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1.転生、そして初めまして?

 



『―――――んせい………せん……せ…い』


 薄れゆく意識の端で耳にした声は、涙でひび割れていた。


 ―――先生は大丈夫だ、君は怪我してないか?


 そう口に出来たかどうか分からない。

 あの子が何と答えたかも分からない。


 刺された腹部は燃えるように熱いのに、身体は逆に冷えていく。

 零れ落ちていくものが命なのだと悟ったとき、ああ、これは本気でヤバイなと思った。


 生命保険掛けときゃ良かったなぁ。

 大学まで出してくれた両親に恩返しらしいこと一つも出来ずに俺はここで死ぬのか……。


 年に一度の贅沢にと買い求めた高級生ハム『イベリコ・パタネグラ』を注文したばかりなのに、それを食う前に俺は死ぬのか?

 六千円もしたんだぞ? 冗談だろ、おい。

 せめて一口! 一口でいいからちょっと待ってくんねぇかな!


 ああ! そういやクーラーの修理って明日じゃなかったか!?

 やべぇ! 死にかけてる場合じゃねえぞ俺!


 ああ、洗濯物も取り込んでない……。


 意識が朦朧としているのに、そんなどうでもいいことばかりが頭を過っていく。



 無関係な俺が刺されるという理不尽な事件が起きたのは、同じ塾で講師をしている同僚の男が、塾生の母親と不誠実な関係を持ったことが発端だ。


 以前より問題視されており、幾度と注意を受けていたが不倫関係が精算されることはなかった。

 塾の信用問題にも繋がると、同僚の解雇も視野に入れ始めた頃に、それは起きた。


 校内にはまだ複数の塾生たちが残っていた。

 親の迎えを待つ者、集団で固まって帰路につく者、様々だ。


 そこへ、同僚の講師と件の浮気相手である塾生の母親が人目も憚らず親密げに寄り添っていたところへ、本妻のご登場だ。

 不貞を疑っていた妻が、果物ナイフを握りしめて塾へ殴り込みにやって来たのだ。


 何で、どうしてよ、と喚きながら、血走った目で夫とその浮気相手を睨み付け、果物ナイフを力任せに振り回し始めた。


 俺や他の講師らはいの一番に塾生たちを外へ逃がすことに心血を注いだ。関係ない子供達に危害が及ぶことだけは避けねばならない。


 そもそも痴情のもつれなどという大人の醜い不適切な行為を、学生の目がある塾に持ち込むなんて頭にボウフラでも湧いてるんじゃないか。


 殺し合いなら人様の迷惑にならない場所でひっそりとやれ。

 どのような結果に行き着こうとも自己責任だ。むしろ共倒れして社会的に消されればいいのに。


 悪態を心中でつくのは当然と言えよう。痴情のもつれなどよそでやれ。いい迷惑だ。


 あらかた塾生たちを外へ避難させ終えた頃、浮気相手を庇った同僚が妻に切られた。切れたのは二の腕のようだが、遠目からも深手ではないように見受けられる。

 自業自得だと冷めた気持ちになったのは当然だろう。


 いい加減にしろと、別の講師が叫んだ。

 妻の耳には届いていないのか、本気で殺すまで止まらない勢いだった。

 警察を呼べ! と他の講師が怒鳴る。


 妻の振り回すナイフが、茫然と青冷め立ち尽くす女子生徒に向けられた。


 危ない! そう思った時には突発的に飛び出していた。

 立ちはだかるように、向けられたナイフの前に躍り出た俺の腹部に、焼けるような強烈な痛みが走った。


「―――――……っ」


 刺されたのだと理解する。

 同僚の妻は俺を刺したことで我に返ったのか、反射的にナイフを引き抜き、血濡れのナイフを床に棄てた。


「あ、あ……っ」


 その場にへたり込んだ同僚の妻は、ごめんなさい、ごめんなさいと俺に滂沱の涙と共に懺悔する。

 大丈夫ですよ、気をしっかり持って、などと言ってやる気はない。それだけのことを仕出かしているのだから。


 何より意識が混濁してきて、まともな思考力を保てていないことも理解していた。


 くずおれる身体を踏ん張ることもできず、流れ出る血と共に命が零れ落ちていく様がよくわかった。


「せん、せい」


 霞んできた視界で、緩慢に呼ばれた方を見る。


「先生……っ」


 ああ、この子は、同僚講師と不倫関係にある女性の娘さん、だな。

 そうか、茫然自失していた女子生徒は、件の娘さんか。


 一番の被害者だよな、この子。可哀想に。


 俺は緩慢な動作で大丈夫と、彼女の頭を撫でてやった。

 君のせいじゃないから、気に病むな。


 上手く話せているか自信ない。そもそも俺は声に出して伝えられたか?



