32.お披露目 1
「五歳のお披露目?」
サロンの焦げ茶色の革張りソファにちょこんと腰掛けた俺は、お父様の告げた言葉にぱちくりと瞬いた。そうなのだ、先月めでたく五歳を迎えたばかりなのだ。
「そうだ。我が国では、諸侯の令息令嬢は五歳を迎えると国王主催のパーティーに招かれる。所謂お披露目だな」
お披露目といえば、思い浮かべるのは生前だろう。大学時代の友人が海外リゾートで挙式をした後に、参列出来なかった友人たちを招いて国内で結婚報告会と称したお披露目パーティーを主催した。
友人が式を挙げた頃がちょうどクリスマスの時季で、その頃の塾は受験生を抱えているので繁忙期真っ只中だった。なので国内の挙式でも難しかったものが海外ということだったので、当然出席は辞退した。浩介は受験生を受け持っていたので冬期講習など猫の手を借りたいほどの忙しさだったからだ。決して羨ましかったからじゃない。
友人が催したお披露目会はガーデンパーティで、立食式のカジュアルなものだった。リゾート挙式の様子の写真をデジタルフォトフレームで流したり、軽快な音楽で新郎新婦が踊ったり、出席者たちも踊ったりと、楽しいものだった。帰り際にはちょっとした引き出物に海外のお土産が手渡され、披露宴よりもずっと居心地の良い空間だった。
お披露目では新婦の友人たちに誘われ、そのままの流れではっちゃけたこともあったなぁ。何人かとはその後も関係が続いたが、うち一人とは告白されて正式に付き合うことになり、結構長い期間交際は続いた。
どうして結婚に至らなかったか、それは浩介の仕事が原因だ。
繁忙期はことごとく、世間では盛り上がるイベント期間だ。年末年始、バレンタインの季節は入試直前期で大詰め。この時期はすでに生徒たちの志望校が確定しているので、それぞれの志望校入試に向けて質を高めた授業を準備しなくてはならない。通常よりさらに準備に時間をかける必要があるので、この時季はどうしても余暇に時間を割くことはできない。それ以外でも、ナーバスになる受験生の相談に乗ったりと、本当に忙しい時期だった。
受験が終われば暇になるかと言えば、決してそうではない。ホワイトデーの頃から梅雨の時期にかけて休める日は少なくなる。新たに入塾する生徒たちの確保と春の講習があるからだ。春と夏は入塾生確保の時期なので、この頃も繁忙期真っ只中だ。
つまりは、春、夏、冬の長期講習がある季節と、受験直前期は最も忙しい時期なのだ。一年間通して隙なしと言っていいだろう。秋に少し余裕が出来るくらいだ。
週休二日なんて夢の話だ。繁忙期は十二連勤なんてざらにある。帰宅は毎日深夜近く。塾が昼過ぎから夜までなので、その他の諸事を終わらせてから帰宅となるとどうしても帰りは深夜に食い込む。午前中ゆっくりしていられるのはありがたいが、一人暮らしだったので家事をこなしている間に午前中は潰れる。
彼女はとある会社の受付嬢だったので、どう考えても浩介の就業時間と彼女の終業時刻はかぶってしまう。平日勤務の彼女とディナーデートなど出来るはずもなく、休日も固定型の彼女と変動的な浩介とではすれ違いも多かった。たまに彼女が焦れて深夜帰宅した浩介を急襲することもあったが、そういう時は大抵同衾で朝を迎えてしまうので、デートらしいデートなど全くと言っていいほど出来ていなかった。
結果、この関係はもう無理だと判断した彼女にフラれてしまったわけだが、ごもっともなので引き留めることも出来なかった。本当に申し訳ない。
正月元日に実家に帰省した際、二日間滞在して妹の勉強を見てあげたのだが、それを知った彼女に「私に割く時間は作れなかったわけ」と責められ、何とも言い難い気持ちになったこともあった。その通りだと反省する気持ちもあり、また正月くらい家族を優先してもいいだろうと反発する気持ちもあり、微妙な感情を抱えたものだ。
