萩野古参機関士 終着駅
昨日は『さよならSL号』が走った。そのあとのなんとも言えない高揚感が残った機関区。その最後の仕事がある。機関車の異動だ。何両も連なる蒸気機関車。その先頭に乗務し、これを次の任地に転がして行く仕事だ。行きは自分が運転して、帰りはディーゼル機関車の貨物列車に便乗して帰ってくる予定だ。今日は、助士に立脇機関士がつく。ディーゼル機関車に転換教育を受けて、いまはディーゼル機関車の機関士をやっている。それがボクの助士として乗務するのだから、気を引き閉めねばならない。ついでに立脇機関士の助士も乗るとか。
機関区の退避線、その片隅に何両か連なる蒸気機関車が身を寄せあっている。それを遠くに運んでゆくのだ。乗り込む機関車以外は主連棒を外され運びやすくされている。それがまた落ちぶれたという感じを強めているのではないか。乗り込む機関車は最後だからと丁寧に磨きこまれている。仕業検査と注油、これは繰り返してきた仕事だ。油の染みた足回り、恐ろしいまで磨きあげられた砲金の汽笛や安全弁。これに触れるのはこれが最後だ。この仕業を終えたら、ボクは国鉄を辞める。この時の為にとってあった新品の菜っ葉服。帽も磨きあげてきた。
運転台に上がれば、立脇さんが罐の調子を見ていた。そして助士席には、なんだか印象の宜しくない人物が座っていた。男の長髪なんか見苦しいだけだ。まぁ、嫁に行き遅れた『女』のひがみと言われれば言い返す言葉もないけれども。しかして細い。後ろから見ていると女にも見えんでもない。
最後に着く機関士席。それを噛み締めながらいつもよりも感傷的に機器を調整する。よく感傷的になりやすいとかでからかわれたものだ。きっとそれは『女』故だろう。誰が言ったかは知らないけれども、女は感情の生き物だから。受け入れがたいところもあるけれし、受け入れざるを得ないところもある。なぜこのような躯と心が一致しないかたちで生まれ育ったのだろうか。
出発合図はまだでない。甲高い安全弁を抜ける蒸気の音が昇圧完了を告げる。手持無沙汰な機関士、と言うのは大抵たばこを燻らすもので。まあ、ボクはしないけれども。と言うわけで蒸気分配箱に大福餅を乗せておく。今日は追い抜かれる為の長い停車が何度もあるから、その間の間食があればいいな、と言うことで持ってきた。とりあえず3つかな。たくさんとは言い難いけれども少々多目に持ってきてある。
出発信号機は進行。
「貨物下り出発、進行‼」
「貨物下り出発、進行オーライ‼」
「……貨物下り出発、進行。」
どうもあの助士はぼんやりしているようだ。普通ならば考えられない。そして出発合図も確認し、発車する。加減弁ハンドルを引きながら汽笛を呼吹し、逆転機を引き上げつつ空転を防ぐ。正直不安だったのは、立脇さんが機関助士の仕事をこなせるのか、ということだった。ディーゼルの機関士になってからだいぶ経っているからだ。だけどもすぐに勘を取り戻したようだったから、喜ばしいことだ。皆ディーゼルや電気の伸展によって石炭節約へのこだわりも意地も投げ捨てて両手スコップばっかり使うようになった。だから、立脇さんのような歳食った人でもやり易くはなっている。
身を乗り出しつつ運転をして行く。これには視界を得ると云う大きな理由があると同時に、熱いと云う理由もある。そばで石炭焚いているんだから熱い。外は晩秋の寒さだけれども。そういえばオートバイとかに乗る人はその時に受ける風を楽しむ輩もいるそうだが、全く理解できない。オートバイレースなんか正気の沙汰ではない。まあ、蒸機でありったけの速度を出しながら身を乗り出しているのとどちらが危ないかと言われれば言い返せる言葉はないけれど。
「なんか、こんなに揺れるンすね?」
気にくわないその聞き方。と言うかどのように答えればいいのかわからない。そういやこいつは菜っ葉服すら着てない。制服姿だ。よく見れば立脇さんが着ている菜っ葉服とボクの菜っ葉服も微妙に異なる。立襟で固定するためのボタンがない。折襟で着ることを前提にしたその形。時代に取り残されたような、この立襟の菜っ葉服を着ている自分を見せつけられているようで、なんだか寂しい。よく見れば袖の縫製も違う。寂しさをごまかすのは信号喚呼だ。
「第二中継、進行‼」