 不倫の末に職場を修羅場と化した同僚には本気で呪いの言葉を吐いてやりたい。

 お前のせいで色々と台無しだ。


 くそっ、意識が……

 遠退いて、い、く……………。










「―――――!?」


 なんだ!? 息苦しい!

 誰だぎゅうぎゅうに締め付けてきやがるのは!

 腹刺されてる人間になんて仕打ちをしやがる! 俺は怪我人だぞ!

 痛いし狭いし息苦しいし!


 空気! 俺に新鮮な空気をください!

 だーれーか―――――っっっ





「―――――――――おめでとうございます! お嬢様でございます!」


 眩しい強力な光に思わず瞼をぎゅっと閉じた。新鮮な空気が肺を満たし、俺はようやく安堵の息を吐く。

 あー死ぬかと思った。




 ………ん?

 ちょっと待て。今なんつった?


「おめでとうございます、奥様。御髪は奥様と同じく麗しい漆黒。目は――――まあ、なんと愛らしい! 旦那様のバミューダブルーをお引きになりましたのね。玉のような(かんばせ)のお嬢様でございますよ」


 俺を抱き上げた年嵩の女性とおぼしき人物が嬉々と語る。


 何を言っている。俺は立派な成人男性だぞ。小鳥遊(たかなし)家の次男坊だ。そりゃちょっとは「浩介くんは女の子にモテるわね~」などと誉めそやされたりもしたが、「女装したら似合いそうね」などと言われた記憶はない。

 それをお嬢様だなんて、何の冗談だ。

 まったく、怪我人を運ぶならふざけていないで迅速に処置室へ運び込んでください! あっ、腹には触らないで! 俺刺されてるから!

 えっ? ちょっと? 湯槽に沈めるとはどういうことだ!?

 俺刺されてるって言ったのに! まずは止血してください!

 あの女めっ、何でナイフ抜きやがった! 刺したのならそのままにしとけよ! 抜くからなおさら出血酷くなったんだぞ!


 そこまで考えて、はたと気づく。

 あれ? この女性、俺を運んだよね?

 えっ? 一人? 一人で運んだよね、いま!? 俺平均的な成人男性の体格と体重なんだけど!? 軽々と抱き上げてたよね? 地味に傷つく……!


「ん~……普通に呼吸出来ているから問題ないとは思うけど……全然泣かないわね」


 泣きませんよ? 腹刺されて泣く二十七の男ってどんなんよ。


「一応叩いておきましょうか。やっぱり産声をあげてこそ誕生の醍醐味ですからね」


 ちょっとなに言ってるのこの人。叩くとか、怪我人相手に猟奇的な発言は止めていただきたい。


「さあ、お泣きください、お嬢様」


 渋い顔をしていると、突然逆さに吊るされ、尻をぱしんとしこたま叩かれた。


 痛って―――――っっ!!!


 何しやがる! と怒鳴ったつもりだったが、己の口から飛び出した声は言葉として成り立たず、おぎゃーと泣き叫んだのだった。


「ああ良かった。やっぱりこうじゃなきゃ」









 ◇◇◇


 整理しよう。

 どうやら俺はあのまま死んだようだ。やり残したこと、家族のこと、後悔を思えば切りがない。


 泣きたくなったが、とりあえず今は状況把握を優先させよう。感傷的になるのはそれからでも遅くはない。まずは新しい体の具合を知ろうと思う。


 俺は赤ん坊、らしい。()()()というのは、姿見で現状の己の姿を確認出来ていないこともあるが、視界が近視を患っているかの如く終始ぼやけて不鮮明なこともあり、あまり視野による状況確認がうまくいっていないこと、そして情報を得ようと訊ねようにも俺の口は言葉を発することが出来ないでいる。