仕事と実家とを優先した結果が彼女に見限られたということなのだが、「私と仕事とどっちが大事なの」と言われてしまうことと同義なのでは、と思わなくもない。
比べられるものではないし、同列に扱うものでもない。仕事には誇りを持っていたし、先生と慕ってくれる生徒たちが可愛かった。決して楽な職業ではなかったけど、遣り甲斐があったし後悔はしていない。
彼女の希望に沿えなかったことは心残りだが、仕事に関しては一切後悔はない。
在りし日々に思いを馳せ感傷的になっていると、お父様が国王主催の宴について話を続けた。
「お前が出席せねばならないお披露目は三週間後だ。衣装の仕立てや装飾品など目まぐるしい日々が続くだろうが、体調に気をつけて乗り切るように。ベラ、頼んだぞ」
「はい。お任せください」
うへえ、と内心で苦虫を噛んだ。俺にとって地獄の日々が待ち構えているんだな。
すべてはお母様とカリスタ達に任せて、俺は着せ替え人形に徹すればいいや。それが一番の苦行なんだが、公爵令嬢に生まれた以上これも立派な務めだ。頑張れ、俺。
「グレンヴィル公爵家の威信を賭けて、張り切って準備しなくちゃ。他家のご令嬢に見劣りするような物など許されなくってよ」
「え? 競争なんですか?」
「諸侯の集う場で子息、息女が一同に介することなどそうないからな。交誼を結ぶ場としての意味合いが強いんだよ」
「交誼を結ぶ………」
嫌な響きだな。それってつまり―――。
「未来の伴侶を探す場、ということね」
「やっぱり」
続くお母様の言葉に、俺はげんなりとした面持ちで呟いた。
五歳の子供の嫁婿探しって、貴族社会のなんと世知辛いことか。やれやれと首を振っていたその時、はたと気づいた。
五歳のお披露目が将来の伴侶を探す場であるならば、お兄様にはとっくに婚約者が決められているのでは?
「僕に婚約者はまだいないよ」
はっと顔を上げた俺を見て、お兄様がにこやかに答えた。うーん、またもや顔に出まくっていた模様。
「安心した?」
悪戯っぽく微笑んで小首を傾げるお兄様に、俺は大真面目に頷いた。
「安心しました。まだまだわたくしのお兄様でいてください」
「リリーが可愛いことを言うっっ」
抱き締めて頬擦りするお兄様にされるがままになりながら、将来領地に引っ込む計画の見直しをするべきかもしれないと考えた。悠長に構えている場合ではないのかもしれない。もしかすると、この家にお兄様のご正室が招かれるまであと十年もないのではなかろうか。
ご正室が入られても、変わらずお兄様にくっついていては外聞が悪い。いつまでも行かず後家の妹が居座っているわけにはいかないだろう。
そうと決まればやることは一つ。まずは下調べからだ。
「お父様。グレンヴィル領へ赴かれる予定はございますか?」
「うん? 領地へか? そうだな、リリーが産まれてからは一度も訪れていないから、そろそろかとは思っていたが。いつまでも父上に押しつけたままという訳にもいかないしな。それがどうかしたのか?」
「その際は、わたくしもご同行させて頂けますか? 領地を見てみたいです! お爺様とお婆様にもお会いしたいですし!」
「そうか。そうだな。一度連れていきたいとは思っていたんだ。お披露目を終えて暫くのち、家族で行ってみるか?」
ぱっと華やいだ表情を浮かべた俺を見て、お父様の口元が緩んだ。
「ではそのように調整するとしよう。エイベル、いいな?」
「承知致しました」
よし、まずは第一歩だ。領地はどんな所だろうか。
面倒なお披露目をすっ飛ばして、俺の意識はすでにグレンヴィル領へと向かっていた。
◇◇◇
ついにやって来てしまったお披露目当日。