「第二中継、進行オーライ‼」
「ウォッ、!?第二中継、進行。」
助士席に着いておいて前見てなかったのか、あのバカは。
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中間駅で中線に入り、暫くしてくる後続列車に追い抜かされるのを待つ。二、三本だか。目の前の出発信号機は停止のまま。運転台から飛び降りるようにして駆け、車軸から何から平滑部に手を当てて軸焼けを起こしていないか確かめ、油壺という油壺に油を満たす。勿論ポンプにも。軍手は油を吸ってびとつくけれど、正直いつもそうだから慣れた。
運転台に戻り、軍手をとりながら蒸気分配箱の上においておいた大福餅をひょいとひっぺがし、口にする。ちょうどいいくらいに焼けて、香ばしい。少々機械油の味がするけれど。それも最後だと思うと、とたんにいとおしく感じるのだから少しおかしい。
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機関車たちの新たな任地まであとすこし。この石炭の燃えるツンとした匂いと煤やシンダー、油。それとももうお別れだ。ボクは、どうしたらいいのだろう。わからない。だからせめて、残りのわずかを噛み締めよう。
ブレーキさばきは人が出るという。ボクもそれを知っている。だけれども、客車を牽いたことがないから評価のほどはわからない。別の機関区に滑り込む。まだここには蒸気機関車の活躍の余地がある。だけれどもボクはここの職員にはなれない。そういうものだ。定位置から少し手前で止まった。許容誤差範囲内だ。コンプレッサの軽やかな音。また軸焼けがないか確認して回る。うん?第二動輪が軸焼けしてる?いやまさか、してたら変な音するし、うん?いやいや、まっさかぁ。
「おい、どうした。」
あ、立脇さん。
「ありゃ、こりゃ焼ける寸前だなァ。とりあえず報告しとけ。焼けてはいないな、コリャ。」
「アァ、それとな、今日はご苦労さん。」
肩を叩かれる。思わず振り払ってしまった。立脇さんは少し驚いたようだけれど、得心がいったのかうなずいてどこか行ってしまった。躯に触られるのは例え何であれどうしても嫌だ。この躯が自分の身体だと強制的に認識させられるから。
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襟を折り返して、第一ボタンも開けて菜っ葉服を着なおす。湯上がりで、湯冷めしないことを祈りながら。そもそも菜っ葉服は、襟を折り返して着ることを想定している。まぁ、これまで煤やシンダーが入り込むのを防ぐために襟元に手拭を巻いて、立襟で留めて着ていたから、そんな着方はしなかったけれども。
この機関区の人々から、惜しまれるような言葉も出る。だからといって引き留めるようなことはしない。そんなものだ。正直もうなにもかも灰色だ。蒸気機関車に関われるという事だけで世の中光輝いていたけれど、もうそれがないということで、今度は反対に色を失ってしまった。なんだかなにもかもが遠い。確かに自分の身に起こっていることなのに壁の向こうで起こっているかのように遠い。昔母に振り回されていた頃のように。
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猛獣の唸り声を彷彿とさせるディーゼル機関車の音。その運転台に乗り込む。機関士席には立脇さんが。助士席には、誰だったかな?まあソレが着き、立ちっぱなしなのがボクだ。罐焚きやるよりは絶対楽だからもうこれでいい。
視界が広いのは予想はしていた。しかし、いざ走り出すとそれは怖いものだった。蒸気機関車は確かに視界が効かないという恐ろしさはあるけれども、同時に自分の前方に十メートルにおよぶボイラがあり、衝突しても大丈夫だという安心感があった。それがどうだ。いまこの機関車のガラスの外にはもはや完全な自由空間が存在する。そこには何らかの異物は入り放題だ。もし自動車等が踏み切りで立ち往生しているのなら、衝突したときにはどうなってしまうのか。空恐ろしいものを感じた。蒸気機関車に馴染みすぎたせいなのだろうか?さらにあり得ないように感じるのは、乗務日報を助士が書きながら乗務していたことだ。まるで助士が機関士の秘書か使いっ走りのようになっている。蒸気機関車のときは、機関士が降車後に自分で書いていたのとは違うものを見た。しかも助士は何度か舟を漕ぐ事もある。つまり、余りにすることがなく、寝てしまいそうになっている。そんなことは全くこれまで想像すらできなかった。なんだか隔世の感がある。なんだか無性に寂しくなった。
