136.血赤色の魔石 2
思わず後退りしてしまったが、咄嗟に覆った鼻は血液特有の臭気を感じなかった。血生臭さの代わりに鼻腔を刺激したのは、どこかで嗅いだことのあるにおい。
おおよそ経年劣化の進んだ濃厚粘稠の血液とは思えない、何らかのまったく別物のにおい。
どこで嗅いだ香りだったか。前世か、現世か。
そう、臭いではなく、香りなのだ。
嫌なにおいではない。寧ろ好ましいとさえ感じる、甘い甘い香り。
この香りは……。
「リリー。吸い込んじゃ駄目だ」
「お兄様?」
俺を支えてくださっていたお兄様が固い声でそう警告すると同時に、一度だけ見た風魔法の、長く美しい尾羽の翡翠の鳥を顕現させ、緑褐色の粘稠へと放った。
鳶に似た清らかな高い鳴き声に驚いていると、翡翠の鳥は臆することなくねっとりとした異形へ鉤爪を立て、幾多もの鎌鼬を叩き込んだ。
滴る度に、そして翡翠の鳥によって飛び散った粘液からも、誘うような甘い芳香が漂ってくる。
「あれはイエロージャスミンの花の香りだ。中枢神経に致命的な害を及ぼす有毒植物だから、吸い込まないように」
「イエロージャスミン?」
ああ、そうだ。思い出した。
この甘い蜜の香りは、浩介の記憶だ。
ガーデニングが趣味だった浩介の祖母が、猫の額ほどの狭い庭で育てていた黄色い花だ。株いっぱいに咲く花付きの良いイエロージャスミンことカロライナジャスミンは、毎年春に甘い香りを漂わせていた。
アルカロイド系の危険な毒を持つ毒花だが、蜜など口に含んだり、肌に直接樹液がつかなければ病害虫の被害も少ない育てやすい植物なのだと祖母が言っていた。
確かに、毒が体内に入った場合呼吸麻痺や心機能障害などの中毒症状を引き起こす恐ろしい植物ではあるが、ガーデナーに人気の高い花でもある。
芳香に中毒性はなかったはずだ。それとも、地球のカロライナジャスミンとは根本的に違うのだろうか。
「お兄様。あちらではこの香りの花はカロライナジャスミンと呼ばれていて、同じく中枢神経系の有毒植物でした。ですが、花の香りに毒性はありません。こちらのイエロージャスミンは違うのですか」
「違うね。蜜は勿論のこと、根や茎、葉、樹液に至るまですべてに毒が含まれる。毒の含有量が最も多い花蜜が気化して漂うこの甘い香りは、吸い込むだけで肺から全身に広がる。服毒と同列に扱われる程度にはかなり厄介な毒だよ」
マジか。地球のカロライナジャスミンよりとんでもない代物だった。
翡翠の鳥が何度も粘稠の塊を吹き飛ばす様子を横目に、お兄様が流れてくる芳香を完全に遮断するため風魔法のシールドを張った。
「お詳しいのですね。まさか毒にまで知悉していらっしゃるとは思いませんでしたわ」
「定期的に服毒しているからね」
「ん?」
「耐性をつけるだけじゃ足りないから。複合的な知識は必要だ」
「はい?」
「匂いはもちろん、色、濃度、初期症状からも毒の特定が出来なければグレンヴィルは名乗れない」
待って。お願いだから待って。
嫌な推測ばかり浮かぶんですけど!
「イエロージャスミンの毒は本当に危険なんだよ。希釈して使用しただけで脈が乱れ、血圧が一気に急降下した。徐々に濃度を上げて耐性をつけたから僕やお爺様には効かないけど、君や護衛たちには致死性の可能性もある猛毒だから、気をつけて」
あああああぁぁぁ……予感的中……。
グレンヴィル男子の英才教育、マジでえげつない……。
あれ? でもお兄様やお爺様が今も身につけてくださっている指輪には、ありとあらゆる毒を無毒化する加護を付与した気がするんだけど。なのに服毒したものを無毒化できなかった?