「あー」や「うー」など、どう解釈に努めようとも行き着く場所は同じ。赤ん坊以外の何者でもない。


 次に手足を動かしてみた。

 まあ……うん、言わずもがな、だ。

 赤ん坊が一生懸命手足をばたつかせているだけにしかならない。

 まあ、うふふ、お嬢様はあんよがお早いかもしれませんわね、などと場を和ませただけだった。


 そんな俺の内なる葛藤など伝わるはずもなく、産湯を済ませた身体に肌触りの良い産着を着せられ、温かくふくよかな胸に預けられた。

 甘い香りが鼻腔をくすぐり、抱き寄せる華奢な腕に無意識にほっとした。


「ああ………わたくしの娘……なんていとおしい」


 鈴のように清らかな声が耳朶を打つ。

 声の様子や肌の滑らかさから察するに、今世の母親は恐らく二十代前半。生まれ変わる前の俺より若いことになるぞ。

 外見は赤ん坊だが中身はアラサーの男だ。年下の若い女性の胸に抱かれるなんて、何の拷問だろうか。羞恥を覚えるのも無理からぬ話だと思いたい。

 俺、いい歳した男なのに……。

 あ、いや、違った。中身はどうあれ新生児のご令嬢だったな。うん、慣れんわ。慣れてたまるか。

 そのうち俺もおほほとか言って高笑いしたりするのかな。

 いや、無理だな。どう考えても俺は男でアラサーだ。想像するだけで三回は砂を吐ける。


「あらあら。この子ったら眉間にしわなんか寄せちゃってるわ」

「お泣きにもなりませんし、ずいぶんと大人しくていらっしゃいますわね。奥様、ユーイン坊っちゃまの時よりゆったりと子育て出来ますわよ、きっと」

「ええ。きっとそうね」


 むむむと悩んでいると、そんな会話が頭上で繰り広げられていた。


 うん? ユーインとな?

 それは兄弟ということでいいのか?

 と言うかユーイン? 日本人の名前じゃないよな。俺は外国に生まれ直したのか?

 そう言えば俺の目の色が父親と同じバミューダブルーだとか言っていたような……?

 しかもお嬢様とか言われているし、もしかしなくても財閥のご令嬢!? うっそ、俺いいとこのお嬢さん!?


