3.急転直下
「明日の正午には大旦那様と大奥様がご到着されるそうです」
「そうか、わかった」
夕刻に帰宅した父が、執事らしき男から報告を受ける。
それを父の腕に抱かれながら何とはなしに聞いていた俺は、父方の祖父母が明日のお昼に訪ねてくるのだと理解した。
平静さを取り戻してから、状況整理をするべく少し考えてみた。
この世界はどうやら原始的な通信手段から察するに、あまり文明の利器の恩恵には預かれそうにない。通信機器がないということは、娯楽も限られてくるだろう。ベッドで安静に過ごす母が暇潰しにと読んでいる本や、たまにちくちく刺繍を刺す様子から、恐らく俺の推測は大きくずれてはいないはずだ。
文明の利器に慣れ親しんだ現代っ子が、生活水準を大幅に引き下げて生きていけるか否か。
人や状況によるだろうが、少なくとも現時点では難しい問題だ。
視力は弱いし首もすわっていないので諸々の確認のしようがないのだが、ライフラインの一つとも言えるトイレ事情はどうなっているのかがすごく気になる。
お風呂の環境は? そもそも浴槽に湯を張ってつかる習慣はあるのか?
食料事情は?
現存する調味料は?
米はあるのか?
飲料水はどうしている?
衛生管理は? 下水道は通っているのか?
災害に備えて治水はされているのか?
街道整備は? 舗装はされてる? 連絡手段が馬ということは、当然自動車や電車、飛行機もなく、移動には騎乗か馬車の二択しかないのでは?
挙げたらきりがない程度にはいろいろと問題提議できる自信があるな。
せめてもう少し視力が発達すれば。
今の俺の目は、相手が誰であるかを視認することはできない。分かるのは明暗の区別と無彩色の濃淡くらいで、はっきりとした形として認識は出来ていない。
例えば、母と祖母の髪が黒いことは分かるが、髪が縁取る顔の輪郭や目鼻立ちなどはまったく認識できない。
(これは思った以上に厄介だ)
情報は宝だ。鮮度がものを言う。このままでは、正確に把握できる判断材料が揃うまでに一年以上はかかるだろう。そんなに待ってはいられない。
勇み足になるつもりはないが、ままならないもどかしい気持ちは多分にある。
この邸の侍女頭だと名乗っていたマリアが俺を怪しんでいるのなら、その抱いた懐疑を確信に変えて、彼女を取り込むのが手っ取り早いか……。
母音を発する声を出せるのは生後二、三ヶ月頃からだが、産まれて二日でそれを成している異常さは薄々気づいている。
一回り歳の離れた妹が赤ん坊だった時は、喃語をしゃべったのは生後六ヶ月頃だったはずだ。さすがに今の俺に喃語は無理だが、半年と待たずに喃語くらいなら喋れるのではないだろうか。
ちゃんとした意味のある単語を話せるようになるのは早くて生後十ヶ月ほど。幸いと言っていいのか、俺には前世の知識と記憶がある。言葉の意味を理解しているなら、有意味語も前倒しで話せてしまうのではないか。
何とか単語をくっつけて意味の通じるものに構築できれば、疑っているマリアならば汲み取ってくれるかもしれない。
知りたいこと、知っておかねばならないことは山とある。
得たいの知れないものを前にしているようで、焦れったさと何とも言えない気持ち悪さばかりが澱のように積もっていく。
答えは目の前にあるはずなのに。
父親にあやされながら、俺は苦々しく呻いた。
◇◇◇
「意味はわからないが、よく喋るな……ユーインもこうだったか?」
控えている侍女頭のマリアに尋ねれば、彼女は昨日の出来事のように瞬時に答えた。
「坊っちゃまはよくお泣きになりましたが、おしゃべりと言うほどの言葉はあまり口になさらなかったかと」
「ああ、そうだったな。特に夜泣きが酷くて、毎晩ユーインを連れて庭園を徘徊したものだ」
懐かしさに目を細めた。たった四、五年前の出来事なのに、ずいぶん昔のことのように錯覚してしまう。
ユーインはぐずり始めると長くて苦労した。なかなか泣き止んでくれなくて、このまま干からびてしまうのではないかと何度も気を揉んだものだ。
初産を終えたベラの産後の肥立ちが悪く、産褥熱と呼ばれる高熱に数日間苦しめられた。手厚い看病のおかげでようやく熱が下がり安堵したが、産後一月ほどは絶対安静だと医者に言われ、ユーインの世話は私と邸の者たちで見ていた。
医者が言うには、出産というものは馬車に追突されたほどの損傷を身の内に受けることに等しいのだとか。
それを聞いたあの日の私の焦燥感は筆舌に尽くし難い。
五年ぶりの出産に不安の方が勝っていたが、今回は産褥期の身体の回復も早そうで安堵した。前回のような高熱は出ていないし、床上げも早いかもしれない。
経産婦だということもあってか、ユーインの時より短い時間ですんなり産まれたと聞いている。
産声をあげてから一度も泣いていないらしい。そういえば私は一度も聞いていない。ベラやマリアが言うには健康そのものらしいが、手の掛からない大人しい子と言えどもそれはそれで心配になる。
産まれた過程がすでに母親孝行で、産まれた後も手の掛からない孝行娘。
手が掛からないのなら、仮に早熟で我慢を知っていると言うのなら、その分私が存分に甘やかそう。
在りしのあれやこれやを思い返し、決意を固く心に誓っていると、マリアの突飛な言動によって現実に引き戻された。
「お嬢様はおしゃべりをなさっているというよりは、思い悩んで独り言を呟いているといったご様子でしょう」
「…………思い悩んでいる? 赤ん坊だぞ? 何を言っている?」
突拍子もないことを言い出したマリアに怪訝な顔を向ける。
確かにぶつぶつ呟いているように聴こえなくもないが、これは声を出しているだけであって意味のあるものではない。それを思い悩んでいるだなどと、正気か?
