのはこちらだというのに。
「お父様、お願いです。近衛騎士の心証を、そのまま殿下への心証になさらないでください。あの方はいずれお仕えするに値する、立派な賢君とおなりでしょう。その芽を摘み取ってしまわず、大切に育ててください。あの方の真価はこれからなのです。お願い致します、お父様」
深々と頭を下げた。どうか伝わって。イルを切り捨てないで。イルの将来性を買ってほしい。
「………それほどまでに」
言葉に詰まった様子で、お父様がそこで一旦言葉を切った。驚いて顔を上げれば、お父様がひどく悲壮感を滲ませた面持ちでこちらを見ていた。
「お父様……?」
「お前は、殿下をそれほどまでに信頼しているのか」
「……? はい。心から」
エイベルも驚愕と苦さを混ぜたような、複雑な表情で棒立ちになっている。他の使用人たちも同様だ。お父様といい、皆といい、いったいどうしたというのだろう。
「お前は、どうしたいのだ」
「え?」
「面会の申し入れを受けるのか」
「はい。殿下には知る権利がございます」
「そうか……そう、思うのだな……」
「お父様。あの方はわたくしを一度も非難なさいませんでした。ずっと偽りを申し上げていたというのに、わたくしを慮るばかりで、一度も責めなかったのです。ずっと真心を示して下さっていたのに、わたくしは偽りしかお見せしておりません。きちんと、わたくしからも真心をお返ししたいのです」
「それは、殿下と正式に婚約を結ぶということか?」
「……えっ?」
「将来殿下と婚姻し、順当にいけば立太子なさるであろう殿下の妃に、延いては王妃となることに心を砕くと、そういう意味か?」
「えっ!? いえ、何故そんな話に!?」
婚約だの婚姻だのと、そんな話は一言も言っていない。どうして正式な婚約云々になるんだ?
「殿下に真心をお返しするとは、つまりそういうことだろう?」
「違います! 真実を語り、誠意を示したいと思っているだけです! 婚姻は致しません! どうしても必要であるならば、エイベルに引き取って貰えればと以前申し上げました!」
「本当ですか?」
「本当です! ……えっ?」
本当に?と、エイベルが真剣な面持ちで再確認してくる。なんだ? 今まで明言は避けてきた張本人が、あやふやなままであった方が都合がいいだろうに、どうして今さら確認しようとする?
「殿下ではなく、私をお選びになると?」
「え、ええ。将来あなたが独り身のままで、その時わたくしを貰ってくれる気があれば、だけれど」
「本心ですか?」
「本心よ。わたくしに一般的な夫人など務まらないもの」
「ではお約束を」
「約束?」
「はい。誰のものにもならないという約束です」
片眉を上げた。ずいぶんと奇妙なことを言う。そんなもの、約束するまでもないだろう。あり得ないのだから。
「誰のものにもならないわ。寧ろなれないわよ。わたくしに恋愛なんて無理だもの」
「今は、ではありませんか?」
「今?」
「はい、今です。ご成長と共にお心も変化するものだと愚考致します。ですから、誰のものにもならないという約束が欲しいのです」
「欲しいって……」
エイベルの真剣な眼差しに気後れした。そこまで約束を欲する理由がわからない。戸惑っていると、焦れたのかエイベルが歩み寄り、両手を掬って包み込んだ。
「お約束を、お嬢様。殿下を筆頭に、決して誰のものにもならないと」
「や、約束、するわ」
「仮の婚約の期限である十七才まで、清らかでおられるとお約束ください」
「清らかって……」
それって、つまりそういう意味か。
理解した途端、顔が火を吹いたのではないかと自覚できるほどに真っ赤になった。
ちょっと待て。それは五歳児に確認と念押しするような内容じゃないぞ!? そもそも何で真っ赤になって狼狽しているんだ、生娘じゃあるまいし! いや生娘か。そういうことじゃなくて!
