6.メッセージ
(ああああああぁぁぁ……………めっっっちゃ泣いたぁぁ)
マリアにおしめを替えられながら、昨夕仕出かしたことを思い出して俺はひっそりと悶えていた。とんだ赤っ恥である。
年甲斐もなくわあわあ泣いて一晩ぐっすり眠ったら、残っていたのは悶絶するほどの気恥ずかしさだった。
いや、体は赤ん坊なのだから、年甲斐もなくという表現は語弊があるのだけれど。
そう。未熟な肉体に宿るには、俺の前世の記憶や感情は情報が多すぎたのだろう。怒濤の勢いで流れていく『小鳥遊 浩介』の激情を捌ききれなくなって、許容値を超えた未発達な脳が勝手に肉体の年齢に近づけたのではないか。所謂脳の自己防衛本能とでも言うべきか。
すっきりした頭で、昨夕の吹き荒れた情動を改めて振り返ってみると、不思議なことにあれほどの荒々しさは鎮静化していた。
器となる肉体が変わっても、昨日のあの瞬間までは確かに刺された時のまま繋がっていた。
妹を案じる心も、女子生徒への気がかりも、元同僚たちに対する憤りも、悔いる気持ちも、心はすべて前世に置いたまま。
ずっとちぐはぐだった。器はとうに変更されていると言うのに、レインリリーと名付けられた肉体に宿りながら、その心は前世に留めたままだった。
矛盾を抱えたまま、違和感を圧し殺しながら、それでもずっと俺は前世の人格『小鳥遊 浩介』だった。
しかし妙なことに、現在はその全てが凪いでいる状態なのだ。
小鳥遊 浩介としての記憶や知識はちゃんとある。
失くしているのは情動だ。浩介の記憶を俯瞰して見ている感覚だ。俺の記憶と言うより、浩介の記憶を映像で見ている感じ。
他人の人生を覗き見しているような妙な感覚に戸惑っている。
昨夕までは浩介の記憶こそ俺の記憶そのものだったのに、今の俺にはきちんとレインリリーとしての人格があるのだ。
俺は女なのだと理解している部分と、浩介として引きずっている男だという肉体的自我。女としても男としても、両方の性が共存しているような漠然としたけったいな意識が生まれていた。
意識と記憶の拡散が統一され、自我同一性が確立されている。俺は私であり、男であり女である、ということだ。統一に失敗したことで混乱状態に陥ってしまっていたのか、赤ん坊ゆえの未発達な問題だったのか、それはわからない。どちらかがそうだったのかもしれないし、どちらもそうだったのかもしれない。もしくは、どちらでもない、別の要因が起こったからか。
身の内で起こったものか、外部的要因かも不明だが、とにかく心の平穏が保たれるなら有り難い。
浩介の激情に支配され許容量を超えることは恐らくもうないのだろう。心の片隅に残っている浩介の想いがそれを寂しいと感じているが、俺としてはこれでいい。ネガティブに陥るのは勘弁だ。
溜め込まれた知識は大いに活用させてもらうつもりだが、あくまでレインリリーとして引き出すことになる。悪いな、浩介。
妙な感じは残るが、これで落ち着くべきところに落ち着いたと言えよう。
レインリリーの自我もあるのに、内面的性別は浩介寄りなんだなぁ、などと他人事のように思う。
恋愛はどっちとするんだろうな、俺。
浩介なら当然好きになるのは女の子一択だが、レインリリーとしての俺は?
ははは。現時点では俺に男を異性として好きになれる要素は欠片もねぇな。砂を吐くぞ。
何かしらの強制力が働いた可能性もあるが、少なくとも今の俺には解明できない。なるようになるさと無理矢理にでも納得するしかない。何より不満はないのだ。ごちゃごちゃしていた脳内が整理整頓され、快適になった今に俺は満足している。これは大事なことだ。
たとえ見逃している重要なことがあるのだとしても、今はまだその時ではないのだ。きっと。
◇◇◇
「お嬢様、本日のご気分はいかがでございますか?」
「あー」
「左様でございますか。それはよろしゅうございました」
問題ないよと気持ちを込めて返事したただの母音から、マリアは的確に正解を導き出した。
マリアの謎能力が秀逸すぎて、最早突っ込むのも野暮な気がしてならない。
すっきりしたお尻に真新しいおしめが手早く巻かれていく。三日も経つと案外慣れるものだ。達観した今の俺なら尻を出したまま鼻歌くらい歌っちゃうね。
「本日はお嬢様の御祖父様と御祖母様でいらっしゃいます、グレンヴィル前公爵ご夫妻がおいでになられます」
うん!?
