2.少しだけ状況がわかってきた
「まあまあまあまあ~! なんて可愛らしい子だこと!」
翌日、母親の両親だという夫妻が邸へやって来た。もちろん娘の出産祝いと労いのためであり、生まれたばかりの俺を見に訪ねてくれたわけだ。
俺を抱き上げた祖母は、まだ四十代の若さらしい。祖母だと称してしまうのが失礼だと言わざるを得ないほどの美魔女であるそうだ。
残念ながら俺の新しい目ではまだぼんやりしていてよく分からないが、昨日俺の尻をしこたま叩いた年嵩の女性、名をマリアというそうだが、彼女がこっそり教えてくれた。
生まれたての赤ん坊に話したところで理解できるわけがないと普通の人ならそう思うだろうが、マリアは俺が普通の赤ん坊ではないことを早々に見抜いていそうな気がする。
される説明が、子供に語りかける噛み砕いた口調じゃなかったのだ。
俺の反応を観察するように話しかけるマリアはただ者ではない気がしてならない。どこまで確信を持たせていいものか、現時点では判断に困るな。
しかし、そうか、深窓の姫君然としているらしい母の面差しは完全に祖母譲りなのだな。濡れたような烏羽色の艶やかな髪とヘリオトロープの瞳、容貌だけでなく色も瓜二つだそうだ。少女時代は相当にモテたであろう美貌なのだろうな。
まだまだ五感が未発達で、自力で掴める情報量の乏しいこと乏しいこと。うーん、赤子の肉体はなかなかに不便。
そんな祖母であるが、ただいま俺に絶賛夢中である。
可愛らしいわ、まあどうしましょう、などと感動の声をあげ、額や瞼、頬に大量のキスが降ってくる。
くどいようだが、中身はアラサー男だ。なのに、何か申し訳ない罪悪感のようなものが胸中を渦巻いているのはとりあえず無視しときます。
「アラベラ、あなた体調の方はよろしいの?」
「はい、お陰様で安産でしたから、順調に回復しておりますわ、お母様」
「そう、なら安心ね。出産における母体への負担は計り知れないもの。早々に母親孝行をしたのね。なんて優しい子なのかしら」
なんと、ここで新たな事実が発覚!
母の名前はベラでなくアラベラらしい。ということは、父が呼んでいたベラは愛称だったのか。ややこしいな。
「よく頑張りましたね。孫娘が持ててわたくしも嬉しいわ。足がついたらドレスをたくさん買いに行きましょうね、リリーちゃん」
おっふ………マジですか、おばあたま。
アラサー男にドレスを着ろと? それめちゃくちゃハードル高くないですか。
「オーレリア。そろそろ私にも抱かせてもらえないかな」
来るべき日を想像して遠い目をしていると、祖母の隣に立つ祖父とおぼしき男性が手をわきわきしながら催促してきた。
「あらごめんあそばせ。さあ、リリーちゃん、お爺ちゃまですわよ~」
ようやく抱けるとばかりに相好を崩した祖父が、慣れた手つきでひょいと軽々抱き上げた。
「やあ、私が君のお爺様だよ。初めまして、私の可愛いお姫様」
ありがたい。ありがたいけど、やめて。
ごめんなさい、お姫様はきつい。
「ふむ。瞳の色こそユリシーズ殿だが、リリーは君やベラにとてもよく似ているね。これは将来が楽しみだ」
「ねえ、メイナード。王妃様がご出産されたのは、確かベラより三月ほど前でしたわよね?」
「ああ、そうだと記憶しているが?」
「ふふ。じゃあもしかすると、わたくしたちの血筋から未来の王妃様が誕生するかもしれないわね」
「おいおい。気が早いぞ、オーレリア」
「あら、だって血筋や家格ならまったく問題ないじゃない」
「お母様。リリーは昨日生まれたばかりですよ」
母と祖父の呆れた声に、祖母は楽しげにころころと鈴を転がすように笑った。
「令嬢の婚約は生まれた時点で結ばれるのが貴族というもの。でしょう?」
「もう、お母様ったら」
そう口にするも、咎める気配はない。
それよりも、俺には気になる言葉が含まれていたことの方が重要だ。
祖母は『貴族』と言った。
貴族って、中世ヨーロッパとかの、あの貴族のことか?
優れた血統、絶大な支配権力、莫大な資産、戦争の功績などに基づいて構成される、最高級の社会階層、支配階級の、あの貴族?
国王がいて、支配階級の貴族がいて、司祭などの聖職者がいて、宗教による権力支配などもあったりする、のか?
