20.『天』という存在
お父様、ユリシーズ視点です。
王宮から戻ったばかりの私は、神妙な面持ちで出迎えたエイベルの告げた内容に、我が耳を疑った。正直抱いた感想は、そんなことまで出来るのか、という驚愕の一点だけだった。
サロンで妻と息子が待っていると聞き、渦中の娘はどうしたのかと問えば、同じくサロンに居るという。
「ただ、お嬢様に直接お話をお聞きするのは難しいかもしれません」
「どういうことだ?」
「ずっと泣いておられるのです」
「ああ………」
なるほどな、と納得した。
賢く大人びている反面、時に酷く幼い行動を起こすリリーは繊細で不安定な子だ。肉体年齢と精神がちぐはぐで、その溝を埋めようとするように、精神が肉体の年齢に引きずられてしまっているように思える。
本来の、前世のままのあの子ならきっと、今回のような理由で泣きはしないだろう。そもそも問題を起こしてすらいないかもしれない。
大人だった前世の人格のまま、子供の精神へと少しずつ退行している……? いや、それだと説明できない部分も多いな。退行だと決めてかかるのは乱暴だ。
やたらと達観している部分も多い。時折見た目の年齢にそぐわない、どきりと核心を衝くような発言をされることもある。そんな時は、娘の幼い姿に重なって別の高位な存在を感じてしまう。生まれたばかりのあの子に感じた、神を前にしているかのような畏怖を。
天から授かったのだという創造魔法。あれは人の身で扱ってよい代物じゃない。あの子が不安定な理由も、その創造魔法が起因しているのは明らかだろう。幼い精神が混ざる今のリリーには過ぎた能力だ。感情の起伏に左右される力など、まだ幼いリリーには負担でしかない。
成熟した魂の器としては、あまりにも肉体が稚いのだ。それ故に、精神が肉体に合わせようと形を変え始めている。そんな気がしてならない。
乳飲み子だった頃に一度大泣きして以来、一度も癇癪を起こさず泣かなかった子が、今泣いているのだ。やってしまったことを自覚して、後悔して泣いている。我儘ひとつ言わない聞き分けの良い子が、傷ついて泣いている。私はそれが酷く憐れに思えて、また同時に愛しくも思えるのだ。
このままではリリーは我慢ばかり強いられ、傷を増やしていくだろう。普通に与えられるはずの自由を許されず、感情の揺れを許されず、行動と思考に縛りを受け、虜囚のように笑うこともなくただ一つの場所に囚われる。
感情も、行動も、関わる人間すらも制限された人生など、それは本当に生きていると言えるのか? いいや、言えるわけがない。
私はあの子に、屍のように生きろなどと言うつもりはない。リリーの能力と、環境と、生き方と、すべてに折り合いをつけられるよう、私の生涯を懸けて探していくつもりだ。あの子の心も人生も守ってやれるなら、私の生涯を懸ける甲斐があるというものだろう。
「サロンにはベレスフォード殿もおられるか?」
「はい。若様がそのようにと」
「そうか」
大まかな経緯は理解した。ユーインの采配は妥当と言える。よくやった。
リリーの側にはベラがついているだろう。リリーのことは一端彼女に預けたままで、ベレスフォード氏に事情を説明しなければならない。強制的にこちらへと巻き込んでしまう謝罪と、公爵家として下す厳命だ。彼ならば致し方無しと首を縦に振ってくれるだろうが―――問題は、やはりリリーだな。
「リリーはずっと泣いているだけか?」
「いいえ。時折何度もベレスフォード様に謝罪を口にされております。巻き込んでごめんなさいと、聞いている私達が胸を締め付けられるほどに悲痛なお顔をされて、ただただひたすらに」
「そうか……」
やはり、そうか。
私は思わず深い溜め息が漏れた。
「ユーインが何か言ったか?」
「はい……その、若様には珍しく、お嬢様を厳しく叱責なされたようで……」
「なるほどな」
リリーは兄であるユーインを心から慕っている。ユーインもまた、妹であるリリーを心から愛している。
そんな二人の、ある意味初めての兄妹喧嘩のようなものだろうか。少し違うな。単純な物の奪い合いによる兄妹喧嘩とは訳が違う。
今回のことが互いに根深く残らなければいいが………そんな懸念を抱きながら、私はサロンへ急いだ。
リリーに天が授けたという創造魔法。人の身で扱うべき物ではない、その畏怖なる力。
そんな物を赤子の身に宿し生まれたリリーは、その根幹となる魂は、本当に人と同じ存在であると言えるのだろうか。
天は、神の御業をただの人の手に委ねるだろうか。
