8.見えるって素晴らしい
長くなったので、一端切ります。
鮮明になった視力で映し出された情報量に、俺は思わず圧倒された。
世界が輝いて見えると言うと気障ったらしく聞こえるだろうが、そうとしか表現しようがないほどに、視野いっぱいに広がる光の乱舞はただただため息が漏れるほどに美しかった。
極彩色の小さな粒子が大気中に漂い、グリッターのように一つ一つが朝日を弾いて煌めいている。飴色の調度品や風景画、黄色い薔薇が生けられた花瓶、白い天蓋ベッド、そのすべてに祝福を与えるように周囲を浮遊している。
見えているこれが何なのか、この世界を初めて目視した俺には皆目見当がつかない。ひたすらに圧倒されているだけで、綺麗だと感嘆の言葉しかない。
興奮と感動に打ち震えていると、不意に父の訝る声が耳に届いた。
「なんだ、今のは……? 魔法か?」
「そのようで……魔素の動く気配がいたしましたし……」
「しかし、いったい何の魔法だ? このような気配は知らないぞ」
父の訝しむ視線を真っ直ぐに受け止めた俺は、父の端整な顔立ちに驚いていた。
長身白皙ですっと通った鼻梁に薄い唇。目は怪訝そうに細められてなお艶を含み、それだけでとんでもない秀麗な男だというのがわかった。たっぷりとした癖のない明灰白色の髪は襟足も短くすっきりしており、また少し垂れ気味の瞳は青く、緑や黄色、白など複雑な色合いが溶け込んでいてこの男の美しさを際立たせている。
ずいぶんと若く見えるが、幾つくらいなのだろう? 西洋人のような目鼻立ちだが、幼く見られがちな日本人と比べると西洋人の見た目は当てにならない。同じ年齢でもずいぶん大人びて見えるものだった。
不思議に思ってじっと見つめ返していると、訝っていた父の目が突然はっと見開かれた。
「リリー……? お前、私が見えているのか?」
先程までとは違い、しっかりと焦点の合った視線が交わされていることに気づいたようだ。
とりあえず、マリア直伝の瞬きで返事しておくか。
「本当に見えているのか……そんな馬鹿な。生まれて三日でなんて、そんな……」
言いかけて、ようやく抱いていた疑念が繋がったらしい。
「まさか、先程の魔法の気配は、リリー、お前が?」
信じがたいものを見る戦いた視線が降ってくる。
ああ、やはり創造魔法は希少らしい。
「お嬢様、先ほど何か魔法をお使いになりましたか?」
問われてぱちりと瞬きをする。
マリアは印象通りの音容だった。邪魔にならないようきっちり結い上げた髪は暗めの金色で、お仕着せを着込んだ肢体はほっそりと長身だ。
意思の強さを持った目は鳶色で、吊り気味の目尻はきつい印象を与える。すっと伸ばされた背中は隙がなく、所作も物腰も油断がない。
だが不思議とマリアの側は居心地がよく、彼女の硬質さは俺には意味を成さない。
「旦那様の仰られるように、お嬢様の瞳に活力がございます。よく見えるようにと、そのような魔法をお使いに?」
肯定の瞬きを返す。
父が息を呑んだ。そんな魔法など知らないと驚愕している。
「ではリリーは、わたくしたちの顔をしっかり認識できているのね?」
母の声だ。マリアが絶賛していた芳姿をようやく拝めるとばかりに嬉々と視線を向けて――俺の思考はそこで停止した。
なんという……なんという美質に優れた女性だろうか。これほどまでの繊麗さを俺は知らない。少なくとも浩介はお目にかかったことがない。出会っていたら速攻でお付き合いを申し込んでいただろう。
母アラベラの姿は、それほどの衝撃を受ける美貌を持っていたのだ。
そんな麗しい母を娶り、子供まで儲けている父に若干苛立ちを覚えた。これは浩介の感情だろう。嫉妬はみっともないぞ、抑えなさい。そもそもその儲けた子供の一人が俺だ。落ち着け浩介。ややこしくなるから下がってなさい。
母は産後三日目ということで床についたままだ。
艶やかな輝きを放つ濡羽色の長い髪を緩く結い上げ、体に負担をかけない胴回りのゆったりとしたナイトドレスに身を包んでいる。
柳の眉に高すぎない鼻梁、白磁のように透明な肌に映える薄く色づいた小振りの唇は、微笑めば見惚れた騎士も落馬する勢いだろう。
母アラベラの見目は慣れ親しんだ東洋の顔立ちで、中国や韓国の系統に似ている。その美しさは天女と見紛うばかり。
東洋と違う点をひとつ挙げるなら、それは瞳の色だろう。クリスタルヘリオトロープのその色は、紫に青や水色が混ざる神秘的な瞳だ。
母は空間に浮遊する光に好かれているのか、母を慕うように、寄り添うように周辺を漂っている。その極彩色の輝きを受けて、母の瞳に金や銀の光沢が混ざる瞬間がとても綺麗だ。
惚けて母を見つめていると、微笑んだ母が俺の頬を撫でた。
「リリーは初めて目にするものばかりで興味が尽きないのね。お話はまた今度かしらね?」
咄嗟に俺は母の指を掴んだ。
話なら今したい! 気になることを教えて欲しい。魔素ってなんのこと? このキラキラ浮遊しているものはなんだ?
