19.罪と罰
本日は、生憎と早朝から雨が降っていた。
アバークロンビーのお婆様の暴走から数日立つが、あれから二度目の外出は出来ていない。
街のあれやこれやに興味を惹かれたのに、まったくと言っていいほど探索できなかった。実に不満の残る初お出掛けに終わったと言えよう。
ざあざあと窓を叩く横殴りの雨を眺めながら、俺はどんよりとした空模様と同じ晴れない気分を引きずっていた。
今日は庭園で読書が出来ないなぁ。ぼんやりとそんなことを思いながら、礼儀作法や教養の授業を熟してゆく。
最近増えた授業で、ダンスなるものがある。今世の性別が女性であることから当然覚えるのは女性パートだが、本心を言っていいなら是非とも男性パートも覚えたい。
令嬢たる者、な毎日に窮屈さを感じているのだ。たまには趣向を変えて、前世の人格のまま男として振る舞えたらどれほどの解放感か!
「はあ………俺も相当疲れてんだな………」
つい漏れた呟きに、はっと顔を上げる。
カリスタの背後に般若の姿が見えるのは、決して幻覚ではないと思う。
しまった。久々にやらかした。
「お嬢様? 今なんと仰いましたか?」
「な、何でもなくってよ?」
「お嬢様。いつ何時どこでどのような不測の事態が起きるか分からないのです。常日頃からそのような口調は改めて下さいと、私は何度お願い致しましたか?」
「はい、ごめんなさい」
「咄嗟に口に出してしまっては遅いのです。油断などなさらないように」
「はぁい………」
「返事は短く」
「はい!」
もうヤダこの筆頭専属侍女! ほんのちょっと気を緩めただけで般若降臨とか、恐ろしいわ!
午後からのダンスレッスンまで自由時間が与えられているので、気晴らしにお兄様をイレブンジスティーにお誘いしよう。
天使なお兄様、俺を構って~! そして癒しをブリーズ!
「カリスタ、お兄様は今なんの授業をされているかしら?」
「只今ですと、習練場で剣術の稽古をされている頃かと」
「剣術!?」
お兄様、まだ九歳なのにもう剣術習ってるの!? それともこの世界ではこれが常識なの!?
「見学してもお邪魔にならないかしら?」
「問題ございません。頃合いを見計らってイレブンジスティーにお誘い致しますか?」
「さすがカリスタ! 分かってるじゃない」
黙礼を返すカリスタだが、口元だけはしたり顔を隠せていない。こういう所はまだまだ母親であるマリアに敵わないよな。若いというか、お堅い印象が鳴りを潜めてしまう。俺の浩介の部分が愛でてしまうほどには可愛いのだ。
にんまりしていると、露の間見せていた油断が引っ込んでしまった。ちぇっ、残念。
「ではお嬢様、参りましょう」
イレブンジスティーの準備をブレンダとケイシーに采配し終えると、カリスタが扉を開けてくれた。
さて、お兄様の勇姿を拝みに参りますか!
◇◇◇
習練場にはお兄様と剣術の教師と、お兄様の専属使用人が数人いた。
教師相手に剣を振るうお兄様は、こっそり訪れた俺に気づいていない。お兄様の使用人たちが俺に一礼したが、黙っているようにと唇に人差し指を立ててみせる。
真剣な面持ちで鍛練しているのだ。邪魔はしちゃいけない。
しかし、実戦さながらの稽古をするんだな。木刀とはいえ、かなりの速度で打ち合っている。当たれば軽傷では済まないぞ。
魔法と剣術と座学と、貴族子息は大変だな。
食い入るように見学している間に打ち合いは終了したようだ。もっと見ていたかったな。残念だ。
一礼と感謝の言葉を述べて、お兄様がようやく俺に気づいた。
「リリー。来ていたのかい?」
ふんわりと柔らかい笑みを浮かべるお兄様は、額に玉の汗を浮かべ肩で息をしていた。
「お疲れ様です、お兄様。お怪我などはされてはおりませんか?」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
使用人から手渡されたタオルで汗を拭う。
汗に濡れてもお兄様の尊さは翳りませんね。不動の天使です。眼福、眼福。
心の中で拝んでいるなど露程も知らず、お兄様は笑顔を向けてきた。
「リリーと習練場で会ったのは初めてだね。僕に用かな?」
「はい。お時間に余裕がございましたら、イレブンジスティーにお誘いしようかと思いまして。如何でしょうか?」
「もちろん受けるよ。当然じゃないか」
「まあ、嬉しいです」
ふふふ、といつものように微笑み合っていると、使用人たちが微笑ましげに眺めた。
我が公爵家には、お兄様と寄り添っている姿を愛でる使用人が多い。皆が天使が戯れていると誉めそやすのだが、俺も激しく同意する。お兄様は本当に天使のようだ。何をやっていても目の保養になるなんて、これはもう本物の天使なんじゃないですかね?