サッと青ざめた俺がどこを見ているのか気づいたお兄様が、「違うよ。大丈夫」と宥めるように微笑んだ。
「毒耐性をつける期間は外しているんだ。君からの贈り物は、変わらず僕たちを守ってくれているよ」
それでもあらゆる毒に慣らす必要があるのだと、その社会的地位がぬるま湯に浸かるような甘い立場じゃないのだと察するには十分過ぎた。いつ毒を盛られるかわからない――それが六公爵家なのだろう。わかっていたつもりだったが、実際にお兄様の口から直接服毒していると聞かされると、その衝撃は想像以上だった。
俺がそれを知らなかったのは、お兄様がそうだと覚らせなかったからだろう。高熱や吐き気、痛みなどかなりの不調を抱えていたはずなのに、俺は一度もお兄様の体調不良に気づかなかった。寝込んでいるお姿を知らないし、スタンピードの一件以外は一日たりとも顔を合わせなかった日はない。
お兄様は完璧に欺き通せていたし、両親もエイベルも、お兄様付きの使用人たちも俺にちらりとも気づかせなかった。俺は一人だけ平穏を許されてきたということだ。
そして、いずれは双子の弟たちにも、その英才教育は施される……。
俺は耐えられるだろうか。それとも、あの子達でさえ苦しむ姿を俺には一切見せないのか。
いつまでもいつまでも、俺ばかりが守られ、平和に過ごすのだろうか。
「……………」
いや、今はよそう。そんな場合じゃない。
「解毒法も学んでいるから、僕やお爺様が傍にいる限り何かなんて起こさせないけど、万が一ってこともあるからね。リリーには僅かな毒でさえ近づけたくない」
「あの、お兄様。恐らくですが、わたくしに毒は効かないかと」
「え?」
「呪いは効きませんでした。わたくしだけでなく、わたくしの周囲にいらっしゃる方々も感染症の類とは無縁だそうですわ」
「どういうこと?」
「わたくし自身が浄化の媒体なのだそうです。故に、王都邸で風邪を引く者はいませんでしょう?」
「言われてみれば……」
「人間浄化装置とは凄いではないか、レインリリー」
にやりと口角を上げて笑うお爺様を睨めつけてから、吹き飛ばされては集まり結合していく悍しい粘稠の塊を一瞥した。
翡翠の鳥って、そういえばさっき鳴いたんだよな。風魔法なのに。
いや、ナーガも最初は水魔法だったか。咆哮してたし。……うん? じゃあ翡翠の鳥も受肉する可能性があるのか?
『ないよ』
そうか、ないのか。残念。
『創造魔法に適性のない者がいくら擬態させたって、それは幻視と似たようなもの。そう見せているだけで、あれに命は宿っていないよ。リリーがやれば受肉するだろうけどね』
翡翠の鳥の実体化。何という悪魔の囁きだ。
さて、ひと呼吸置けたのだからやるべきことをやらなければ。
名残惜しいが、お兄様に翡翠の鳥を回収してもらい、術式継続中の青金の蓮を俯瞰図を見るように展開させた。その瞬間、異形は一時停止した映像よろしくぴたりとフリーズする。ついでに僅かに漂っていた花の香りもしなくなった。どういう仕組みになっているのか、発動させている俺自身にもわかっていない。
可視化された魔法陣を紐解きながら、何重にも重ね掛けされた阻害用障壁を削る。大量のダミーとも言える不要なものを取り払い、少しずつ鍵穴をこじ開け、情報を精査していく。幸いトラップは仕掛けられていないようだ。いや、もしかしたら看破されるとは思っていないのかもしれない。
凄い自信家だが、何属性かもよくわかっていないこの魔法でなければ解析などできないか……。
なかなかにしぶとい。それに用心深い。鍵穴をひとつ開けられたと思ったら、更に頑丈な鉄扉が倍に増えたような感覚だ。これは根比べになりそうだな。
常時展開中の索敵魔法と聖属性浄化結界の維持、並行して血赤色の魔石解読。継続して増え続けている潤沢な魔力のおかげでリキャストタイムには陥らないが、並行して行っているものが多くて思った以上に苦戦している。しかも負担が大きい。
……うん? いや出来てるよな、並列思考。何だよやれば出来るんじゃん、俺!
あっ、いかん。調子に乗ると集中が切れる。途切れたら、糸の切れた凧よろしく制御不能になっちゃう。しかし掘られた魔法陣の守りがえげつないな! なんだこれ!
刀一本の俺に対して大量のガトリングガンで撃たれまくっているような状況、と言えば大変さが少しは伝わるだろうか。殺傷力に差があり過ぎじゃね?