「ふふ。聞きたいことがたくさんあるって顔に書いてありますよ」
俺の視線を追って、母が天井を見上げた。
「なあに? 何が見えるの?」
あれ? 纏わりつく光の粒子が見えていないのか?
「失礼します、奥様。お嬢様、今現在お嬢様には何か見えておられますか?」
マリアの問いに両親が息を呑む気配がした。
肯定の瞬きをすれば、両親の驚きは更に深くなる。
どういうことだ?
「何が見えておられるのでしょう?」
うーん、こればかりは瞬きで伝わるとは到底思えないんだが、さてどう伝えたものか。
答えに窮していると、軽いノック音の後に入室の許可を求める声が聞こえた。
「母上。ユーインです。入ってもよろしいでしょうか」
「ええ。お入りなさい」
「失礼します。…………リリー!」
まだまだドアノブの方が高い位置にある兄がゆっくりと扉を開けた。母に抱かれる俺を見つけて嬉しいそうに駆け寄る様はまさに眼福だ。
兄は天使じゃないだろうかと思ったが、それは間違っていなかった。
父と同じ癖のない明灰白色の髪と、母譲りのクリスタルヘリオトロープの瞳。顔立ちは父に似たようで、少し垂れた目尻に黒子を一つ見つけた。これは将来ご令嬢方が放ってはおかないだろう。
こちらへ駆け寄って来る際に周囲の光が散ったが、兄が止まると粒子は再び集い始める。
本当にこれって何なんだろうな。
「リリー。今日はグレンヴィルのお爺様とお婆様が君に会いに来られるんだよ。僕も側にいるから、ご挨拶しようね」
ああ、兄よ、兄の願いなら何でも聞き入れるさ。俺が絶対兄様を守るよ。
はあ、早く兄様と成り立つ会話がしたいものだなぁ。こう一方通行だと切ない気持ちになる。
兄様に届け、この想い!
「……………え? リリー?」
うん? どうした、兄よ?
「えっと……どうしたって言うか、兄じゃなくてお兄様って呼んでくれると嬉しいんだけど」
うん? お兄様?
「そう、お兄様」
そうか。お兄様の方が嬉しいのか。
「うん。兄はちょっと味気無いよね」
そりゃそうだ。俺も妹から兄なんて呼ばれていたらいじけていた自信があるな。
「リリーに妹はいないよ? それに自分のことを俺だなんて言っちゃ駄目だ。リリーは女の子なんだから」
いや、妹って言うのは前世の話で、……って、え?
「え? 前世?」
……………は?
あ、あれ? お、お兄、様? 聞こえてる?
「うん、聞こえてるよ?」
―――――――――えええ!!??
なんと。心の声に兄が答えている、だと。
「ユーイン? どういうことだ? リリーが何を考えているか分かるのか?」
父が焦った様子で兄に詰め寄った。
母やマリアも唖然とこちらを凝視している。
「はい。リリーはお喋りさんですね。可笑しな口調でしゃべってますよ」
「お、可笑しな口調?」
「えーと、僕のことを兄と呼んでいて、リリーには妹がいるだとか、自分のことを俺と言っていたり、色々」
「ちょっと待ってくれ。妹? 俺?」
父が混乱気味に問い質す。まあ、普通はそうなるよなぁ、などと暢気に構えていたが、兄が突然俺の心が読めるようになったことがふと気になった。
兄の特殊能力かと一瞬思ったが、それだと辻褄が合わない。使えるなら最初から使っているだろう。兄が魔法を使った可能性も同じだ。
では、なぜ急に兄と意思疏通が可能になった?
