ぼく その6
ぼくが振りかえった先には、ぼくがいた。そのぼくが姿をすっと消したのは、ちいさな風が流れ、まばらにいた人々のひとりがぼくと彼との間を横切ったときだった。そこにいたはずの彼は、その人とかさなった瞬間に消えた。ぼくは目を凝らし、じっと睨んだ。しかし彼はいなかった。ぼくは夢のなかで、幻覚をみたのか? しげしげとそこを見つめる。やはりそこに、ぼくに瓜二つの少年がいた事実なんて、形跡なんて、痕跡なんて、証拠なんて、なかった。それを断定できるものがないから、ぼくが数秒前みていた視界は嘘になった。
いったい現在は何時なのだろう、消えた彼から目をはなしてぼくはそのまま空を眺めた。夜にうずまく雲は、まるでおおきな暗闇の淵を空につくりあげているようだった。ぼくはその空にきざまれた夜の淵に吸いこまれるような感覚になり、身が畏縮するまえに視線をもどした。そのまま前へむいて早歩きでゆるく下がっていく道をおりていった。空はみないようにした。夜がすぐうえで口を開けてぼくを待っていた。ぼくはそれらから目を逸らして、また走った。
ある程度すすんだところで、曲がり角があった。まだ真っ直ぐにも道はつづいていたが、ぼくはそっちへと曲がった。曲がるとそこは路地裏のようなところを連想させる場所となっていた。空気は閑とした静けさに覆われている。それまで建物とおなじように二列にならんで道をはさんでいた街灯の明かりもなくなり、真っ暗闇へとなってしまった。おもわずその空間におぞましさを感じたが、なぜか衝動的な自分の判断がただしいとおもってそのまま進んだ。
ぼくが一歩と地を踏むたびに、そこから発された足音が暗闇をおよいだ。この路地裏のような空間は、どんな音でも慎重にあつかい、その音を誇張させた。ひしひしと冷えた空気が壁をなめる音が、まるで軽々しい霧みたいにただよっていた。醸しだされる奇妙さにぼくは足がすくむような感覚になり、おもわず走った。左右につらなる建物の壁の模様が視界の隣でながれていった。そして流れていく壁が、いちど途切れた。ぼくは足をとめ、その途切れた箇所へと目をやった。そこにはいろいろな植物をかざった石の階段があった。その階段は六段ほどのみじかいもので、ずいぶんと時代が経過しているようだった。錆だらけの手すりには蔦が這っていて、よくわからないけれど植物がそこにはあった。ぼくは段差を曖昧にさせてしまう植物の草をふみつけて、その階段をおりた。
おりるとまた路地裏とはちがった空間へとかわった。そこはまるで街のちいさな一部がくぼんだ箇所のようだった。先ほどまでぼくをはさんでいた建物の背中が、階段の六段分ひくい位置からみえた。そして階段が指すほうへとみると、洞窟的なトンネルがあった。そのトンネルからはすでに出口の景色がみえていたので、そこまで距離はながくないものだとわかる。そこからは古びた木建造の平屋の屋根がいくつかのぞけた。ぼくはトンネルへと足を踏みいれ、そちらの方へとあるいた。
石のトンネルのなかは、より冷ややかとしていた。壁に触れてみると、そっと手の平に結露の記憶がうつった。ぼくは履いているチノパンツで手の平をぬぐう。トンネルはすぐに抜けた。トンネルをぬけると地面は、どれも平等な大きさでならんだ模様のものから、様々な形態の石がうきでて詰められた模様のものへとかわった。そしてひからびた植木鉢にかこまれた平屋の家が、一定の間隔をあけてならんでいた。それらの平屋の壁には、懐かしい雨の跡と、クレヨンで描いたらしき無邪気な落書きがのこっていた。埃がよこたわるうごかない換気扇と、死んだ土だけがつまった植木鉢が修飾されていた。平屋と平屋をへだてる仕切りの壁には、寄りそうように茂った雑草が風をみつめていて、かつては人の通り道だったのであろう道をはさんだ溝渠には、つめたい影をたくわえた苔ばかりが膠着していた。夜なのに、住宅地にはなにひとつと明りは無かった。