早朝から続く入浴、肌と髪のお手入れ、身支度と、怒濤のごとく準備に追われた俺は、いつも以上に念入りにお手入れされた鏡に写る自分を疲れ果てた顔で眺めた。
「お嬢様、とってもお美しいです!」
「本当に! 白磁のように透明感のある白い肌はきめ細やかで、水も滴るばかりの黒髪は光沢を帯びる絹糸のよう。まさに天女のごとしですわ」
「お衣装に淡藤色を選んで正解でしたわね。お嬢様の肌の白さと御髪の黒がとても映えますわ」
詩人か。ファニー、ケイシー、ブレンダの順に絶賛してくれるのはありがたいが、詩人か。特にケイシー。
まだ子供だから脛の中頃までの裾長さも許されるそうで、椅子に腰掛けている俺の足首は丸見えだ。純白レースの靴下を履き、ドレスと同じ淡藤色のワンストラップのパンプスを履いているがもちろんローヒールだ。
ハイウエストのドレスは上半身はぴたっとフィットし、スカート部分はゆったりと裾が円形に広がる作りになっている。淡藤色のオーガンジーを幾重にも重ね、表にあたる一番外側の白菫色の生地に銀糸で蔦を刺繍してある。
腰には装飾として藤色のサッシュベルトを締め、これにも銀糸でスカートと同じ蔦の刺繍がなされている。俺にはよく分からないが、これがアクセントになっているそうだ。
「御髪は何かご希望はございますか?」
「いつもの通りで構わないわ」
「いいえ。構います。本日のお披露目は、グレンヴィル公爵家の威信を賭けて着飾るべきなのですよ、リリー」
頓着なく答えた俺の言葉にかぶるように、部屋を訪ねてきたお母様が否定した。
「ファニー、ハーフアップで構わないけれど、いつもの通りでは駄目よ」
「はい、奥様。心得ております。このような形ではいかがでしょうか」
丁寧に梳っていたファニーが、手際よくサイドを結い上げていく。どうやったのかまったく分からなかったが、ハーフアップにした部分がリボンの形をしていた。スゲーな、おい!
「まあ、素敵じゃない! リボンの結び目にあたる部分に装飾品をつけるのね?」
「左様にございます。こちらを―――」
「失礼致します。ファニー、髪飾りはこちらを使いなさい」
席をはずしていたカリスタが戻るなりファニーに装飾品を渡した。
なんだ? 当日に変更だなんて珍しいな。
「カリスタ、それは?」
「はい、奥様。先程エイベル様に手渡されまして。何でも旦那様が発注していたものがぎりぎり間に合ったそうで」
「あら、まあ。初耳だわ」
ぱちくりと瞬いたあと、俺の髪に差し込まれる髪飾りをまじまじと覗き込んだ。後頭部に差し込まれた装飾品を、残念ながら俺は確認することはできないが、お母様のうっとりと見つめている様子から察するに、とても素晴らしい一品であることは間違いなさそうだ。
とんでもなく高価なものであろう髪飾りが自分の後頭部に差し込まれていると思うと胃が痛むが、そちらに意識を向けないようにしよう。でないとお披露目の間ずっと首を動かせなくなる。
「リズがデザインしたのかしら? 真珠色の月下美人が黒髪に映えて、とても美しいわね。ドレスとの相性もいいし、素敵だわ」
やめてお母様、実況しないで。どんなものが後頭部に存在しているのか知ってしまったら、俺はこの場から立ち上がることも出来なくなります。そんな大振りの装飾品、動いたら落ちちゃう!
「さあ、そろそろ行きましょうか、リリー。サロンでお父様がお待ちしているわ」
「はい、お母様」
俺は引き攣った笑みを浮かべ、どうにでもな~れとばかりに立ち上がった。落ちても俺の責任じゃないよね? ね!?
「リリー。とても綺麗だよ」
「ありがとうございます、お父様」
サロンで待って下さっていたお父様の賛辞に、俺は完璧なカーテシーで応えた。満足げに微笑んでいるカリスタを視界の端に認めながら、内心ではドレスのひらひらにうんざりしていた。ねえ、こんなに布いる!?
