51.山窮水尽
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治癒院はさながら野戦病院のような様相を呈していた。
ベッドの数が足りず、床に直接寝かされている者も多い。錆びに似た血の臭いが立ち込め、そこかしこで痛みを訴える呻き声が上がっていた。
治癒師や看護師が忙しなく駆け回っているが、明らかに人手も物資も足りていないことは明白だった。
イクスや侍女たちが青ざめ怯んでいる。イクスはまだ五歳だ、竦んでしまっても無理はない。戦場さながらの有り様は、女性の身にもきつかろう。
イルは気丈にも踏み留まっているが、引き結んだ唇からは言葉もない。
俺も決して耐性があるわけではない。寧ろ浩介の最期をありありと思い出させるにおいだ。浩介の最期は、自身の血の臭いで終えているのだから。
繋がれたままのイルの手をそっと包み、俺に意識を向けさせた。
中身は年長者だ。イルやイクスを放置して畏縮している場合じゃない。
「殿下、人助けです。あなたの民です。このまま死なせるわけにはいきません」
「―――ああ、そうだね。そうだ」
血腥さを意に介さず、イルはすっと息を吸い、深く吐き出す。白かった頬にうっすらと赤みが差した。
「うん。ごめん、リリー。もう大丈夫」
真剣な面持ちで負傷者を見据えると、俺の手を離して近寄って行った。近衛騎士が慌てて後を追う。
「レインリリー。聖属性魔法は使うでないぞ」
こそっと小声でお爺様が忠告する。
わかってます、お爺様。使うのは白の魔素に頼った回復魔法だ。聖属性ではなく、創造魔法を使う。大勢に黄金色の魔法陣を目撃されるわけにはいかない。
こくりと首肯すると、お爺様も頷き返した。
「イクス、しっかりしろ。お前の闇魔法も必要だ。痛みを忘れさせる意味でも、イルの身の安全のためにも、負傷者はすべて眠らせる必要がある。できるな?」
イクスに近づいて耳打ちする。びくりと一瞬震えたが、俺の目を見返す眼差しは強かった。
「ああ。出来る」
よし、と頷き、俺もイルの後を追う。最初は側についていた方がいいだろう。
「エスカペイドの邸に早馬を出せ。前倒しで騎士団を編成して向かわせろ。ディアドラには日程が延びると伝えておけ」
「承知致しました」
後方でお爺様がエリアルに指示を出している。緊急性が高いとお爺様も判断なさったようだ。
エリアルが用意したグレンヴィル家紋章が入った用紙に書き付け、同じく家紋入りのシーリングスタンプ指輪で封蝋したものを二つ用意する。一つはエスカペイドの騎士団本部に、もう一つはお婆様宛てだろう。
緊急通達であるため、書面化したものと口頭通達の両方が取られる。封書はお爺様からの命令である証拠として、口頭通達は状況把握の時間短縮のためだ。
受け取ったエリアルが退出していく後ろ姿は、老齢であるとはとても思えない颯爽としたものだった。
回復魔法をかけろということは、エスカペイドから騎士団が派遣されるまで少しでも戦力を増やしておきたいということだろう。
これ以上の被害が出る前に騎士団が到着すればいいが………。
「駄目だ、塞がらない」
不意にイルの焦った声が耳朶に触れる。止めていた足をそちらへ向けると、ヴァルツァトラウムの騎士の一人と思しき負傷者の傍らで、イルが何度も回復魔法をかけているところだった。
「殿下」
「リリー、傷が塞がらないんだ。今の僕が扱えるのは初級の回復魔法だからか、何度も重ね掛けしているのに裂傷は酷いままだ」
「大丈夫です、殿下。落ち着いて。大事なのは詠唱ではなくイメージです。焦りからそのイメージがうまく練られていないのだと思います」
「訓練では上手くいっていたけど、やっぱり実戦となると難しい」
いや、よくやっている方だろう。血塗れで剥き出しのままの裂傷を目の前にして、回復魔法はきちんと発動している。重ねた分だけ出血は少なくなっているじゃないか。
意識が朦朧としているのか、騎士の反応は鈍い。
イクスを見ると、青ざめながらも一人一人に闇魔法を掛けていた。あちらは大丈夫そうだな。
「殿下。わたくしのイメージを伝えます。それをそのまま負傷者に投影して下さい」
「え………?」
困惑の視線を向けたイルの頬を引き寄せて、額をコツンとくっつけた。瞠目したイルに、俺が傷を癒す時に想像するイメージを送る。
ファンタジー映画やゲームなどの影響でイメージしやすいというのが転生者の利点だろう。医療ドラマでもイメージしやすい。
逆再生映像のように、見る見るうちに傷が塞がっていく様を思い描く。初めから裂傷などなかったかのように、傷痕を残すことなく綺麗に。
前頭葉に熱を感じ、俺からイルへ明瞭なイメージが伝えられる。
くっと目の見開かれたイルから離れると、動揺がありありと分かるスフェーンの眸を見つめた。
「伝わりましたね?」
「あ、ああ………でもどうやって………」
「掴んだイメージを手離さないで、もう一度初級の回復魔法を掛けてみて下さい。今度は大丈夫。―――イルなら出来る」
最後は小声で囁いた。誰に聴かれているかも分からないからだ。
聞きたいことが山のようにあるのだと言わんばかりの顔で沈黙したが、優先順位を天秤にかけた様子で首肯した。
ふう、を息を吐き、脇腹の患部に両手を翳す。
「彼の者に癒しの温もりを。―――ウィル・オー・ウィスプ」