手の甲に口づけの感触がして、はっと我に返った。エイベルを見れば、眼前で跪き貴婦人への挨拶のキスをしている。ここまでは別段珍しいことじゃない。珍しくはない、が。
ひくりと喉が震えた。絶叫しなかったことを誰か褒めてほしい。
エイベルは手を返し、掌に同じ口づけをしたのだ。掌へのキスは、求愛の証――五歳のお披露目でイルがやらかした、あの求愛のキスだ。
「私の真心を、お嬢様に」
穏やかに、しかしはっきりと示された。
将来エイベルの望む形と、以前提案した理想とする形に明確な違いがあるのだと。お飾りの夫婦ではなく、一人の女性として愛したいのだと、今までの曖昧なエイベルはどこへ行ったと本気で訝るほど露骨に示している。
見つめるブルージルコンの眸に熱を感じ、たじろいだ。これは本気だ。本気で女性として求められている。
再び頬が染まるのを自覚して、視線をさ迷わせる。亡くなった当時の浩介とほぼ同世代のエイベルからの求愛は、まだまだお子様のイルとは比べるまでもなく甘い。だからといって動揺するなんて、いったいどうしたというのか。何でこんなにときめいてるんだ。自分で自分がわからない。
「ああ、よかった……私にも勝算は残されていそうですね」
ふんわりと嬉しそうに笑みを刷く。やめて。イケメンのそれは破壊力が半端ない。大人の色気を五歳児に振り撒かないで。
頬を染めたままちらりと伺えば、エイベルの眸に隠せていない情欲の熱が見えた。
エイベル、待て。ステイ!
元男としては、その意味わかっちゃうから! 抑えて!
いろんな意味で早鐘を打つ心臓を押さえて、大人の男の本気を甘く見ちゃいけないなと再確認した。身の危険を感じる。浩介もこんな感じだったっけ……? 何だか自信なくなってきた。
「エイベル。気が早いぞ。せめて十年は堪えろ」
「勿論でございます、旦那様」
お父様、そんな身も蓋もない……。
しかしエイベル。それでいいのか。浩介だった頃の記憶があるからわかるけど、欲求とはどうしようもない時もあるだろう? 娼館くらい通ったらどうだ?
「不貞は信条に反しますから」
にこりと正確すぎる返答がなされた。何も言っておりません。
不貞って、夫婦間のことを差す言葉だけど……え、本当にそういう意味? 夫婦になる意思はすでにあるってこと?
指先に落とされた唇の感触に、またもや頬が熱を持った。無駄に色気が駄々漏れだよ、エイベル……。こっちの身がもたない……。『レインリリー』としては、大人の色気にやられてしまっている、ということか。エイベルは好みど真ん中、らしい。非常に困った……。
レインリリーの人格が優先されるとエイベルの自重しない色気に陥落されそうになり、浩介の人格が優先されると恋愛自体が疎遠になる。別にそれで構わないと感じているのが現在の『俺』で、それでは困ると訴えているのが『レインリリー』だ。だから未来のレインリリーに傾いている現在が非常に厄介で、非常に困る事態だということだ。
エイベルに本気を出されたら、レインリリーなど簡単に籠絡されてしまう。『俺』では『レインリリー』の乙女心を抑えられない。
月日と共にレインリリーの人格が優勢になれば、恋愛観も変化するのだろうことくらいは安易に想像できる。エイベルの指摘通り、成長と共に心も変化するだろう。
中身まで男ではなくなった俺が、エイベルや他の誰かと恋愛する……? 信じられないな……。
ぶるりと震えた時、エイベルの熱の籠った溜め息がそっと吐き出された。
「本心で言えばここで口づけのひとつでもしたいところですが、旦那様もいらっしゃることですし、我慢致しましょう。まあいつまで我慢できるかは正直わかりませんが」
「自覚した途端それか。リリーはまだ五歳だということを忘れてくれるなよ。その姿は一時的なもので、本来ならば十二年先のものだ。節度を持って触れろ」
触れるな、とは仰らないのですか、お父様。
唐突にいろいろとはっちゃけたエイベルと、意外なほどにそれを容認しているお父様に呆れた。一応今はまだイルが婚約者だが、お父様はエイベルが将来の伴侶であればいいとお考えのようだ。びっくり隠れ肉食系だったエイベル自身もそれを望んでくれている、と。まあグレンヴィル家にとってはこの上ない縁組みだからな。お父様とお兄様はエイベル派なようだ。
しかし本当にはっちゃけたな、エイベル……。単純にこの姿に落ちただけか、本来の五歳児の姿でも変わらず想いを貫くのかは不明だけれど、幼女の姿でも情欲の籠った視線を向けられたら恐ろしいな……。イルなんて可愛いものに見えてしまうくらいには、本気になったエイベルが危険なことはよくわかった。だからレインリリー、落ちてくれるなよ。マジで貞操の危機だから!