だがそこに俺を括ってはいかんぞ。確かにお母様に似て見た目は恵まれた容貌をしているとは思うが、中身が透けて見えているだろう? 前世の死亡した年齢を加算すると、中身は実質三十一のおっさんだぜ? どうだ、引いただろう?
「お初にお目にかかります、お嬢様」
閑話休題。
そんなどうでもいいことをつらつらと考えていた俺は、はたと瞬いて声の主を見上げた。先程お兄様に稽古をつけていた教師だ。
白髪の混ざり始めた彼は、祖父母より少し年上に見える。笑うと目尻のしわが深くなった。
「若様の剣術の師を任されております、カイト・ベレスフォードと申します。以前は軍に所属しておりました。以後お見知り置き下さい」
なんと。国軍所属の元軍人さんでしたか!
お父様、また凄そうな方に師事しましたね。お兄様の剣の腕が同世代で平均値なのか上回っているのか、物凄く気になります。
俺はドレスを少し摘まんで顎を引き、優雅さを心掛けつつカーテシーで挨拶を返した。
「申し遅れました。ユリシーズ・グレンヴィル公爵が長女、レインリリー・グレンヴィルと申します。兄ユーインがいつもお世話になっております」
「これはご丁寧に。痛み入ります」
ちらりとカリスタを覗き見ると、満足げに小さく頷いていた。どうやら及第点を貰えるらしい。ふう、良かった。
「お嬢様は剣術にご興味はおありで?」
「先生。妹に余計なことは教えないでくださいよ」
ベレスフォード氏の魅力的な問いに目を輝かせた俺を見咎めて、お兄様が先手を打ってきた。
ちっ、無駄に目敏いな。だが押し通る!
「はい! 興味津々です!」
「リリー!」
結局怒られた。物凄い眼光を放ってくる人物がもう一名いるが、そちらは見ない。絶対見ない!
「では、少しだけ打ち合ってみますか?」
「先生!」
「少しだけです。何も若様のように打ち合うわけではありませんよ」
「それでも許可できません! リリーの雪のように白い肌に傷でもついたらどうするつもりですか!」
そんな大袈裟な。
「大袈裟じゃないぞ、リリー!」
おっと。心の声が漏れてた?
おかしいな。念話は一年ほど使っていないから、心の声がうっかり伝わるなんてことはないはずなんだけどな。
しかしここで遠慮する気はない。チャンバラなんて、少年心をくすぐるじゃあないか! 肉体的にも精神的にも少年ではないけどね!