「私は正気でございますよ、坊っちゃん」
「坊っちゃんはやめろ」
顔に出てしまったようで、心中を正確に読んだマリアに苦虫を噛み潰す。
マリアは元々私のナニーだったので、様々な過去を知り尽くされていることもあってあまり強く出られない。心のヒエラルキーは第二の母と呼べるマリアに軍配が上がるのだ。
「確かに大人しい子だが、まだ生後二日の赤ん坊だぞ? リリーが思い悩むなど荒唐無稽に過ぎる」
「わたくしもマリアにそう言ったのだけれど、でもね、そうとは言い切れないのではとわたくしも思い始めて」
それまで沈黙していた妻が、苦笑を浮かべて口を挟んだ。
「どういうことだ?」
「百聞は一見にしかず。自分の目で確認した方が早いわ。マリア」
「はい」
マリアがリリーを抱き上げようとするので、怪訝に思いながらも受け渡した。
新生児らしからぬ縦じわを眉間にくっきりと刻んで「うー」だとか「だー」だとか口にしていた愛娘が、マリアにぼんぽんと背中を叩かれてぱちくりと瞬いた。
「お嬢様。何を悩んでおられますの? このマリアがお嬢様の疑問に答えて差し上げましょう」
「おい、赤ん坊にそんなことを言って伝わるはずが」
「坊っちゃんは黙って見学なさるように」
「ぐっ」
虚を衝かれた様子でリリーが目を丸めている。まさに驚愕、というべき顔だ。
まさか、本当にこちらの言葉を理解していると言うのか?
「まだ目はあまり見えておられないでしょうが、耳はしっかりと聴こえております。こうして語りかけた言葉の意味を、お嬢様はきちんと理解しておられると私は確信しております」
そんな馬鹿なことがと思う反面、見開かれたリリーの目を見ていると否定的な声は押し止められてしまった。
「さあ、お嬢様。私の言葉をご理解下さるなら、肯定は瞬きを一度、否定ならば瞬きを二度なさってください」
六拍ほど微動だにしなかったリリーが、ぱちりと一度瞬きをした。
偶然だ。そう思うのに、マリアをじっと見つめる娘の表情がそれを否定する。
「よろしい。では、質問させて頂きます。お嬢様は何か悩んでおられるのですね?」
ぱちり。
「それはどのようなことでしょう? お腹が空いておられる?」
ぱちぱちり。
「なるほど。空腹ではないということですね。ではおしめですか?」
ぱちぱちり。
「おしめでもないと。わかりました。では身体的なことではなく、ご自身の周囲のことでしょうか? そうですね、例えばお嬢様のお生まれになったご家庭のこととか」
ぱちり。
「やはりそうでしたか。お嬢様はご家庭のこと、そしてこの国のこと、延いてはこの世界そのものの情報を欲しておいでなのですね」
ぱちり。
もはや絶句だった。本当に、産まれてたった二日しか経っていない我が娘がこれほどの意思疏通を図れるとは思わない。いや、普通に考えてあり得ないのだ。
だが現実に、リリーはマリアと認識の共有を始めている。
マリアは子供にも分かりやすいよう噛み砕いて話していない。それを理解していると。生まれ落ちたばかりでこの世界の仕組みを知らないからと、それを思い悩んでいたというのか、生後二日の赤ん坊が!
血の気の引いた顔を妻に向けた。ベラもここまでは認知していなかったのか、零れんばかりに見開いた双眸を返してくる。
この子は、なんだ。
私は何の親になったのだ?
この子は、娘は、本当に人なのか。人の括りに入るのか。
神が、もしくはその使いが、人の身を持って生を得た存在ではないのか。
両親はただただ茫然と娘を見つめるばかりだった。
ユリシーズ氏、本当に凄いのはマリア女史です。
きっと他者とは着眼点が違う、そんな人。