 マ~ジか~などと乾いた笑い声をあげたつもりだったが、喉を振るわせたのはひきつけを起こしたような、潰れたカエルのような下品な声だった。


「あらヤダひきつけ!?」


 慌てて母親が背中をそっと叩く。

 母君よ、俺は大丈夫だからもう叩かないで。とんとんと規則的に叩かれてしまえば赤子特有の眠気に襲われてしまう。

 俺いろいろ整理したり考えたりしなきゃならないんで、寝かしつけようとしないでください。


 そんな攻防戦が密かに水面下で繰り広げられていたちょうどその時、ばん!と扉が勢いよく開かれた。


「ベラ!! 無事か!?」


 喧しい! そう叫んだ俺は間違ってはいないと思う。

 実際に口から出たのはそんな明確な抗議内容などでは当然なく、不機嫌な唸り声だったのだけども。


「お帰りなさい、ユリシーズ。わたくしも娘も無事だから安心して」

「おお、おお、そうか、この子が」

「ユーイン、あなたもこちらにいらっしゃい」


 千客万来。恐らく喧しいのが父親で、ユーインと呼ばれた子供が兄に当たるのだろう。坊っちゃまって言ってたし。


 父親が壊れ物でも触れるように丁寧に慎重に抱き上げ、感嘆のため息をこぼした。


「君によく似ている。天使のようではないか。これは将来国を傾けるほどの美女になるぞ。言い寄る有象無象など片っ端から握り潰していかないといけないな」

「まあ、貴方ったら。ずいぶんと気の早い」

「対策は早いに越したことはないさ。愛娘のためだ。私は心血を注いで守ってみせる」


 新生児相手に殺伐とした未来を語るのは止めていただきたい。

 ユリシーズと呼ばれた父親はひとしきり決意表明をし終えると、ベラと呼んだ母親に感謝と労いの言葉を贈る。


「ベラ。出産ご苦労様。大変だっただろう。ゆっくり休んでくれ。愛娘を産んでくれて本当にありがとう」


 愛している、と頬に口づける。微笑む母と一緒に、未だ近づけずにいる上の息子を見た。


「ユーイン、おいで。お前の妹だ」


 恐る恐る、ようやくユーインと呼ばれた兄が近づいてくる。


「妹……?」

「ああそうだ。お前のたった一人の妹だ」

「ユーインはお兄様になったのよ」

「僕、お兄様?」

「ええ。大切に守ってくれる?」

「うん……僕、お兄様だから悪いやつから守る」


 まあ、と母が嬉しそうに笑う。

 兄が指先で物珍しげに手をつつくものだから、反射的に掴んでしまった。驚く兄に両親が優しくね、と促す。

 ごめんよ、幼い兄。赤ん坊は本能的に差し出されたものを掴む習性があるのだよ。

 そう言えば妹が生まれた時も、俺も同じようにつついて指を捕まれた記憶がある。


「この子に名前はないのですか?」

「そうね、わたくしも知りたいわ。考えてくれているのでしょう、リズ?」

「もちろん考えてある。この子の名前は、レインリリーだ」

「レイン、リリー?」

「まあ、綺麗な響きね。白い可憐な花の名前ね。素敵だわ」


 リリー、と母が俺の新しい名を呼ぶ。略して呼ぶのは、所謂愛称というやつだろうか。


「リリー……。リリー、僕は君のお兄様だよ。ずっとずっと、僕がリリーを守るからね。約束だ」


 掴んだままの指をそっと上下に揺らされた。

 指切りのつもりだろうか。幼い兄が可愛すぎる。


「先触れの早馬を侯爵家に出しておいた。義父上や義母上も直来られることだろう。それまで君はゆっくり休むといい、ベラ」

「ええ、そうさせて頂きますね。リリー、さあお母様のところへおいで。おっぱい飲んだら眠りましょうね」


 父親の腕から母親の胸へと返された俺は、さあ飲めと言わんばかりに口許に宛がわれた乳房の甘い香りに抗うことができなかった。様々な葛藤が飛び交う騒がしい頭の中だったが、猛烈な食欲に呆気なく陥落した。

 前世の成人男性の意識が勝っているこの身体は欲するだけ乳をたらふく飲んだが、満腹になったちゃぷちゃぷするお腹に満足感と充足感を感じてしまい、何とも言い難い羞恥心に襲われた。


 そんな悶絶している人格などお構いなしにやってくる強烈な眠気に抗えず、意思に反して瞼は重くなっていく。

 背中をとんとんと規則的に叩かれてしまえば、この生まれたての新しい身体はあっさりと惰眠を貪った。


 認識の擦り合わせと状況確認、情報収集など考えなければいけないことは山ほどあるのに、なんという体たらく。


 だが以前、妹が生まれたばかりの頃、前世の母が言っていたのを思い出した。


 ―――赤ちゃんはたくさんおっぱい飲んで眠て、泣いて笑って甘えるのがお仕事。寝る子は育つのよ。存分に本能に任せて食っちゃ寝するといいわ。


 了解、母さん。

 とりあえず俺も、まるっと面倒事は後回しにして泥のように眠ることにします。


 くあっと大きなあくびをすると、俺は今世の母の胸に抱かれて、すぐに意識を手放した。





 侯爵家や早馬など、現代地球では馴染みのない不穏な単語が父の口から飛び出したことなど、眠気に負けた浩介改めレインリリーは気づいていなかった。






今まで厳重注意だけで放置してきたこの塾自体ヤバイ。

刃傷沙汰にまでならないと対処できなかったなんて、言い訳になりません。

多感な時期である思春期の娘のことを一切考慮してない母親も大問題です。

不倫していた塾の講師、論外です。

更にその妻も論外。

ナイフ持って現れた時点でなぜ警察に通報しない主人公! そしてその他講師たち!


と、ツッコミどころ満載で申し訳ありません。

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[気になる点] 近世に至るまで、出産は母体にとって命がけですから・・・。 だから、子は宝と大事にされる面もあるのですよね・・・。 今でも命がけです。リスクは大きく減ったと思いますが。 で、産婆、今で言…
[良い点] 「断る!」 いきなりインパクト抜群です。 [気になる点] 私の知識が間違っていれば良いのですが・・・。 生まれた直後の赤ちゃんの背中を叩くのは、肺に酸素を送り自発的な呼吸を促すためで、…
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