え。おかしいよね? 能力は勝っているはずなのに、これ作ったヤツ確実に現段階では俺より格上じゃねえか。ピカイチなはずの創造魔法が凡庸な発想力しか発揮できない俺の脳みそ頼りだという、何とも情けない理由が力量に差をつけている原因なんだとわかってはいるけど……。
なんだろう。阻害障壁がえげつないと思うからいけないのかな。これも俺が想像していることになるのか? 自分で自分の首を締めている状況、とか?
じゃあ逆に考えればいい? ダミーは暖簾のように素通りできて、必要な情報には色をつける。術者が隠しておきたい情報を炙り出して、一本道に繋げる、とか?
いやどうやって。篩にかけるにしても、その判断材料は? 何を基準に何の篩にかける?
ああ、索敵にかかったな。
「お爺様。お兄様」
「奥か?」
「はい」
「数と種類は」
「先程のワニ型が九体」
「任せておけ」
「リリーは解析を進めて。黒衣隊はリリーを守れ。他は先代に続け」
「「「「「はっ!」」」」」
瘴気を祓う浄化結界陣からいの一番に飛び出したお爺様を追って、命を受けた護衛たちが怯むことなく続いていく。さすがはグレンヴィル自慢の武人達だ。
お兄様に命じられたノエル、アレン、ザカリーの三名は、俺を囲むように配置についた。我が家で彼らだけが揃いの黒い軽装に身を包んでいることから、お兄様はいつからか俺の専属護衛をまとめて呼称する場合「黒衣隊」と呼ぶようになった。俺も呼びたい。
因みにお兄様専属の護衛達は白い服を好んで着ているようだ。対比で「白衣隊」と呼ぶのだろうかと思っていたが、そこは「白服隊」らしい。白衣隊だと医療従事者だろう?と言われ、深く納得した。
ああ、脱線しているな。反省反省。
……そういえば、索敵にかからなかったはずの坑道内部で索敵出来ているな。どういう理屈だ?
俺が認識したから? 創造魔法は本当に俺の脳みそ頼りってことか。これは早急に観察力と洞察力を鍛えないと厄介だな。
そんな苦さを噛み締めていると、傍らに残っていたお兄様が翡翠の鳥を再び顕現させた。俺を守るよう命じてから、結界の外へと駆けていく。
過剰防衛じゃないかな、お兄様。俺としてはお兄様の補佐として伴ってほしいところだけれど。過保護過ぎるのは、寧ろ通常運転だと安心すべきか。
剣劇が耳に届いた。お爺様たちが迎え撃っているようだ。
お二人と護衛達を信じて、戦闘から意識を切り離す。
考察の続きに入ろう。
篩にかけ、無駄を排除する。シンプルだが、だからこそ難しい。……いや、シンプル、そうか! 難しいと思うこと自体が能力を劣化させてしまうのか! 本当に厄介だな!
ということは、――もしかして。
立ちはだかるように幾重にも層になっている魔法陣を周囲に散らし、すべてにアノテーション付与を施していく。例えばコンピューターで言うところの、定義したカテゴリの文書や画像、映像にタグ付けする要領だ。トピックごとにタグをつける。
割り当てる作業は非常に地味だが、複雑怪奇に見えている魔法陣をシンプルに一本化するためには必要な手順だ。
干渉を意識しながら、アノテーション付与した魔法陣の振り分けに入る。俺の予想が当たっていれば、たぶんこれで血赤色の魔石に刻んである魔法陣が何かわかるはずだ。そして、経年劣化した人間の血液だと思われる、あの謎の粘稠塊の正体も。
タグ付けされた文字が、金を含んだ青い光をやんわりと纏っている。きらきらと周囲を舞うのは同じ色彩の光の粒子だが、魔素とは違う意思のない光の粒は、短命な蛍の儚げな輝きによく似ていた。
まずは惑わすだけの不要な回路は遮断してしまおう。
すると、呼応するように魔法陣の半分以上が照明を落としたかのごとく暗くなった。ここまでは、俺の干渉力は問題なく通用しているということだ。
しかし、普通に解析していたらこれだけの無駄を取っ払わなきゃいけなかったのか。時間と労力の浪費だな。下手すると年単位での解析になりそうじゃないか。それを考えたら、俺自身は凡庸でもやっぱり創造魔法はチートだな。
さて、続きだ。
見せないよう阻害、遮断しているフィルタリングを解除していくと、次第に二種類の文字の羅列が浮かび上がってきた。
(これは……ローマ字か?)