そこはかつての人の活気から見離され、生命の終わりを告げるさよならの風だけがいつまでも歩いていた。閑散としていて廃れてしまったこの街の一部に、ぼくはなぜか頬にながれた涙をうけいれた。感極まってひろがる哀しさからにじんだ涙をぼくは許した。ぼくはゆっくりと平屋の住宅たちを目でなぞりながら、この人気のない道を歩いていった。うずまく空はすでにほどけていた。何気なく置かれていた木のベンチはペンキの色が剥げてしまっていて白かった。床屋のサインポールはもう光ることも回ることもなく、ずっとそこで立ち尽くしていた。
目で数えていた平屋が最後の一軒をおえ、ぼくは住宅地をあゆみきる。そこでぼくは木板のしきりが住宅地を囲んでいたことに気がついた。その柵に手をかけて、ぼくはそこから一望できる景色に目をやると、ふたたび光があふれた建物の束がみえた。先ほどぼくがいた場所とおなじように、そこからみえる光景もさまざまな建造物が詰めこまれて、ひとつのシルエットになってみえた。柵のしたは崖で、ちいさく建物の頭たちがみえた。
ぼくは木の柵にそって進んでいくと、やがてまた石の階段があった。その階段はえらくながい距離をしていた。真っ直ぐにつづいていて、その階段の途中途中にいろいろな屋台などがならんでいた。蔦がからんだ鉄の手すりが片側だけにあり、そこからみえる景色もやはりシルエットとなった建物の群集だった。ぼくはその長い階段へと足をかける。階段は、下へおりればおりるほどに明りが増していた。遠くで提灯がならんでいたのだ。ぽつぽつと光が増えていって、最後にはにぎわいを固まった灯りは示していた。ぼくはあの提灯のあかりが恋しくなって、いそいで階段をおりていった。
手すりからの向こうでみえる、息苦しさを感じさせるほどの建物のあつまりが、どれも夜に流れていった。階段はまだ暗い。まだ灯りが遠い。振りかえるとまだあの廃れた住宅地がみえた。そこから離れていく。孤立したあの場所から、ぼくは離れたくなった。涙がまた手を伸ばしてきて、瞼から外へとでようとしてきた。けれどぼくはもう涙を許さなかった。ぎゅっとそれを堪え、手招きする提灯や屋台の声のほうへと向かった。
ぼくの脳裏にうかぶのは母さんだった。頭のなかの母さんはぼくから目を背けていた。つむじから咲いた黒髪だけがみえた。弱々しいのにたくましい背中からは、まるでぼくに「さよなら」と告げているようだった。母の背中はみるみる離れていき、小さくなって縮んでいった。母さんはぼくに背を向けたまま立っていた。離れていっているのは、ぼくの方だったのだ。ぼくは走って、母さんの背中から逃げていた。なぜ逃げている? 逃げても意味がないなんてわかっているのに、ぼくは逃げていた。ぼくに背をむけている母さんが見つめているものは「今の環境」だった。十五歳になったぼくの前にやってきた、十五歳の季節だった。その季節と向きあっているのは母だけだった。ぼくは、十五歳という年齢がともなってつれてきたその季節から逃げているのだ。その十五歳の季節には深い霧がただよい、どこにも離れずじっと立ちとまっていた。そんな霧の先に、探しているものはある。その季節の向こうに、「新しい季節」はあるのだ。なのに、ぼくは逃げている。逃げることだけをしている。逃げこんできた場所には、奇妙な恐怖心と、奇妙な焦燥感と、奇妙なさみしさだけがあって、ぼくはそこからも逃げだした。逃げることで得るものは、苦しみだけだということもぼくは理解しているのに。
気がつくと、ぼくは提灯のあかりに挟まれていた。振りかえるともうあの住宅地はみえなくて、自分がおりてきた階段がつらなっている。前へ向きなおすと、もうすこしで階段が終わるところまできていた。提灯の明かりはぼくがこらえていた涙に紛れてぼんやりとしていて、あらい呼吸音と共に夜におぼれていた。膝ががくがくと震えてわらっていて、疲弊を隠しきれていなかった。