いやいやまさか、と嫌な考えが頭を過った俺はごくりと喉を鳴らした。
待て。落ち着け俺、冷静になれ。
この世に生まれ直してまだ二日だ。得られた情報など片手で数えられる程度の微々たるものだ。正確に判断するには圧倒的に情報が不足している。
考えろ、思い出せ。
昨日生まれた瞬間から今この時までに、判断材料になりそうな聞き漏らした言葉はなかったか?
小さなことでもいい。何か取っ掛かりになりそうなものはなかったか。
『先触れの早馬を侯爵家に出しておいた。義父上や義母上も直来られることだろう。それまで君はゆっくり休むといい、ベラ』
「あううあ―――――っっっ!!!」
「む!? なんだ!? どうしたリリー!?」
突然前触れもなく奇声を発した俺に驚いた祖父がくまなく異常がないか確認してくるが、正直それどころではない。
言ってた! 昨日父親が早馬だとか侯爵家だとか決定的なこと言ってました!!
早馬って! スマホとか、仮に持ってなくてもパソコンでメール連絡とか! この際電報でもいいよ! 免許いるけど無線通信とか! えっ、ないの!?
これ現代じゃないじゃん! 一瞬で情報が拡散できるこのご時世で、今時早馬って!
情報は電波に乗るんじゃないの!? 人が馬に乗って運ぶの!? 嘘でしょ!?
まさか中世にタイムリープしたってことか!?
え!? 生まれ変わったのに、過去に時間跳躍してんの!? なんで!?
意味不明………!!!
苦悶を浮かべた顔でぐぬぬと赤子らしからぬ声を絞り出し、悶絶に耐える俺に祖父は大いに慌てた。
「リリー!? どうした、どこか苦しいのか!?」
「あらあら。落ち着いてメイナード。これはたぶんおしめかしらね~?」
そう言って祖母がくんくんと俺の尻を嗅ぐ。
やめて。俺にも羞恥心は備わっている。それに粗相はしていない! 断じて!
「あらやっぱり。ふふふ。踏ん張ってたのね~。きちんと出来て偉いわね、リリーちゃん」
叫んだ時に出ていた模様。
己の意思に反して生理現象は勝手に事を済ませてしまう。ままならぬ赤子の身が憎い。
せっせと祖母に後始末をしてもらいながら、俺は無心だった。
そう、無我の境地に至らなければ、俺の中のいろんなものが死んでしまう……!
「はい、綺麗になりましたよ~」
じっとしていてお利口さんね、と祖母が誉めてくれるが、俺の心の大事な部分がひび割れて重症なので、そっとしておいてください……。
赤ん坊ってつらい! もうやだ何この羞恥心試されてる感!
俺、中身は男なんです。心は若い男が排泄の世話をやかれるなんて、この恥辱、筆舌に尽くし難い。
一人激しく葛藤していることなど誰も気づかず、排泄的にすっきりした俺を囲んで和やかな雰囲気だ。
大事なことなのでもう一度言おう。
俺以外の家族は和やかな雰囲気なのだ。
会話が途切れた瞬間を見計らったかのように、扉が数度ノックされた。
許可を受けて入ってきたのは兄のユーインだ。
「いらっしゃい、ユーイン。お勉強は終わりましたか?」
「はい。次の授業まで数刻ほど猶予を下さるそうです」
兄はたたたと駆け寄ると、祖父母に挨拶をしてから俺を覗き込んだ。
「リリー、お兄様が会いに来たよ。寂しくなかった?」
兄よ、すまない。俺は羞恥と苦悶を繰り返していて、兄のことをすっかり忘れていた。
「だー」
「そっか。僕も寂しかったよ。しばらくは側に居られるから、安心してね」
謝罪は伝わらなかった。
しかし、兄は寂しかったのか。そうか。
可愛いなぁ、まったく。ものすごく癒されたぞ。ありがとう、ユーイン兄さん。
「ユーインはリリーちゃんが大好きなのね」
ふふふと笑う祖母に、兄は元気よく返事をした。
「はい、大好きです! 僕のたった一人の妹ですから!」
「ふふ、そうね、あなたの大切な妹ですものね」
「はい!」
はあ、兄が天使すぎて、ここがどこだとか時間跳躍とかもうどうでもいい気がしてきた。
いや良くはないが、ちょっと一息つけたな。
じりじりと焦ってもしかたない。すでにこの時代に生を受けたのだ。一つずつ理解して消化していくしかない。
うん、思いの外ずいぶんと混乱していたようだ。
平静さを見失っちゃいかんな。
惜しい!
真相に近づいたのに迂回しちゃったような感じ。
聴覚だけを頼りに頑張って考察してます。