「父上。リリーに下手な虫がつかないよう目を光らせておいてくださいね?」
「わかっている。当然だ」
見送りに来てくれていたお兄様が、そんな不穏なことを言う。五歳児同士の間に男女の何があると言うのか。相変わらず大袈裟だなぁ、お兄様。
「大袈裟なんかじゃないからね?」
「何も言っておりません」
「いやいやいや、リリーは考えていることが顔に出ちゃうから。自覚しようね?」
「自覚はあります。でもお兄様もお父様も、わたくしの心の声に正確に答え過ぎです。わたくしよりも寧ろお兄様方の方がおかしいです」
「そこは愛情の為せる業だよ」
「え~………」
その一言で片付けてしまえるような代物じゃない気がするのは俺だけなのか? そしてお兄様、猫の子を愛でるような手つきで顎をくすぐるのは止めて頂きたい。
「いいかい、リリー? 今日のお披露目を境に、君の愛らしい姿は衆目に触れることになる。何せ君は、我がグレンヴィル家が百年ぶりに授かった唯一の女の子だからね。それだけですでに注視されていると言うのに、君ってば本当に愛らしいから。口説かれても応えちゃだめだからね?」
「口説かれてもって………お披露目に参列するのは五歳児ですよ?」
「五歳でも男は男だよ」
「わたくしを愛らしいと仰って下さるのは家族と使用人たちだけですわ」
「それはまだ君が貴族たちの目に一度も触れていないからだ。君を目にした同世代の子息たちが何を仕出かすか分かったものじゃない」
「いいえ、お兄様。イクスも同じ五歳ですが、あの方はわたくしを一度もそんな目で見たことはありませんよ。家族の欲目ですわ」
「……………イクス?」
そんな訳ないじゃないかとばかりに宥めようと口にしたイクスの名に、思いの外お兄様が過剰反応を見せた。
何やらお兄様のお怒りに触れた様子。物理的に室温が下がってます! お母様と同じ水属性持ちだから!?
「イクスとは、誰のことを言っているのかな?」
「えっと、あの、アレックス・アッシュベリー様の愛称にございます…?」
「へえ……ずいぶんと親しみを込めて呼ぶんだねぇ?」
「それは私も初耳だな、リリー。ブレットの小倅なんぞをいつそう呼ぶようになった?」
「えっ、お、お父様までどうされたのです? 仲良くなったとご報告致しましたが……」
なんだ!? 二人とも急にどうした! あとお父様、怒りに呼応して静電気起こすの止めて! さっきからピリッと来てるから! ドレスの素材が帯電しちゃうから!
「リリー、仲良くって、具体的にどんなふうに仲良くなったの」
「し、親友ですっ」
「男女間に友情は成立しないというのが僕の持論なんだけど」
「男女間ではありません。男友達です!」
「どういう意味?」
「イクスはわたくしを男として扱っておりますわ」
「はあ?」
お父様とお兄様の形相が、人様に見せられないものになってしまった。本当に男友達なのに、なにこの尋問劇。
「お話しましたでしょう? わたくしの前世は男だったと。男として振る舞うことをイクスが望んだので、わたくしもそのようにしております。ですから男女間の友情ではなく、男同士の友情だと解釈して下さるとややこしくないのですが」
「いや十分ややこしいから。君を男扱いだって? こんなに天女のごとく愛らしいリリーを? あり得ない」
「まったくだ。なんと無礼な」
いや、お兄様にお父様、天女はお母様であって俺ではありません。
「リリーに愛称で呼ばれるなんて生意気だなぁ。僕だって呼ばれたことないのに」
「お兄様を愛称で呼ぶ機会などないでしょう?」
「そうだね。じゃあ一日に一回は愛称呼びにしようか」
「はい?」
「さ、呼んでみて。ウィーだよ」
にこにこと爽やかな笑みを浮かべているが、呼ぶまで解放されないだろう圧迫感が半端ない。
「ウィ、ウィー……………」
「うんうん、よく出来ました!」
「戯れはそこまでになさい。そろそろ出発しないと遅れてしまいますわ」
呆れた様子でお母様がお兄様のごり押しに終止符を打った。お母様、止めてくださるならもっと早い段階で助け船を出して欲しかったです。
「そうだな。では王宮へ向かうとしよう。ユーイン、エイベル、留守を頼んだぞ」
「お任せください」
「畏まりました」
リリー、とお兄様が呼ぶ。
「リリー、気をつけて行っておいで。くれぐれも両親の側から離れないように。変なのに引っ掛かるんじゃないぞ」
「心配し過ぎです、お兄様」
「今のはお兄様じゃ駄目だな~」
「……………」
「ほら、『行ってきます、ウィー』って言わなくちゃ」
「……………行って参ります、ウィー」
「うん。行ってらっしゃい。無事に帰ってきてね、僕の可愛いリリー」
嬉しげでありながら穏やかに微笑んだお兄様の唇が、俺の額に口づけを落とした。
たまにお兄様の愛が重い……。でも浩介の、妹を溺愛する様はこんな感じだったなと思い直し、黒歴史を覗いている気がして羞恥に身悶えた。
前世の俺って、傍から見たらこんな感じだったの!? は、恥ずかしい……!