公爵家って言った!?
うちって公爵家なの!?
「はい。グレンヴィル公爵家にございます。旦那様が奥様と婚姻なさったのを機に旦那様に爵位をお譲りになり、大旦那様は大奥様と共に公爵家領地へ退かれました」
なるほどねぇ。想像以上に上位貴族だったなぁ。
もうね、時代は中世なんだと思うことにして、貴族階級なんてものが話に出てきても驚かんよ。
「だー、う、だっ」
うん、頑張った、俺。伝われこの疑問!
国について教えてください!
「昨夕のご質問でございますね? お知りになりたいのは我が国のことでしょうか」
なんと、伝わった。マリアって本当に何者。
今ので何で伝わったのか、伝えようとした俺にさえ意味がわからない。
あ、俺の目かな? 目は口ほどに物を言うとも言うし、俺の目力が半端ないのかな?
いやいや、仮にそうだったとしても、生後三日目の赤ん坊の目を見ただけで「国のことを知りたがっている」などと誰が見抜けるよ。
おかしい。なんか色々おかしい。
「我が国はバンフィールド王国といいまして、広大な四大陸のうちの一つを統治する、巨大国家にございます。我が国は魔法に長けた者も多く、世界広しと言えども魔法に関して我らがバンフィールド王国の右に出る国はありません」
待って! ちょっと待って! かなり重要な単語がぽろぽろ出てきたよ!
バンフィールド王国!? 四大陸!? 魔法!? 俺の知ってる世界じゃないよ!?
四大陸と言えば、まず俺の頭に浮かぶのはフィギュアスケートの四大陸選手権だけど、その四大陸じゃないんだよね???
あれ!? ここって中世じゃないの!? 俺は過去に時間跳躍して生まれ変わったんじゃなかったっけ??? えっ、ここって地球ですらない!?
「バンフィールド王国には六公爵家がございまして、王家は代々六公爵家に列なる家から王妃が選出されております。グレンヴィル公爵家は百年ほどご息女がお生まれになりませんでしたので、六公爵家の中でもお血筋は王家に列なっておりません」
はは~ん。百年も王妃を輩出出来ていない家系ってことで、他の公爵家に遅れを取っているということだな? もしかして立場も公爵家の中で一番弱いとか?
「ですが、当代ではお嬢様が誕生なさいましたので、面目躍如となるのではとすでに領地では祝祭が催されているそうで」
な・ん・だ・と
「マリア。不確かなことでリリーを混乱させないでちょうだい」
まったく、と呆れた様子でマリアから俺を引き取った母アラベラは、宥めるように背中を叩いた。
「心配いらないわ、リリー。王家の縁者とならずとも我がグレンヴィル公爵家は確固たる地位を築いてきたの。あなたが王家に輿入れしなくとも、その地位は揺るがないわ。リリーの意志に反して婚姻を進めるなど、わたくしが絶対に許しません」
「同感だ、ベラ。私も許さないよ」
そこへ颯爽と現れたのは、父ユリシーズだ。
混乱状態にあった頭はノックの音を聞き漏らしたが、入室の許可は取ったのだろうか?
「父上は期待しているかもしれないが、母上は反対するだろう。母上のお婆様が王家から降嫁されている。王女殿下であられた曾祖母の苦労話を私も知っているんだ。そんな魔窟にリリーはやらん」
「リズ、魔窟などと不敬ですわよ」
「構わん。どうせ私たちしかいない」
「どこに耳があるかわからないのですから、不用意な発言は控えてくださらないと」
両親と父方の祖母は王家へ輿入れを反対、と。良かった。本気でよかった。
俺に男の嫁になれとか、ましてや王妃になれとか死の宣告に等しいぞ。
しかし王女殿下の降嫁か。
百年グレンヴィル公爵家から王妃が出ていなくても、王家からの血筋は多少入っているのか、なるほどなぁ。
ピローン、と不意に懐かしい機械的な通知音がした。
目の前の何もない空間に、液晶パネルに似た何かが浮かんでいた。
日本語で書かれた文字は―――
『メッセージを受信しました』
―――――――――は?