ぼく その8
ショーウィンドーにうつる自分の姿に、顔に、瞳に、ぼくははげしい驚きだけを覚えていた。真夜中の街灯がてらした影のように重みがあって黒いはずのぼくの髪は、すべてが除かれ、大儀的なものを欠落してしまったかのような喪失感のある白髪へと、急変していたのだ。するりとこぼれた「え」という声はひらひらと石畳の隙間へと落ちた。
騙されているのだ。きっと、ぼくは根本的なことから欺かれているのだ。建物がわずらわしいほどに茂ったこの街も、ぼくを知らずにわらう雑踏も、変貌したぼくのこの白髪の頭も、全部どれも嘘だ。夢だ。ここにきてからぼくは何度と呟いていた。
「これは夢だ」
根拠はない。それでもぼくはぼくに言い聞かせた。
「これは夢なんだ」
その「夢」は醒めることはなかった。醒めることなく、じっとその「夢」だと仮定する時間は延びていった。あがった息のあらい音も、痙攣する足の痛みも、どれも夢じゃないみたいに鮮明だった。けれどぼくは「これは夢だ」と、言い続けた。ぼくの白い髪が、ほのかに風でゆれた。
また涙があふれる。ショーウィンドーの中にいる自分も、おんなじように涙をうかべていた。やめろよ、ぼくの真似をするな。ぼくの動きを、ぼくの感情を、模倣するんじゃない。そこに映るのはぼくじゃない。ぼくじゃない。ガラス越しからみえる提灯の灯りが、笑っていた。ぼくの様をながめて、笑っていた。そこに充満する光は、ぼくを囲んで笑っていた。ぼくの意思に反してでてくる涙に光は触れて、濡れて、そして、笑った。
ぼくは疲労からふるえた膝をたたきつけるようにして駆けた。ショーウィンドーにうつるそれらが怖くなって逃げた。どうすればいい、どうすればいい? どこに逃げればいい、どこに逃げればいい? 夜がぼくの首に手を回してきて、後ろから抱きついてくるようだった。ぼくは必死に抵抗して、無理やりにそれを剥がそうとする。夜は回していた手を首から、ぼくの目元へともってくる。ぼくの目を手の平でかぶせる。ぼくはそのまま夜に目隠しされる。石畳の地につまずき、ぼくはそのまま横転した。
痛かった。その痛みが、これは「夢」じゃないことを冷徹にぼくに知らせていた。ふらふらだけれど立つしかなかった。ぼくが知る人物は、ここにはいない。ぼくは独りだった。提灯がぶれて灯りが踊るこの街で、ぼくは孤独なのだ。だから立つしかない。立たなければならない。そして逃げなければならない。足を踏みださなければならない。涙を堪えなければならない。ぼくは逃げることしかできないのだ。だから、逃げるしかない。どうしても向き合えない季節から、ぼくは逃げるしかない。逃げろ、走らないといけない。母の背中を捨てなければならない。未練がましい涙を殺さなければならない。いろいろと付着してくる感情を摘まなければならない。逃げることだけが、ぼくだ。ぼくは逃げる。逃げないと、すぐに追いつかれてしまう。だからぼくは。だからぼくは、
「あなたがコウトくんね」