俺は嫌な可能性にごくりと喉を鳴らした。
直前、俺は何を考えていた?
何を望んだ?
『はあ、早く兄様と成り立つ会話がしたいものだなぁ。こう一方通行だと切ない気持ちになる』
『兄様に届け、この想い!』
これか! これも明確にイメージしたことになるのか……!
創造魔法は俺が考えている以上に危険な力らしい。願望足り得る思いを抱いただけで成立してしまうなど、まるで悪魔の誘惑だ。感情制御を徹底しなければ、いつか取り返しのつかない事態を引き起こすかもしれない。
恐らく明細に望めば、国どころか大陸そのものを蹂躙してしまえる力だ。生産性としても需要が高いが、兵器としても価値がありすぎる。
例えば、原爆足り得る物の威力を俺が詳細に思い描ければ、それは広範囲の大陸を焦土と化すことが可能なのだ。製造法など知らずとも、元素記号を思い浮かべずとも、あの恐ろしいきのこ雲のイメージが途切れないかぎり、それは繰り返し複写されるのだから。資源の必要もなく、軍事費もかからず、雇用する必要もなければそれにかかる人件費もいらない。
その知識さえも、たぶん俺がコンピューターに明るくなくても使用できていたインターネットのように、慣れ親しんだ検索エンジンを思い描けばメカニズムなどまるっと無視して地球の情報にアクセスできるのだろう。
その証左が、現在鮮やかに見えている向上した視力だ。
眼球の構造など詳細に思い描いたわけじゃない。眼科医ではないのだから、それは無理だ。俺がやったのは、ただ浩介の視界を想像しただけだ。
見えていたものを思い浮かべた。このように見えるようになりたいと。それだけで事足りた。
検索エンジンも同様だろう。メカニズムは必要ない。検索していた様を思い出すだけでいい。たったその程度で膨大な知識がいつでも取り出せてしまう環境を実現できてしまうだろう。その情報量に俺の脳が耐えられるかは分からないが。
いや、データを圧縮してしまえばいいのか。必要なものだけを最小限引き出すなら、一部を解凍してあとは圧縮したままにすればいい。人間の脳がどれだけのデータ量を許容できるのかは知らないが、この世の全てを知る必要はないのだから問題ないだろう。
慎重に、危機感を持って考えなければ。
ひどく繊細な能力だ。すべては俺の心一つで決まってしまうなど心細いにも程がある。
まずは制御できなければ話にならない。
安全で些細なことから試してみよう。場数を踏めばきっと耐性もつくはずだ。
とりあえず、やってしまったものは今更どうしようもない。だったら一度も二度も同じ事だろう。
試運転だ。兄と繋がったこのイメージのまま、両親とマリアにも創造魔法を。
『―――――えーと、お父様? 聞こえる?』
「!!!」
喫驚した父がびくりと肩を震わせた。仰天したままの表情を向けてくるということは、成功したと判断していいだろう。
「リ、リリー、なの、か」
『うん? うん、リリーです。まだ全然慣れないけど』
「なんということだ……! リリーの心の声が聴こえるなんて……!」
「え!? 聴こえるの!? リズばかりずるいわ!」
『大丈夫です、お母様。マリアも。みんなに繋ぎました』
「これは……っ」
三者三様の驚きを見せてくれる。
よし、成功したようだな。異常も起こってないな? よしよし。
「これはリリーの魔法なの? どうやったかお母様にも教えて?」
好奇心に胸を踊らせながら花のように微笑む。
愕然としている父に比べて胆が据わっている。母は強しというやつなのか、度胸のある人だな。
でもいい機会だ。これで上手くいかなかった情報収集に着手できる。知識を大幅に増やせるぞ。
『これは、創造魔法という特殊な魔法のようです』
「創造魔法? まあ、聞いたことがない魔法ね」
「リリー。それは誰から教わった? それとも自力で編み出したものか?」
『いいえ。これは授かったものです』
「授かった? 誰にだ?」
俺はそっと天井を指差した。
『天から』
つられて上を見た大人たちは、俺の言葉に今度こそ真っ青に硬直した。