夜の来訪者
燭台の下、紙に木炭で何かを描いていたマルティナは、コツン、という小さな音に顔を上げた。
音も無く立ち上がり、障子を静かに開ける。目線を月光に濡れる縁側に落とせば、小石が転がっている。
微かで僅かな笑いを漏らし、彼女は夜の庭に──正確には庭に佇む黒い影に──小さく告げた。
「よお。……森に行くぞ」
マルティナは今年45。茶色い髪を肩で切り揃え、化粧っ気の無い顔は日に焼けている。鳶色の瞳は年若い少女のように輝き、年齢を感じさせない。
さほど大柄ではないが、引き締まった体つきで、特に腕の筋肉がしなやかに鍛えられている。それもそのはず、彼女は“蒼炎の都”では並ぶ者無しと言われる女鍛冶師兼細工師であり、優れた戦士なのだ。
性格は豪胆で頑固。自由奔放、猪突猛進、姉御肌。酔っぱらって暴徒化した水夫やならず者を一人で撃退した──叩きのめしたともいう──回数は数知れず。
男勝りな性格に似合わず、料理や裁縫の腕前は最高。だが、やや短気なせいか、嫁の貰い手がいない。……ように見える。
マルティナの本名は、マルティナ・ラーマノエル。
込み入った事情ゆえ、正確には結婚していないが、相手はいるし子どももいる。
まあ、分かりやすく言ってしまえば、今しがた夫が逢いに来たわけだが。
「久しぶりだなぁ、何年ぶりか?」
深い森の中、マルティナが楽しそうに言えば、誰かが答える。
「さあな。……三、四年か?」
闇から滲むように姿を現したのは、短く切られた漆黒の髪に黒曜石の瞳、黒を基調としたロングコートで鍛えぬかれた身体を包んだ、厳しい顔つきの壮年期の男。
マルティナは男に歩み寄り、まじまじとその姿を見つめた。
「うん、変わりなく見えんな。しっかし三、四年かー。長いか短いか分かんねぇや。──そっちにやった馬鹿息子はどんなもん?」
「第二旅団第一連隊隊長。……中尉だ」
「まあ、そこそこってか。あれももう19だっけ?」
「俺が19の時には既に総帥だったが」
「化け物総帥が現役なんだぜ? あれが総帥になるのは無理だって。たとえ化け物の血を引いててもな」
化け物と揶揄された男は怒るでもなく、剣の柄を軽く弄っただけだった。
「……そうだな。
ところで、義父殿は?」
「元気に鎚を振るってる。
そっちのねーちゃんにーちゃんは?」
「息災だ」
風に木の葉が揺れる音が、静かな森を渡っていく。
「……別れを、言いに来た」
男が淡々と、日常会話のように切り出した。
「そうか。死ぬのか」
マルティナの声も、重さを感じさせない。
「ああ。……悔しいが、身体がな」
子どもの頃から無茶な戦い方を押し通してきた。最前線で体力の限界まで暴れまわり、底をつくほど魔力を乱用し、時には躊躇いなく大魔法を行使し、数え切れないほどの重傷を負い、それでも回復すれば即座に戦場へ舞い戻った。そんな無茶をして後々に響かないわけがない。本来自然治癒すべきものを魔法で治したツケも大きい。
それだけではない。妖魔や堕ちた魔術師などを殺し続けた男の身には、怨念という呪いが蓄積していた。普通ならば数百重なろうと何も起きないはずの、微かな呪い。しかし男は魔の者を数千、数万屠ってきた。その中には力ある存在も何十といる。呪いが身体を蝕み始めたのは、果たしていつだったか。
無理と呪いで身体が軋んでいると分かってはいた。積もりに積もったそれが取り返しの付かないほどになっていると自覚した頃には、周囲の誰もがもう戦うなと、引退しろと言っていた。仲間も、実母も、姉や兄も、子も。
ただひとりを除いて。
「馬鹿だよなぁ、お前。ほんと、救えねぇ阿呆だよ」
「それはもう、聞き飽きた。……お前にだけは、言われたくなかったが」
「あー、勘違いすんな。あたしはな、お前の選んだ道に文句つけたりしないさ」
「すまん」
「謝るな馬鹿。だいたい、あたしは死ぬまで最前線で戦い続けるお前に惚れてんだ。引退してのんびり過ごすってぇ?」
腰に手を当て、指を突き付ける。
「冗談じゃねぇぜ! てめぇの死に場所は戦場! 大将首抱えて満足して死にやがれ! それか相討ちせい!」
啖呵を切ってみせたマルティナに、男は険しい顔をどこか満足げに綻ばせた。
「ああ! 言われなくてもそのつもりだ!」
「よろしい!」
二人並んでひとしきり笑って、ふとマルティナが問う。
「で、最期の敵は?」
「今まで誰も倒せず、俺が捨て身で殺すしかない存在を選んだ」
「へぇ、そいつぁすげぇ! んで、何だ? やっぱ竜か?」
「竜も竜、堕ちに堕ちて黒くなった邪竜だ」
「邪竜! いいねぇ、実にいい!」
からからと笑う妻を見ているうちに、夫は表情を曇らせていく。
「……引き止めないのか?」
「ん?」
「自ら死にに行く俺を、引き止めないのか?」
マルティナから笑みが消え、沈痛な面持ちに変わった。
「行かないで。ずっとここにいて。……そう泣きついてほしかったのか?」
「…………」
「あたしは、お前と祝言あげた時から腹くくってるよ。だから──例えバレてようが、笑顔で死地に送るさ」
「っ…………すまない」
「いい。気にすんな」
どこからか水の流れる音が聞こえる。ホウ、ホウ、ともの悲しい梟の鳴き声も届く。
やがて、男が口を開いた。
「……マルティナ。もし、許してくれるなら──最期の戦いを、見届けてはくれないか」
マルティナは唇を引き結び、額にかかる髪をかきあげた。瞳には葛藤が浮かんでいる。
そうして数分。深呼吸ひとつしてから彼女は夫を見た。
「あたしは──」
……
…………
……………………
「馬鹿な男だったよ」
懐かしむように告げた祖母は、とても今年で90とは思えないほど活力にあふれた人だった。
「馬鹿な男だったよ、あいつは」
「馬鹿な男、ですか?」
“黒雷の勇者”と名高い祖父をそう言ってのける祖母に、俺は首を傾げた。
悪しき者を多数倒し、祖国の危機に姉兄達と立ち向かい、最期は悪名高い邪竜と相討ちとなった祖父が、馬鹿な男?
「ああ、馬鹿な男だとも。真っ直ぐで、戦い続けることしかできなかった、馬鹿な男さ」
そっと目を閉じてふうっとため息を漏らす祖母。その口元には、緩やかな笑みが浮かんでいた。
2017/08/10
・“蒼炎の都”にルビを追加
・水夫やならず者を一人で撃退した(叩きのめしたとも言う)回数は → 水夫やならず者を一人で撃退した──叩きのめしたともいう──回数は
・「あたしは――」 → 「あたしは──」