ぼく その9
女性の声がした。聴いたことのない女性の声が、確かにぼくの名前をよんだ。ぼくはぼくを呼ぶ声へと振りかえり、そこに立っている女の人を目にした。そこにはぼくの知らない声をした、ぼくの知らない女の人がいた。真っ白な髪をしたぼくが投影されている虹彩の奥が、ぼくには薄紫色になる夕日の底で、おびただしい花に縁をかこまれたおおきな深淵のようにみえた。それは透明的でうるわしく、それでもどこかうつろな面影が滲んでいたのだ。
ぼくを知る彼女を、ぼくは知らなかった。彼女の容姿から継がれていく記憶はなかった。何かに引っかかるかと望んでなげた釣り糸がはいった川面の下は、乾きはてた砂漠だったのだ。コウトくん、ぼくの名前を呼んだその声は、ぼくの脳内でいくつもの線になって流れていった。不思議な声色からつむがれたこの五文字が、いつまでもぼくの脳の中央にある管のようなものを通っているようだった。
「コウトくん」また、ぼくは名前を呼ばれた。提灯のあかりがなじんで黄色味を増した半透明の茶色い髪は鎖骨あたりのながさで、端麗な肌のうえで寝ていた。わけられた前髪が僅かにかする瞳はおおきく、鼻もしなやかな輪郭をしている。そこにそっと添えられた唇はちいさく、さえた艶を得ていた。「コウトくん」また、彼女はぼくの名を呼ぶ。ぼくは今に至るまでのことを掘り起こせるだけ掘り起こしていた。どこをみても未知な光景があり、どこをみても未知な人々があるいている。それらが繋がっているこの街で、ぼくが信用できるのは何もなかった。「コウトくん」、と名前をよぶ女性に、ぼくはつよい猜疑心をおぼえていたのだ。
「は、はい」ぼくはその場からゆっくり立ち上がって、返事をする。
彼女はそっと沈黙をはさむ。彼女の表情に動きはなかった。じっと立ち尽くしたような瞳をし、鼻をし、口をしていた。それから言った。「訝ることはないわ。私はあなたを助けにきたの。ただそれだけのことよ」
「ぼくを助けに?」
「そう」と彼女は言った。まるで扁平な板にしわもつくらずにナプキンを敷いたような声だった。「あなたを助けに」
ぼくを助けに、そう彼女は言った。ぼくを助けに? 彼女はぼくを助けにきたと言う。……わからなかった。まだ、ぼくはどこかでこれは夢だと思っているのだ。漠然としていた。曖昧としていた。それでも、心を充たしていた恐怖心に、わずかな隙間ができたような気がして、また涙の気配をかんじた自分がいた。無表情のやさしさに、淡く包まれたような、そんな気持になった自分がいた。
「コウトくん、私についてきて」彼女はそう言って、歩みをはじめた。
ぼくは無言のままうなずいて、そのうしろ姿を追った。彼女はぼくを助けにきた、ぼくは助かる、それは嘘かもしれない。けれど彼女についていった。たとえ嘘でも、いまのぼくが求めていた言葉を、彼女は言ったから。
互いに分かりあっていた提灯の姿はなくなり、あたりは幽寂としたアーケード商店街へと変わっていた。空を仰ぐと、半透明のまるみを佩びたガラス板のアーケードがあり、その外からは、いまだ深い夜がずっしりと重くこもっていた。商店街に、先ほどのような明かりはなかった。人の気配もなく、ひっそりとした静寂だけが夜の一部として居座っていた。しろいタイル張りの地面の両側にならんだ商店はどこもシャッターを閉めていて、一つの明かりもなく閑としていた。ぼくはそれらの店舗をきょろきょろと挙動不審な動作でみていた。商店街の暗闇のなかで頼れるものは、アーケードから射したわずかな月明かりと、自分の前をあるく彼女の足音だった。彼女の足音はパンプスが織りなすもので、タイルの地面をかるやかに蹴る音響は空間の隅のほうへとおもむいていき、ゆっくりと波及していった。ぼくのスニーカーから生まれる足音は、彼女の音の下をくぐるようにひろがって響いていた。