応えた白い魔素の数が、先程までとは段違いに集った。群がる白で裂傷の患部が覆い尽くされる。暖色に発光した直後、イメージした通り逆再生映像のごとく傷は塞がり、傷など最初から存在していなかったかのように跡形もなく姿を消した。
「治っ……た………?」
かすれ声で呟くイルが、信じがたいものを見てしまったとばかりに裂傷のあった箇所を凝視している。随従する近衛騎士や侍女も同様だ。
「リリー、君はいったい僕に何をしたの………」
「イメージを共有しただけで、それ以上の手助けはしておりません。殿下ご自身の本来の力ですよ」
「でも、訓練でもこれほどの効果はなかった。しかも初級なのに……っ」
「重要なのはイメージであり、詠唱ではないからです。元来魔法というものは、初級、中級、上級と区別するものではありません。威力も効果も詠唱で構築されるのではなく、すべてイメージで固定されるのですよ」
待って、とイルが若干強張った面持ちで俺を見た。近衛騎士たちも同じ表情をしている。
「魔法は詠唱が前提だと教わっている。詠唱で以てイメージを増幅、補助するのだと」
「一般的にはそれが正しいでしょう。魔法には定義と規範がありますから」
「その言い方だと、君にはそれがないように聞こえる」
強張ったままのイルとその配下たちを見て、喋りすぎたかなと内心で嘆息する。
確かに常識とされてきたやり方とは違う方法で効力を引き上げたのだから、俺のやったことは異端に見えるだろう。その反応は当然か。
うちの家族や使用人たちの肝が据わり過ぎているだけだろう。それから、俺への愛が半端ない結果か。
俺の後ろに控えているケイシーが、イルの配下たちを冷ややかに眺めながら口を開いた。
「殿下。発言をお許しください」
「あ、ああ、許す」
深々と頭を垂れると、ケイシーは冷めた表情のまま続けた。
待て、ケイシー。お前何を言うつもりだ?
「我がグレンヴィル公爵家のお嬢様は天賦の才をお持ちなのです。規範に縛られないお考えは異端に映るかも知れません。しかし、異端だと忌避なさるようでは、お嬢様の内面の一つとてご理解できないでしょう」
「不敬であるぞ!」
「いい。よせ」
冷ややかに噛みついたケイシーに、イルの配下たちが譴責する。ノエルたちも近衛騎士と睨みあった。一戦も辞さない構えだ。待て待てお前たち! 事を荒立てるな!
諌めたイルは、悲痛な真剣な表情で俺を見た。
「すまない、リリー。動揺して誤解させてしまった。異端だとは思っていないよ、信じてほしい。ただ、これを軍部が知れば大変なことになるのは確かだ。リリー、この方法は決して他言しないように。お前たちもいいね?」
「しかし、殿下」
「リリーを軍事利用させるわけにはいかない。国の産業を担うグレンヴィル公爵家を敵に回す気か? 財貨を司る公爵家だぞ。これは命令だ」
「……………御意」
不承不承の体で騎士たちが了承する。口を滑らせた俺の落ち度だが、失敗したな。俺もどこか冷静ではなかったのだろう。軍部に列なる近衛騎士に知られたのは痛い失態だ。
ケイシーとノエルたちがイルへ深々と頭を垂れ謝意を示す。
「さあ。負傷者はまだたくさん居るんだ。制限ギリギリまで治療していこう」
俺はこくりと頷くと、イルにそっと呟いた。
「ごめん、イル」
微笑みを返し、イルは次の重傷者の元へと駆けて行った。
俺も気を引き締め直して、下手なことをやらかさないよう制御しなくては。
白と金と銀の魔素に頼み、次々に回復魔法を施していく。イクスのおかげで患者は眠っているので、無詠唱でさくさく傷を塞いでいく。
皆は奔走しているからか、俺が無詠唱であることに気づいてもいない。
使用制限のあるイルに合わせて俺も休憩を入れた。実際は無制限に使えるが、これ以上イルの配下に、不用意に情報を与えないためには効率より優先しなければならない。それの何と歯痒く苛立ちを覚えることか。
休んでいる間も領民が苦しんでいるというのに、衆目を気にしてセーブしなければならない。そんなままならない状況が焦慮に駆り立てる。
ようやく治療再開出来たのは、それから十五分経った頃だ。立ち上がったイルに合わせて俺も行動開始する。
効率と短縮化のため、二人の患者の間に膝をつき、両手をそれぞれにかざした。完治のイメージを同時に投影する。瞬きの間に塞がった傷痕を見つめ、焦れったさに歯噛みした。
本音は広範囲を一気に回復させたいのだ。だが近衛騎士の存在がそれを抑止させる。
焦燥感を抱えたまま俺も奔走した。
たまにケイシーが額の汗を拭いてくれたり飲み物を準備してくれるおかげで、何とか日が暮れる前には全員の治療を終えられた。
全員がイクスの魔法で眠っているおかげで、イルの危険度も格段に下がっていた。
最後の一人を回復させた直後、さすがに疲労感がどっと押し寄せた。魔力の枯渇というより、イメージを繰り返し投影し続けたことによる、前頭葉への負荷だろう。
立ち上がってよろりとふらついた体を受け止めてくれたのは、心底案じる顔をしたアレンだった。ノエルとザカリーも心配そうに眉尻が下がっている。
大丈夫―――そう言おうとした、露の間。
「閣下! 緊急事態です!」
暮れなずむ治癒院へ駆け込んで来たのは、各方面の采配に奔走しているはずのアンヴィル侯爵だった。
その切羽詰まった色のない顔から、良くない報せであることは明白だった。
「最奥の魔物の群れが! 森を抜けました!」
その場にいた全員の血の気が音を立てて引いた気がした。
それは、魔物が街へ到達するまで一時間もないという、死の宣告に等しい、最悪の報せだった。