「こんな細腕では、どうせ木刀すらまともに握れませんわ。ご心配なさらず。少しだけ素振りをするくらいです」
渋るお兄様を無理やり説き伏せて、俺はベレスフォード氏と習練場の中央へ移動した。
「リリー! 一度きりだぞ! これ以上は看過しない!」
はいはい、わかっておりますよ、お兄様。
俺は手にした木刀をくるりと回した。
ふむ。子供用とはいえ、やはり重いな。
前世の浩介は、学生時代剣道をやっていた。その記憶と経験は俺に残っている。実戦的な剣術と剣道では畑が違うが、多少のポテンシャルは秘めているだろう。
しかしこの身体だからな。四歳児の、しかも女の子の肉体だ。浩介の感覚で踏み込むと怪我の元か。別に俺としては多少の怪我は織り込み済みだが、擦り傷でも作ろうものならお兄様だけでなくお父様も大騒ぎをしそうなので、安全第一を前提条件に設定しておきましょう。
「私はここから動きませんので、いつでも打ち込んで来ていいですよ」
おや、そうなの? では遠慮なく。
俺は剣先を臍眼に構えた。身長差があるから、正眼に構えるとどうしてもベレスフォード氏の臍の位置に剣先が向いてしまう。本来なら喉元に定めたいところだが、こればかりはどうしようもない。
「ほう………随分と様になっておられますな。お父上にご指南を?」
「いいえ。木刀を手にしたこともございません」
今世では、と続くが、それをベレスフォード氏が知る必要はないからな。
「―――――参ります」
前世の記憶のまま、俺はベレスフォード氏の間合いに飛び込んだ。右足を踏み出し、胴を狙う。あっさり読まれ、木刀で防がれてしまうのは織り込み済みだ。本物の軍人にスポーツ剣道で敵うわけがない。しかも四歳女児の踏み込みだ。これを防げない軍人などいるわけがない。
弾かれた勢いを利用して一度間合いを取ると、再び踏み込んで面を狙う。これもあっさり防がれた。次いで小手を狙うも、弾かれ防がれてしまう。再び面、胴と連続的に振り下ろすが、すべて簡単に防御された。
ああ、くそ、楽しいなぁ……!
まったく歯が立たないのに、ベレスフォード氏の技量に心が踊る。
一撃だけでいい。決まったら最高だろうな。
剣劇だと言うなら、振り上げても構わないか? 構わないよなあ!?
俺は踏み込んだ右足を軸に踏ん張り、逆袈裟懸けに木刀を振り上げた。ベレスフォード氏の木刀を弾き、彼が瞠目したのを愉快な思いで見上げる。
口角が上がっているのが自分でもわかる。楽しくて愉しくて堪らない。
もっと! もっとだ!!
「リリー!!!」
空間を裂くような、唐突に響いた呼声にはっとした。
俺の握る木刀は、ベレスフォード氏の喉元目掛けて突き立てようとしていた。仰天に目を見開くベレスフォード氏が眼前にいる。
「あ……………」
俺を止めたのはお兄様だった。険しい目をしてこちらへ歩いてくる。
「お、お兄、様」
「リリー。何を考えていた?」
「あ、の」
「何を考えていた」
レインリリーの肉体で国軍出身のベレスフォード氏に肉薄するなどあり得ない。それが一瞬でも可能だったのは、俺が無意識に創造魔法で自身の肉体に某かの補助を掛けたからだろう。
ようやくそこに行き着いて、俺は蒼白になった。
「この事は父上に報告する。事が事だ。先生にも飲み込んでもらわなければならない。分かるかい? 君が巻き込んだんだ」
「あ………わた、くし、が」
「魔法で誓約を結んでもらうことになる。ここにいる使用人たちのようにね」
俺はその時初めて、俺に近しい使用人たちが危険を受け入れ魔法誓約を結んでいたことを知った。
公爵家の秘密を知るということに、何のリスクもないはずがないのに。そんな簡単なことさえ気づかなかった。
「君はもっと慎重にならなければならない。誰かを犠牲にしなくて済むように、そのことで君自身が傷つかないように」
俺の心を写し取ったように、朝から降り止まない雨は、その勢いを一層強め習練場の丸屋根を叩いた。
「リリー。このままでは君のためにならない」
お兄様の言葉が、重く、重く沈んでいった。
無自覚でいることの罪。
無自覚が招いた罰。
浩介の感覚のままではいけないのだと、その本当の意味がようやく自覚できた、そんなお話。
お兄様は天使なだけじゃない。