118.境界線
近衛騎士団だけでなく、この場にいる全員に緊張が走っている。
眼前には体高十メートルは優に超える巨体がいるのだ。更に頭を含めると二十メートルにもなる。前世で言えばビル七階ほどの高さに頭があるようなものである。加えて恐ろしいほど鋭利な鉤爪と牙は太く、長い尾も巨木のようだ。光沢を放つ漆黒の鱗は剣も魔法も通さない。人間では到底敵わない絶対王者が目の前にいるのだから、近衛騎士たちの張り詰めた空気は当然の結果だろう。リオンの両親と対峙した経験を持つ俺やイル、イクスにとっても覚えのある恐怖だ。
畏怖の対象であるリオンは、人間たちの緊迫感など何処吹く風とまったく動じず、飛膜をたたんで行儀よくお座りをしている。
金色の目だけはわくわくと煌めいているので、俺の指示待ちを楽しんでいるようだな。
『主。何かございましたか』
穏やかな声音で尋ねたウルは、立派な枝角で俺を傷つけないよう器用に避けて、頬を擦り寄せてきた。
「陛下が、三年ぶりにあなたたちの姿をご覧になりたかったのですって」
『ほう』
『ふ~ん。なんで?』
ウルは陛下の意図に気づいたのか空色の双眸を眇めたが、リオンは不思議そうに瞬いただけだった。
『リオン。人にとって我ら精獣は脅威だと言うことだ。特にドラゴンは人に害を為す魔物と認識されている。大方お前の成長具合を確かめておきたかったということだろう』
『え~! ボク脅威なの!? 魔物じゃないのに一緒にするなんて酷い!』
俺は思わず苦笑した。ウルとリオンの声は俺にしか聴こえていないから、ウルの物言いに不敬だと注意するわけにもいかない。
そもそも精獣にとって人間は関わりのない他種族で、人の作った支配階級など何の意味も成さない。ウルやリオンが認識すべき人間は俺ただ一人で、他は気にも止めない。人が歩く際、地面にいる蟻を意識しないのと同じ理屈だ。情がないのではなく、関心がないのだ。
『ママ! ボクはいい子だよね!?』
「ええ。リオンはとってもいい子よ」
『ボクは魔物じゃないよね!?』
「もちろんよ。あなたは誇り高き精獣で、わたくしの自慢の使役獣だもの」
『ママの自慢! ボクはママの自慢!』
忠犬よろしく左右に振れる尾がビタンビタンと地面を叩き、振動や轟音と共に粉砕されていく。陥没帯があちこちに形成されていく様に近衛騎士団が切迫した面持ちで構えた。これはいかん。
「リオン。止めなさい。わたくしの影でならいくらでもはしゃいで構わないけど、外では駄目よ」
はっと我に返った有頂天のリオンが、叱られた子犬のようにしょんぼりと伏せた。
『ごめんなさい』
「周囲の生き物や人工物はあなたより小さくて脆いの。あなたがくしゃみをしただけで、人は簡単に吹き飛んでしまう」
『えっ? そんなに弱いの?』
「ええ。だからね、誰よりも立派で強靭な肉体を持つリオンが気をつけなければならないの。外にいる間は慎重に行動してくれると嬉しいわ」
俺の影に創った異空間の世界でどう過ごしているのかふと気になって、先日魔力に神眼を乗せて覗き見してみたのだが、ウルVSリオンの戦い、というか、怪獣大決戦のような暴れっぷりを目撃してしまったのだ。
源泉は俺の魔力なので、山や森が消し飛んだり大地が大爆発を引き起こしたりしても、逆再生映像のように即座に復元されるから環境破壊に遠慮がないのか、あれで遊んでいるだけだと言うのだからとんでもない話だ。ウルが自重なしに戦闘を繰り広げる様は初めて見たけど、立派な枝角に紫電が走り、リオンのブレスを特大雷で相殺した光景には唖然とした。
あの角って、雷発生させるの?
お父様の天雷より何十倍も高エネルギー発してましたけど。
ドラゴンのブレスを相殺させるって。
俺、防護魔法何枚も砕かれましたけど!? ウルの雷撃凄すぎない!? さすが精獣序列二位!! ラスロール舐めてました!
お母様と優雅にティータイムを堪能していた俺は、思わず口に含んだ紅茶を吹き出すところだった。
絶対ふたりを表で戦わせちゃ駄目だ。冗談抜きで地形が変わる。
『わかった。ボク、ママの迷惑にならないようにここでじっとしてる。くしゃみしそうになったら、ママの影に頭を突っ込むから』
「ふふっ。そうしてくれるとありがたいわ」
リオンのくしゃみで飛ぶのは人間だけじゃない。建造物も吹き飛ぶ。確実に。そして大規模火災が発生するだろう。
以前影の世界で鼻から特大火の玉を発射していた。森が焼け野原と化していた。くしゃみしただけで!
