143.「 」
大変長らくお待たせしてしまい、申し訳ありませんm(_ _;)m
◆◆◆
連日降り続けている雨を無感情に眺めながら、このまますべて水没してしまえばいいのにと、そんなことを思う。
元々信心深くはないし、寧ろ今は神様なんているわけがないって思ってる。居るなら胸ぐらを掴んでふざけんな!と張り倒してやる。本当に、ふざけんじゃねーよ、って。
「……………」
重く垂れ込める曇天を見上げて、まるで自分の心を映す鏡のようだと思った。
これで雲ひとつない快晴だったなら、空に向かって石を投げつけていたかもしれない。無意味だし、やったところで何かが変わるわけでもないけど。
変えたいのはたったひとつだけ。
希うのはたったひとりだけ。
誰よりも優しくて、誰よりも愛してくれた。まあちょっと干渉し過ぎな部分もあったけど。多少ウザいと思ってしまったことも結構あるけど。
でも、誰よりも大事に、大切にしてくれた。二番目の兄であり、もう一人の父であり、母でもあった大好きなお兄ちゃん。
お願い。お願いします。
本当に神なんてものがいるのなら。
返して。
私から取り上げないで。
私自身を差し出してもいいから、だからお願い。――連れて行かないで。
「……………咲桜」
濡れた窓越しに、もう一人の兄の姿が映った。
黒い礼服を見るのも嫌で、兄から視線を逸らす。窓に映る私の顔は陰鬱で、あたかも私が泣いているかのように、窓ガラスを流れた水滴が、映る私の頬にそって落ちていった。
「きちんと顔を見ておけ。もう……見納めなんだぞ」
うるさい。
うるさい。
うるさい。
うるさい!
言われなくてもわかってる!
でも顔を見ちゃったら!
……喪ったんだって、もう取り戻せないんだって、最期なんだって、嫌ってほど現実突きつけられるから!
どうして? どうして奪うの?
巻き込まれただけだって聞いた。くだらない大人の事情で、くだらない揉め事の犠牲になったって。
犯人は捕まったけど、元凶は裁かれずのうのうと生きてる。許せない。あんな奴ら、苦しんで死ねばいいのに!
「咲桜、そんなことを言うもんじゃない」
「なんで!? 浩介にぃを殺した奴らだよ!?」
「そうだが、あいつは女子生徒を守った。俺は浩介の選択を後悔したくない」
「それだって不倫ババァの娘じゃん! 守る価値なんてなかった!」
「言うな」
「自分の娘が刺されて死ねば罰になったのに!」
「咲桜!!」
なんで怒るの!? なんで私が責められるの!? 大介にぃだって本当はそう思ってるくせに!!
「頼むから……………言うな」
顔を横に背けた大介にぃの拳が震えている。顎から滴った雫に気づいて、私は咄嗟に背中を向けた。
なによ。大介にぃだって納得してないじゃん。
悔しいって、憎いって思ってんじゃん。
なんで?
なんで無関係な浩介にぃが犠牲にならなきゃいけなかったわけ?
刺すなら不倫ババァだろ。
浮気した旦那だろ。
返してよ。
お願いだから返してよ。
私の一番大事な人を返してよ!
「咲桜。……おいで。見送ってやろう」
泣きたくなんかないのに、勝手に零れ落ちていく涙に苛立ちが募る。
大介にぃに手を引かれながら、「嫌だ」とそればかりがぐるぐると頭の中を巡っていた。
お願い、燃やさないで。
燃えてしまったら終わりなの。
声も。
表情も。
色っぽいと評判だった、少しだけ垂れた目尻も。
手の温もりも。
仕草や癖も。
毎日作ってくれたたくさんのご飯も、お菓子も。
全部、全部、全部!
―――――忘れちゃうんだ……。
頑張って覚えておこうとどんなにしがみついても、徐々に徐々に、段々と、その全てが思い出せなくなっていくんだ。
輪郭が曖昧になって、必死に掴んでいたはずのものが掌から零れ落ちてしまう。
人間は生きていくために、つらいことや悲しいことを少しずつ忘れていく生き物なんだって、ずっと昔に浩介にぃが言ってた。
当時はよくわからなかったけど、今ならわかるよ。
だってね、浩介にぃ。
最後に会ったのは三週間前でさ。
勉強教えてくれるって、約束してさ。
笑ったら出来るえくぼがね、好きだったのに、うまく思い出せないんだよ。
こんなことってある?
あんなに一緒に居たのに。居てくれたのに。
私って、薄情者だったのかなぁ……。ねえ、浩介にぃ……。
嫌だよ。
これで最期なんて酷過ぎる。
まだまだたくさん教わりたいことあったのに。
ウザいくらい過保護でもいいから。
だからお願いだよ、浩介にぃ。私を置いて逝かないで。
「―――――やだ!!! 燃やさないで!!!」
両親が泣きながら火葬するスイッチを押そうとした瞬間、私はそう叫んでいた。
「咲桜……!」
両親から奪おうと踠くけど、大介にぃが妨害させまいと私を抱き竦めているから動けない。
「咲桜!」
「燃やさないで!! お願い!! 燃えてしまったら本当に失っちゃう!! 嫌なの!! 浩介にぃ!! 嫌だよぉぉぉ!!!!」
「咲桜、すまない……! 堪えてくれ……!」
「やあ―――――っっ!!!!」
カチッと点火ボタンを押す音が無情にも鳴り、浩介にぃが入れられている棺に点火されたのだとわかった。
火葬炉のバーナーの音が響く中、私の泣き叫ぶ声と、涙を流しながら私を抱きしめる大介にぃのくぐもった声、そして泣き崩れる両親の嗚咽が重なった。
そうして、高温でセラミック化した骨だけになった浩介にぃを、自宅まで連れ帰った。
百八十センチもあった長身の浩介にぃが、小柄な私が抱えられるくらい小さな骨壷に収まっちゃうなんて嘘みたい。
呆気ない。
本当に、呆気ない。
ただただ虚無感を抱えるだけの日々が始まる。
それに何の意味があるのかな。
明日は大介にぃが、浩介にぃの借りていたアパートの荷物整理をして、引き払ってくるらしい。
付き合ってたらしい彼女と鉢合わせするのが何となく嫌で、アパートの部屋にはあまり近寄らなかったけど。コルクボードに飾ってあった写真は、今もそのままにしてあるのかな。
……彼女は、浩介にぃが殺されたことを知っているんだろうか。
結局、元凶になった不倫ババァと不倫野郎は弔問にすら来なかった。
来たら殴って塩をぶっ掛けてやろうと思ってたのに。
でも来なくてよかった。
顔なんか見たくないし、浩介にぃに会わせたくもない。
せいぜい不幸になればいいんだ。
そんなことを願ったからだろうか。
思わぬ形で、私の願いは叶ってしまうことになる。