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機関区に帰ってきた。最後の点呼。そして、待ち合いに立ち入る。そこにはいつもよりも多くの人が集まっていた。それも比較的高齢層の機関士が。あの人たちはボクをとても可愛がってくれた。入れ換え用の小運転だけでも、蒸気機関車に関わり続けると決めた人たち。年老いすぎて転換教育を受けることがなかった人たちだ。彼らはボクの事を『俺たちの娘っ子』と呼んで事あるごとに菓子やら何やらを呉れたり、食事に誘ってくれたりした。それが一堂に会してやいのやいのと何だか騒がしくしている。
そんな中で聞こえるような幻聴が。いやいや、こんなところに母が来るはずがない。こんな油と煤のこびりついたところに来るはずがないんだ。
「おい!お前だお前、お前が来ねーと始まんねーだろうが。」
古株の機関士に呼び止められた。そして手招きされる。その人だかりのなかに入ると、その中心に居たのは、甚平羽織を着た萩野さんだった。
「よーし、これで揃った。呑みに行くぞ。場所は萩野の家な!」
「何で俺の家なんだよ、喧しい!」
「あー?テメー妻子居らんで寂しいってこぼしていたろーが?俺たちが賑やかしに行ってやるってンだ、感謝しやがれ。」
気がつけば笑ってる自分がいる。何よりも今の自分が笑う事ができるという喜びと共に驚きを噛み締める。それと共になんとも言えないあの得体の知れない心境が再びこの身を包んで、浮き上がらせるような感覚が自分を支配する。四年ぶりに会う萩野さんの一挙一投足まで目で追い、甚平羽織の襟元や足元から覗く四年前と比べれば大分白くなったその肌を見ては心を浮き立たせる。これではまるで恋する乙女か何かだ。それが何だか悔しくて、かといってそれから逃れるのも癪で。これを何とかしたい。何とかしなければ、そのうち頭のてっぺんから安全弁よろしく蒸気を噴き出してしまいそうだ。呑みに行くようだし、着いていってそこから考えよう。酔っていなければ。
世の中大抵ままならないもので、なぜか主賓に担ぎ上げられているボクは、乾杯の音頭をとっていた。しかも隣に萩野さん。余計に意識してしまう。その襟元の鎖骨辺りに視線が行ってはごまかすためにまたひと口と酒を口にする。しかしてまた面白いのは萩野さんの視線が何度かボクの鎖骨辺りか、胸元に来てはどこかにそらされる。そう、それが面白いのだ。何だか自分だけではなく、自分の意識していた人の意識がこちらに向いていると言うのは。普段なら嫌悪感しかないはずのその視線も酔っているせいか萩野さんだからなのか非常に心地よい。気がつけばにじり寄るような感じで徐々に距離を詰める自分が居る。
「あー、あそこの電柱の後ろに居るのはお前のご母堂か?」
萩野さんの指差すところには、確かに母の姿があった。忘れよう。ボクに母親はいないんだ、そうだ、そうしよう。そんなことを気がつけば口に出している。酔っているせいで歯止めが効かない。止めるまでもなくポロリと何故告白しないのかと云うようなことを口から吐き出す。とたんに回りの機関士たちは囃し立てる。「俺の言った通りだロォ、なぁ?」「えー、くそ、持ってけ畜生メ」どうやら賭け事の対象にされていたようだ。つまりはみんなこんなことをすると思っていたと言うことだ。こっ恥ずかしいやら、悔しいやら何だかわからないままに、引けなくなったことを知った。そして静まる。ただ一人だけがその沈黙を破る権利を持つ。皆がそれを待つ。たとい拒絶されても残念会だとなるし、受け入れられたら祝杯だとなる。とにかくみんな呑んで騒ぎたいのだ。明日以降は蒸気に関わることがないということだから。とうとう根負けして萩野さんが出した答えは-
結果?それは作者名に反映されておる。
主人公ちゃん、萩野定吉機関士、末長くお幸せに。