ナーガを預かってくれたお兄様や使用人たちに見送られながら、俺は身悶えたまま馬車で王宮へ向かった。
◇◇◇
お父様の手を取り馬車から降りた俺は、その美しさに言葉もなかった。
街を散策した時に見えていた白亜の王城は、間近で見ると迫力も絢爛豪華さも圧倒的だった。青いとんがり屋根に白い壁は、大学時代に彼女と行ったディズニーランドのシンデレラ城によく似た佇まいをしている。
トレーサリーの上部にカルトフォイル、つまりは四つ葉の形に石の細工を施した狭間飾りの窓がいくつも光を取り入れ、お父様の後に続いて歩く大理石の長い廊下を明るく照らしていた。
天井はファン・ヴォールトという扇形に装飾され、白に金の彩りが美しい。大理石の床には真っ赤な絨毯が敷かれているので、靴音が響かないよう配慮されている。
いくつかの尖頭アーチを潜ると、案内されたのは見事な庭園だった。
中央に噴水があり、様々な色彩の薔薇が咲き誇る薔薇園だ。お母様の好きな黄色い薔薇ももちろんある。お母様を見れば、やはりうっとりと観賞していた。
宴は立食形式のようで、すでに登城していた面々が歓談しながらグラスを傾けている。
「来たな」
お父様に声を掛けたのは、イクスの父、ブレット・アッシュベリー公爵だった。
「やあ、久しぶりだ、ベラ。変わらず天女の如し美貌だな」
「お褒め頂き光栄ですわ。アッシュベリー公爵」
カーテシーで優雅に挨拶するお母様の手を取ったアッシュベリー公爵が口づけを落とそうとしたところ、お父様が素早くその手を奪い去った。
「挨拶ならば口頭で済ませろ。触れることは一切許さん」
「相変わらずの狭量だなぁ、ユリシーズ。困った奴め」
一切取り合わないお父様に苦笑いを浮かべた公爵が、次に俺へと視線をずらした。
地球では女性から差し出されないかぎり、男性が自ら手を掬い上げ口づけることはご法度とされていたはずだが、こちらではマナーが違うんだよな、厄介なことに。
アッシュベリー公爵からの口づけを手の甲に受けながら、砂を吐きそうな表情をぐっと堪えた。お父様、救出が遅いです! お母様の時は電光石火の如しだったのに!
「一段と美しくなったね、レインリリー嬢。ますますお母上によく似てきた」
「ありがとうございます、アッシュベリー公爵閣下」
カリスタにみっちりしごかれたカーテシーにも慣れたもので、家の恥にならない程度には完璧に挨拶出来るようになった。俺の素行のせいで両親を悪く言われたくはないからな。令嬢然とした所作に俺個人がどう思っていようとも、世間体にそれは関係ない。腐っても令嬢。鳥肌くらい我慢できる。
「アレックスは噴水の近くにいるから、会ってやってくれないか? さっきまで他家のご令嬢に囲まれていたせいで、ものすごく不機嫌なんだ」
俺は思わず苦笑いした。見た目はいいからなぁ。あいつも苦労するな。
「レインリリー嬢の側ならあいつも機嫌直るんじゃないかと思ってな。頼めるかい?」
「はい。承知致しました」
お父様は渋っていたが、お母様に促されて今一度アッシュベリー公爵にカーテシーで挨拶をすると、俺は噴水へと歩いていった。途中やたらと視線を感じたが、恐らく両親を見て俺が百年ぶりの娘だと気づいたのだろう。子供にまでその情報は浸透しているようだ。このまま遠巻きに見ているだけで放っといてくれるとありがたいのだがなぁ。
突き刺さる視線に内心うんざりしながら歩いていると、ようやくイクスの姿を発見できた。
「イクス」
「……………リリー」
俺を認めて明らかにほっと肩の力を抜いたように表情が緩んだ。カリスタ直伝かと疑うほどの般若を背後に降臨させていた空気が、嘘だったかのように霧散している。
「公爵から聞いた。お疲れ」
「もう帰りたい」
「頑張れイクス。まだ宴は始まってもいないぞ。そう言えば、妹二人はどうした?」