「それで、殿下の面会申し入れを受けるのか、リリー?」
「は、はい。きちんと向き合う機会を頂きたく存じます」
「……わかった。だが私も同席することが条件だ。姿もその姿ではなく、本来の五歳の姿であることも条件とする」
「勿論ですわ」
「ではサロンへお招きしよう。お前は座ったままでいい。お出迎えはせずともよい。王宮には療養中だと伝えてあるのだから、不敬にはならない。エイベル、そのように」
「畏まりました」
「お待ち下さい。エイベルに頼みたいことがあるのです」
訝る二人に異空間からドローンを取り出してみせた。
「御前会議でお話ししましたように、これの解析を委託したい方が王都におられます。その方はわたくしの前世と同郷の転移者で、エイベルが探し出してくれた特殊符を製作した方でもあります」
「ああ、あの御老体ですか」
「ええ。わたくしはまだ出歩けるほど回復出来てはおりませんし、本郷殿も足がお悪い。あなたに手紙とこれを託すから、直接工房へ赴いて依頼してきてほしいの。一度でも面識のあるエイベルならば本郷殿もそこまで警戒しないのではないかしら。だからこれはあなたにしか頼めないことなの。お願いできる?」
「そういうことでしたら、お任せください」
「確かにそれの解析は国としても優先度が高い。お前の言うとおりエイベルが適任だろう。殿下のお出迎えは代わりにマイルズに采配させよう。リリーが手紙をしたためている間に引き継ぎを頼むぞ、エイベル」
「承知しました」
マイルズとはエイベル付きの従僕で、役職名は副執事だ。お父様に代わり屋敷の男性使用人の統括・管理を行っているのがエイベルで、マイルズはその補佐をしている。エイベルには人事権があり、雇用、解雇も彼の一存で行われている。
ちなみに女性使用人の統括・管理を担っているのは家政婦長である。屋敷のメイドを取り仕切る立場にあり、エイベル同様メイドの雇用、解雇の人事権を持つ。唯一権限が及ばないのが侍女で、侍女はメイドから独立した特別な地位にある。
メイドが屋敷の管理を一手に担っているのに対し、侍女は女主人の一切の身の回りの世話を担う。女主人の宝飾品や衣類の管理も範疇である。侍女を束ねるのは侍女頭で、侍女長とも呼ばれる。グレンヴィル公爵王都邸の侍女頭はマリアだ。
家政婦長と侍女たちは上級使用人で、互いの領分には口出し無用が暗黙の了解となっている、らしい。
そんなことをつらつらと考えながら、じっちゃんに書くべき手紙の内容に思いを馳せた。
真っ白いモコモコの泡で洗い物をする時間が大好きな変態淡雪です、皆様こんにちは。
ブクマ登録・評価・感想ありがとうございます(*>∀<*)
今回の内容はちょっぴり悩んでいて、数日前に書き終えていたのに踏ん切りつかず更新を見送っていました。
とある方に相談に乗って頂き、背中を押してもらえたので、思いきって投稿しました。
賛否両論あって当然です。
ご批判も承ります!
この場を借りまして、勇気を分けて下さった方へ心からの感謝を述べさせてください。
本当にありがとうございました!
本日は鏡開きですね(o´艸`o)♪
我が家でもお餅入りのぜんざいを作りました♪
砂糖入れすぎですね、鼻血出そうなくらい激甘です……。
ほんのり甘いのは好きですが、一般的な甘いものや甘過ぎるものは苦手です(´ε`;)ゞ
チョコレートで言えば、ビターは好きだけどミルクチョコレートやホワイトチョコレートは甘過ぎて食べられない。
そんな人間にとって、本日のぜんざいは殺人級の甘さ。
目分量はいけませんね(;¬_¬)
きちんと計量しましょう( ̄0 ̄;)