リリー自身でさえ知らない宿命を、あの子は背負って生まれてしまったのではないか―――そんな漠然とした不安を、私は無理やり飲み込んだ。
◇◇◇
「ベレスフォード殿、お待たせして申し訳ない」
「いいえ。とんでもないことでございます」
サロンには主要な顔ぶれが揃っていた。
妻と息子、妻に抱かれた娘と、ベレスフォード氏、マリアやカリスタを始めとした使用人数名が待機していた。
エイベルの報告通りずっと泣いているのだろう。ベラの胸に抱かれながら、リリーは鼻の頭を赤くしてしゃくり上げている。
常ならば側に寄り添って頭を撫でているはずのユーインは、一人掛けのソファーに腰掛け、神妙な面持ちでこちらを見ている。
「ご、ごめんなさい、お父様、ごめんなさい、ベレスフォード先生」
「お嬢様………」
もう何度も繰り返したやり取りなのだろう。ベレスフォード氏はどうしたものかと困惑した表情を浮かべている。初めは取り成していただろうが、リリーはどう宥めようとも謝罪を止めなかったに違いない。
リリーは許しを求めてはいない。ただただ懺悔を繰り返し、己の罪をその小さな身体に刻み込もうとしている。
自身の断罪は際限がないのだ。己を許すことがない故に、どこまでも自身を傷つけていく。
だから人には罰が必要なのだろう。罪の意識がない者に対してだけでなく、自分をどこまでも煉獄の炎で焼き続けてしまえる者への、救済となる罰が。
そこではたと気づいた。
息子らしからぬ妹に対する厳しい姿勢。まさか、そこまで先読みしての言動だったのか?
瞠目する私の視線を受けて、息子がちらりとリリーを示した直後に小さく首肯した。
恐ろしく賢い子だ。もしかすると私以上にリリーをよく理解しているかもしれない。
そう思った瞬間、不甲斐なくも私は心底ほっとしていた。私に何か起きたとしても、リリーを守り通す盾となれる者が側にいるのだ。これほど心強く、酷く安堵できたことはない。
「リリー。お前の気持ちは理解した。しばらく待っていられるか?」
「はい……………」
ぽろぽろと零れ落ちる大粒の涙は真珠のようで、その煌めきはひどく美しいものだった。たった四つの稚い姿はすでに天女のようだと使用人たちは口々に言っているそうだが、なるほど確かに、言い得て妙だ。
天から授かった能力もある。リリー自身が天からの授かりものであるなら、その身と魂は天女であると言えるだろう。
「ベレスフォード殿。この度は巻き込んでしまい、本当に申し訳ない」
「公爵、お止めください。私のような者に貴方様が頭を下げるなどあってはならぬことです」
「いや、ここはまず謝罪させてほしい。これから話す内容は、ベレスフォード殿にとって決して良い話ではないのだ」
「……………お聞き致しましょう。私も現状をまったく把握できておりません。正直、お嬢様がこれほどまでに苦しんでおられる理由に、恥ずかしながら思い至れないのです」
当然だろう。思い至っても精々『抜きん出た剣の才覚を持った天才児の公爵令嬢』程度だ。
「少し長くなる。荒唐無稽な話に聞こえるだろうが、すべて真実だ。まずそれを念頭に置き、聞いてほしい。そして、それを聞き終えれば他言しないと魔法誓約を結んで頂く。これは相談ではなく、命令だ」
迷う素振りすら見せず是とするベレスフォード氏に、私は内心舌を巻いた。
魔法誓約とは、誓いを破った者へ死を招く恐ろしい魔法だ。闇属性魔法陣の透かし絵が施された紙に、署名と血を落として誓約する。
それを一切の迷いなく承諾するとは。相変わらず豪胆無比な方だ。
私はリリーに関する秘匿事項をすべて語った。
前世の記憶を持っており、この世界には存在しない高度な知識と知恵を持っていること。
天より授かった神の御業たる創造魔法が扱えること。
未熟ゆえに今回のような結果を招くこともあること。
今現在、制御は出来ていないこと。
全てを聞いて、然しものベレスフォード氏も絶句していた。想像を超えていたのだろう。私も初めて聞かされたとき、恐らく同じような顔をして固まっていたに違いない。
「何とも……信じ難いことではありますが……いや、そうであるならば、あの時のお嬢様の、突然上がった身体能力にも合点がいきますな。しかし、前世の記憶と知識ですか。ではお嬢様がお見せ下さった剣筋は、その前世のものですか? あれは興味深かった。是非とも今一度お手合わせ願いたいものですな」
まさに豪胆。本当に動じない男だな。
その後の魔法誓約も、ベレスフォード氏は何の気負いなくあっさり結んでしまった。
「これで私も禁秘共有者というわけですな」