天災級とされる所以を、影の世界で俺は日々感じている。世界の維持に魔力消費が増える一方なのですが。ふたりのご飯より修復と復元に吸い取られる量の方が遥かに多い。日々魔力鍛錬に勤しんでいるようなものなので、ただ令嬢然と過ごすだけで勝手に増えていく総魔力量。倍に増えたはずの三年前より更に増えているとか、どういう状況だろうか。
ご機嫌にクルルルと喉を鳴らすリオンを激しく警戒していた一同が、俺とのやり取りに目を白黒させていた。現実逃避している場合じゃなかったな。
「姫。変わらず意思疎通は可能な様子だが、まさか会話ができるのか?」
「はい。とても知能の高い子達なので、会話で意思を伝え合っております。根本的に魔物や獣とは違うのだとご留意ください。特にこのウルは賢者ですので、人の思惑など簡単に看破してしまいますわ」
陛下が苦笑いを浮かべた。ウルにはお見通しだと伝わったらしい。
「なるほど。獣だと侮らず、人と同等もしくはそれ以上の知能を持つ存在であると認識を改める必要があるのだな。……ラスロール殿、非礼を詫びよう」
こくりと首肯したウルにどよめきが起こる。
「これは驚いた……本当にこちらの言葉を理解しているのだな」
『精獣は聖霊に近い存在だ。高位有機体である精獣を魔物や獣と同列に扱ってきた人間の浅ましさが、気高い彼らの誇りを貶めてきた。本来精獣は人と関わらない。人に御することが出来ると思わない方がいい』
ナーガの苦言に陛下は押し黙った。俺を通じて支配するつもりだったとまでは言わないが、ある程度の手綱は握れると思っていたのだろう。ドラゴンの存在は他国への牽制になるだけでなく、その存在が王の支配下にあるだけで国内の反乱分子の抑止力にもなる。破壊力はもちろん、防御力も桁外れだからだ。まさに生きた要塞だ。
『人の王よ。忠告しておこう。神の使徒を人間が従えないように、聖霊に近しい精獣もまた、人間には使役できない。分を超えた野望など及ばないと知れ。神と我々聖霊が見ていることを忘れないことだ』
ナーガらしからぬ口調で告げた言葉は重かった。陛下に俺を利用しようという打算がまったくなかったとは思わないが、ナーガが警告する程度には何か策略めいたことをやっていたのかもしれない。
清廉潔白では為政者は務まらないとはいえ、人の褌で相撲を取るような真似は気持ちのいいものではないな。
でもバンフィールド王国は、俺にとって何より大切な家族が暮らす国だ。ノブレス・オブリージュの教育だって徹底的に叩き込まれている。六公爵家の娘である以上、国や民に尽くす義務は必ず発生するのだ。国に従事する臣下であるのなら、神の使徒であろうと使役獣がドラゴンやラスロールであろうと、国防のために尽力する義務がある。陛下の思惑がどうであれ、戦力のひとつに数えられるのは当然だった。
けれど、ナーガが自ら戒飭するなんて珍しい。俺を諭すことはままあるけど、他の人間は初めてだ。
師団長に対しては――、うん、まあアレだ。欲望に忠実すぎたのが原因だな。つまりは自業自得。
俺が自覚する以上に、神の使徒や精獣を一国が私的に囲い込むことは禁忌に触れるのかもしれない。
武力の偏りからパワーバランスが崩れてしまうことを忌避しているようにも見える。均衡を保ち、安定していることが好ましいということなのか――。残念ながら、自国の利益と発展を望む人間の貪欲さは、決してそれを良しとしない。
人は力の釣り合いを求めてはいないからだ。他者を、他国を上回り、優位に立つことを望んでいる。安定とは拮抗している状態を指すのではなく、より豊かでより幸福であることを指すのだろう。切磋琢磨など夢物語で、人は常に競い合い、優劣をつけたがり、より高みに立ち見下ろすことでようやく安心できる生き物なのだと思う。
極論かもしれないが、国同士となれば尚更その傾向にあるように思う。横一列に並んで手を取り合い、仲良く同列一位なんてあり得ない話だ。それが可能ならば、領空・領海の奪い合いなど起きていないだろう。資源と利益を譲り合うなんて、それこそあり得ない。
ナーガが何を思って訓戒したのか俺は理解できていないのかもしれないけれど、ナーガの意思は聖霊全般の意思であり、延いては神様の意志でもあるという点だけははっきりしている。
つまり、使徒と精獣を国の戦力とすることは神様が認めていないということだ。陛下の下心は、神の意に反しているから止めておけという切諫に他ならない。
それこそ強行すれば、神の意に反し諫言を無視した陛下は聖霊の恩恵を失い、バンフィールド王国から魔法が消えてしまうかもしれない。最悪聖霊そのものが国から立ち去ってしまえば、豊沃な大地をあっさり失くしてしまうことになるだろう。
気候変動から土地は痩せ荒土と化し、干魃が起こり、水源が減少する。山火事が起こり、動植物の生態系も崩れる。逆に水害に襲われる地もあるだろう。港町は時化が続き、海産物の被害と漁獲量の減少、土地は塩害に苦しむかもしれない。魔物討伐も魔法の補助が望めない悪条件の中で遂行する必要がある。死傷者の数は数倍にも膨れ上がるに違いない。回復魔法もなく、状態異常を治す術も限られる。荒土で薬草も育たず、幾人もの死者を出すかもしれない。
聖霊の加護を失うとは、そういうことだ。
だからハインテプラは、肥沃な地を持つバンフィールド王国を執拗に狙っているのだ。
顔色を失った陛下に、ナーガの声が聴こえていない近衛騎士団は困惑の表情を浮かべた。
お父様たちも事の重大さに強張った顔をしている。
「……陛下」
「わかっている」
宰相閣下に固い声で答えた陛下が、俺の首に巻き付いているナーガに潔く頭を下げた。一介の公爵令嬢でしかない俺に国王が頭を下げているように見えるのだろう。「陛下!?」と近衛騎士団から悲鳴が上がった。