「知らん。男漁りにでも行ったんじゃないか」
「男漁りって。まだ五歳なのに」
「馬鹿だな。爵位持ちの令嬢なんてものは大抵がそんなものだぞ」
「そうなのか?」
「お前が特殊なだけだ」
全くもってその通りなので反論のしようがない。俺に男漁りをやれと言われても困る。今から森へ魔物退治へ出掛けると言われた方がまだ心安いくらいには、男と恋仲になれという指示は拷問に近い。
「今日はずいぶんと気合いの入った格好をしているが」
「ああ、これはお母様と侍女たちの力作だな。俺にはさっぱり理解できない。この布はこんなに重ねる必要があるのか?」
「俺に聞くな」
「天女の如し、だそうだ。お前の父親にも言われた。似合うか?」
からかい半分にそう言って、その場でくるりと一回転して見せる。
「ああ、似合っている。見た目だけは確かに天女の如しだからな」
「中身まで伴って堪るか」
「ごもっとも」
可笑しくなって二人でふふふと笑っていると、唐突に周囲がざわっとざわついた。
なんだろうかと訝った時、イクスが俺の背後へ視線を滑らせ、あ、と小さく呟いた。
釣られて振り向いた先から、ゆるく波打つプラチナブロンドにスフェーンの瞳をした少年が蕩けるような笑みを浮かべてこちらへやって来た。
「初めまして、美しい方。僕はシリル・バンフィールド。この国の第一王子です。以後お見知り置きを」
は? 今なんて言った? この国の―――第一王子!?
瞠目する俺の手を取ると、片膝を地面につき、手の甲に唇が触れた。
「貴女の宝石のような瞳に留まれる、唯一の男になりたい」
続けて裏返された手のひらに口づけが落とされる。
ちょっと待て。カリスタの教育にこれも含まれていたよな。確か手の甲への口づけは挨拶で、手のひらへの口づけは、求愛―――。
気づいて、ぞわりと総毛立った。冗談じゃない!
王宮の庭園で、四方からざわめきが起こる。
五歳のお披露目に参加する令息令嬢たちだけでなく、その両親や王宮勤めの侍女たち、配属されている護衛騎士らも皆一様に、突然始まった一幕に釘付けになった。
「一目惚れしました。僕の妃になって欲しい」
さわさわと庭園を流れる風が木の葉を揺らす音がする。
むしろ誰一人として言葉を発することも、身動きすることもない空間で聴こえてくる音は葉擦れだけだ。
俺は期待に煌めく王子をしばし唖然と見下ろしていたが、ぷつんと何かが頭の中で切れたような音を聞いた。
公衆の面前で、第一王子だと名乗りながら今なんて言った? このような場では、臣下の娘に選択肢などないではないか。こいつの頭はボウフラでも湧いてやがるのか!?
断ることの出来ない状況に追い込んだ自覚はないのだろう。しかも断られるとは露ほども思っていないような期待に満ち溢れた顔をしている。
俺はお父様譲りのバミューダブルーの瞳を王子にひたと据え、銀糸の刺繍が施されたサッシュベルトに両手を添えると、苛立ちそのままにはっきりと宣言した。
「―――――――――断る!!」
「………え?」
断られるとは露程も思っていなかった王子はぽかんと呆けた。周囲も同様である。
お父様だけはよく言ったと言わんばかりの満面の笑みで頷いているが、それはやはりお父様だけであった。同席しているお母様でさえ「あらまあどうしましょう」と困惑を隠せない。
やれやれと呆れたように首を左右に振るイクスを背後に、俺は間抜け面を曝す王子に幾分か溜飲が下がった。
斯くして第一王子による公開プロポーズは、まさかの辞退されるという逆公開で幕を閉じたのだった。
ようやくプロローグ到達です。
大変お待たせ致しました!
次話はシリル目線から始まります。
なぜ一目惚れしてしまったのか、その辺りをちょっぴり掘り下げて、時間を少しだけ巻き戻します。
途中から時系列に沿ってリリー視点に戻ります。
シリルの受難を楽しんで頂けたら幸いです。