「本当にごめんなさい、ベレスフォード先生……」
「お嬢様。何度も申し上げました。お気になさらないようにと。決してお嬢様が悪いのではありません」
「先生。リリーを甘やかすのはやめてください。今回はリリーの失態です。巻き込む必要のなかった貴方を無自覚にも巻き込んだ。きちんとその罪を理解させるべきです」
ベレスフォード氏にかぶるように、ユーインが厳しい声音でリリーを断罪した。
「いや、しかしですな、若様。事情を知らぬとは言え、お嬢様を焚き付けたのは私なのです。お嬢様お一人にその責任を問うのは些か理不尽に過ぎましょう」
「いいえ。リリーは自覚していなければならなかった。自分の行動の結果を、きちんと考慮すべきでした」
「それこそ理不尽と言えましょう。お嬢様はまだ稚くておられる」
「リリーにそんな甘えは許されません」
「ユーイン」
それまで黙って事の成り行きを見守っていた妻が、語尾を強めて息子を諌めた。
「リリーはまだ四歳なのです。求める条件が厳しすぎるわ」
「母上。リリーはきちんと理解しておりますよ」
「ええ。そうでしょうね。リリーは賢い子ですから、己の罪も理解しているでしょう。だからこんなにも傷ついているのだわ。それでもね、ユーイン。リリーはまだ四歳なの」
「四つであろうと自覚せねばなりません。リリーの魔法は無自覚のままでは危険すぎる。夢中になるあまり無意識に発動させてしまうなど、言語道断です。次に引き起こすものが誰かを犠牲にするものかもしれないのですよ。そうなれば誰が一番傷つくのですか? リリー自身でしょう?」
「そうね。あなたの言う通りだとわたくしも思います。けれど、ではあなたはリリーがどうであれば納得するのですか? 心を殺し、閉じ込めれば安心ですか?」
「極論です」
ユーインの顔が歪む。
私もそう思う。ベラの言い分も最もだが、解釈が極端過ぎる。
「ええ。極論です。ですが、あなたの言っていることはそれに近い」
「母上!」
「よくお聞きなさい、ユーイン。リリーはよく理解している。自身の罪を理解している。わたくしも同意しますわ。罪の意識を持たない者がこんなに震えるものかしら?」
ベラに身を預けながら、リリーが蒼白なまま小刻みに震えていた。
黄色い薔薇を無限に生み出したあの時より、その怯えは顕著だった。
「子供は皆、大小様々な失敗を繰り返して大人になるのです。取り返しがつかない大失態を犯すこともあるでしょう。けれどそれは経験としてその身に刻み、成長の糧とすべきこと。世の子供達がそうして成長していく過程を、リリーだけには制限を設けて奪うのですか?」
「そういう意味ではありません」
「そこまでだ、二人とも」
私は言い争う妻と息子を制し、ユーインの頭を少し乱暴に撫でた。
「もういい、ユーイン。わざわざお前が嫌われ役を演じずとも良い」
「父上………」
「ベラも。二人に飴と鞭の役目を負わせて悪かった。本来ならば私の役目だ」
「あなた………」
「さて、リリー」
私は怯えた目を向けてくる娘を抱き上げた。
「賢いお前のことだ。ユーインとベラが言い争っていた概要と要点は分かっているだろう?」
リリーが桃の唇をきゅっと噛んだ。
こくりと頷く娘の、噛んだ唇に指を這わせる。
「噛んではいけない。裂けてしまう」
瑞々しい唇を噛み切られ、血でも出されては堪らない。意を受けて、リリーは唇に立てていた歯を離した。
「いい子だ。ではリリー。二人の言わんとする要点は何だ?」
「……………わたくしが無自覚でいた罪と、その結果招いた罰」
「うん、それで?」
「感情の抑制が利かないことが原因。けれど、成長過程の上では必要なこと」
「そうだな。それから?」
「……………創造魔法が何たるかを、わたくし自身が突き詰めて考察しなければならない」
「それは私がお前に制限をかけていた。その点はお前の罪ではないよ」
鈴を震わすような澄んだ声で、リリーが次々と列挙していく。
しかし、急に言葉が途切れた。
「リリー? どうした?」
しばし苦慮しているような逡巡を見せたが、リリーは心を決めたのか、私と同じ瞳をじっと据えてきた。
「創造魔法が何たるかを、考察、します」
「うん?」
どういう意味だ? 先程と同じ台詞だが、そこに込められた意味が違うのだということだけは分かった。
―――――なんだ? 何を決意している?
「返事はないかもしれない。けど、聞いてみます……………神様に」
予想していなかった言葉に、その場にいた誰も彼もが呼吸を忘れた。
ベレスフォード氏は、脳筋だった。