見えたのは前世で慣れ親しんだ欧文の字体で、頭文字の大文字に続く小文字で記されている。
(ヘ、ン、シ、ツ……シ、ン、ショ、ク……? ……変質と侵食か!)
マジで状態操作なんだな!
あらゆる状態異常が操作可能なら、確かに闇魔法の上位互換で間違いない。これは何でもアリのとんでもない能力だぞ。
変質と侵食。つまりは、〝侵食〟で身の内に魔法陣を刻んだ魔石を埋め込まれ、〝変質〟で姿形を歪められた、ということだろう。ワニ型は新種の魔物ではなく、現存する某かの魔物が変質した姿だったようだ。
まだまだ隠蔽しているものはあるはずだ。さらに潜るぞ。
引き続き阻害・遮断のフィルタリングを剥がしていく。俺の干渉力に抵抗しているのか、時折スパークのように小さな火花が舞った。
(――見つけた)
同じく欧文字体で綴られたそれは、『魅了』、『誘引』、そして『伝染』。
「魅了、誘引、伝染……………? まさか、三年前のスタンピードって……」
ぽつりと呟いた刹那、ぞわっと一気に総毛立った。
そんな馬鹿なと否定する自分と、納得できると肯定する自分とが鬩ぎ合っている。
どこまでが計算通りなんだ? いつから? 何割が実行されている? すでにもう完了しているのか? 俺がヴァルツァトラウムの坑道奥へ赴くことも予想済み? 施した魔法陣を解析することも? 目論見の一端が暴かれることも予測してた? それさえも計画の一部なのか?
「お嬢様?」
アレンの訝る声にはっと我に返った。
知らず震えていた腕をぎゅっと握り締め、鈍い痛みで囚われていた意識を半ば無理やり切り離す。
「いかがなされましたか。お顔の色が優れませんが……」
「心配ないわ。大丈夫よ。解析を続けるから、引き続きよろしくね」
「……御意」
心配です、と如実に物語る視線を寄越すも、アレンはそれ以上聞き出そうとはしなかった。それはノエルやザカリーも同様だ。俺自身も大いに混乱している。重ねて問われないのは正直ありがたい。
どう説明すればいいんだ。まとまらない思考力で、いったいどれ程の情報を伝えられる?
スタンピードの件と、ニクバエの呪いは別件かもしれない、なんて。あの日あの時引き起こされた死闘は、二つの原因と元凶が存在していた可能性があるだなんて、あまりにも突飛で荒唐無稽過ぎる話なんじゃないか。そう思うのに、頭の片隅ですでに確信しているかのように俯瞰視点で考えている自分がいる。そして、混乱しているくせにそれを間違っているとは露程も思っていない。
(そんなの、確定だって自覚してるってことじゃねえか)
元々謎解きなんて不得意分野だというのに、嫌な直感だけは忠実に真相をひと撫でしていく。つまり、しっかりと触れていくのだ。
索敵魔法に、新たに〝伝染〟を加えて消費魔力を上乗せしてみる。
最奥に向かうほど、指定した色がそれこそ脅威的な感染力を示すように真っ赤に染まった。
変質したワニ型の魔物がわんさかといる。なのに最奥にいるはずの高ランク魔物は引っ掛からない。それは、すべてが状態操作によって変質させられているということだろう。
背中に嫌な汗を感じながら、索敵魔法に神眼を這わせた。一陣の風が吹き抜けるように進んだ先で、俺は―――――、
【………………………っっ! ……!!】
誰かに呼ばれた気がした。
いや、あれは呼ぶというより――。
ゴホ、と唐突に咳が出た。
次いで、いつか嗅いだ、鉄錆びのような不快な臭いが鼻腔を刺激した。
ポタリと、添えた掌に鮮血が滴っている。唇から下顎を伝って落ちるのは、今まさに掌を赤く汚す血液。
視界の端で、落ち葉の山にこそっと身を隠す擬態した虫のように、スノーノイズが血赤色の魔石の魔法陣に顕れていた。
ああ、くそ。やられた。
「「「―――――お嬢様!!」」」