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ぼく その7

 遠かった光が近づいてきたことで、ぼくはすこし安堵した。脹脛を締めつけてくる筋肉の痙攣がつよく反動し、ぼくの足を強引にまえへと押した。階段をおり終えると、そこからは石畳のほそい道がつづいていて、その道を左右からてらす光が屋台などのならんだ店舗からあふれていた。屋台からはにぎわう客らの愉快そうな声がとびかい、なにかを焼く音やにおいがこの一本道に充ちていた。どこからも染みでてくる香りが、どれもぼくに寄り添ってきて、思わずぼくの腹が声をもらした。いままで隠れていた空腹が、その香りに牽かれてつよく存在を主張してきた。ぼくはコートから財布をとりだして中身をたしかめた。四千二百円、それがいまぼくが持っているすべての金額だった。どうして家をでる際にもっとお金をもってこなかったのだろうと、自分の頭のわるさに嘆息がもれた。ここでこの金をつかうのは勿体ない。きっと賢くない行動だ。後悔するに違いない。ぼくは渋々それをポケットにもどして、空腹をうったえる腹をさすりながら歩いた。

 いまのぼくにとって、この温泉街のような場所は苦痛だった。視界にはいりこむ人間はどれも笑っていて、どれも満たされていて、どれも楽しそうだった。手を繋いであるく恋人や、ネクタイをゆるめて仲間と酒をのむ男たち、どれもぼくなんか気にせずに幸せそうだった。流れていく。屋台や提灯のあかりが流れていく。歩いている人々が流れていく。石畳の模様が流れていく。離れていく。人々とぼくが離れていく。振り返るとみえる景色から離れていく。母さんの背中から、離れていく。もう嘘になってしまった、ぼくを見つめていたぼくから離れていく。道が続いていた。ゆらゆらと視界は揺れていた。足取りは重かった。揺れる視界が、おぼろげな靄に食べられた。涙が、また流れていた。

 ぼくは足をとめて、涙をとめようとした。コートの袖で目元をこすった。コートの生地はざらざらとしていて、瞼にヒリヒリとした感覚がのこった。ふと自分の隣をみると、なにも置いていないショーウィンドーが張っていた。そのガラス板に反射されてうつるのは手を繋いで道をつむぐ灯りと、涙をぬぐうぼくの姿だった。そこでなぜかぼくは、さっき忽然とあらわれて消えた彼の容姿を思いだした。じっと自分をみつめてきた彼の眼差しや、肌の色や、髪の色を。なぜそれらが脳裏に叩きだされたのか、ぼくはこのショーウィンドーにうつる自分をみてすぐに理解した。

 あのときぼくを見つめていた彼は、確かにぼくであったけれど、もしかすると「ぼくじゃない」かもしれない。そんな思考が跳ねたのだ。さっきぼくが見たぼくは、確かにぼく自身だといえる。きっぱりと、声を張って、胸を張って言える。けれど、断言はできなかったのだ。そのショーウィンドーにうつる自分をみるかぎり、ぼく自身のはずだった彼が、別人なのかもしれない可能性が浮上してしまったのだ。

 そこに映ったぼくは――涙の痕跡をつよく頬にのこしているぼくは――先ほどみた彼とは違う容姿をしていたのだ。


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