僕 その1
車の窓からちいさいけれど見えたのは、あの廃れてしまった住宅地だった。平屋の家の壁にされたままのクレヨンの落書きも、ここからじゃ見えなかった。夜は、二十三時の中間すらもとおりこした時間帯だった。明りのひとつも灯らないあの住宅地は、形をのこしたまま止まってしまったのだ。けれど、いつかまた光が灯る。ぼくはそう思った。ぼくはそう祈った。あの住宅地は、別に死んだわけじゃないのだ、と。やがて景色は、建物たちの裏側へと隠されてしまう。
「またいつでも逃げてくればいいさ」と運転席にいる父さんは言った。「そのときも、この街はお前を歓迎するはずさ」
「ありがとう」ぼくは礼をのべた。それからすこし笑った。車は、アーケード商店街のちかくをとおり、提灯のならぶ温泉街のような場所をとおり、『ニワトコ』をとおり、そして、駅のほうへと近づいていった。車をとめると、そこからしばらく石畳のゆるい坂道がつづいていた。父さんと二人で歩いていると、ぼくとおなじ容姿をした少年をみかけた場所をとおりすぎたことに気がついた。振りかえってたしかめてみるけれど、そこにはもう彼はいなかった。駅の出入り口がみえてきて、ぼくは泣きながら必死で駆けてここから外の夜へと飛び出してきたことを思いだした。今の自分と比較してたしかめてみるけれど、そこにはもう慌てふためくような弱いぼくはいない。盛んな光がこもった駅のなかへ、ぼくは足を踏み入れた。
階段をのぼっていくと、改札がならんだ箇所がみえてくる。そこにはあの時とおなじ駅員の男が立っていた。「――あ、君は」と駅員の男はすぐにぼくに気づいた。ぼくはちいさく顎を引き、つくり笑いをした。「帰るのかい?」、と駅員は親切そうにたずねてきた。愛想のいい笑みをうかべている。「はい」、とぼくは肯いた。その声には、克明な輪郭があった。克明な影がたずさえられていた。机の中心にそっと置けば、それだけで花瓶にそえられた花のような役割をもてるくらいに。駅員はあのときと同じような目つきをして、ぼくの顔をじっと見つめてきた。眼差しはまるで顕著に変化したなにかを確認するみたいだった。「君、なんだか変わったね」、駅員は言った。そう聴いてぼくは思わず笑ってしまった。ありがとうございます、ぼくは礼を言った。父さんも階段を歩きおえ、改札口へとおいつく。ぼくは父さんのほうへ振り向いた。
「それじゃあ、行くよ」ぼくは笑ったままの顔で、父さんに言った。
ああ、と父さんもにっこりと微笑んだ。駅員の男も、ぼくのことを見ていた。数秒の沈黙を、別れにたとえた。それからスニーカーをひきずり、前へとぼくは足をむけた。改札をくぐると、天井がとぎれて夜空になった。ちいさく息をはいて、プラットホームの方向へと歩みを押しだす。とつぜん背中を手でおされたように前へ何歩かすすんだ自分の足には、すこしだけ切なさが残り、後ろめたさが孕まれていた。図らずも、ぼくは振りかえってしまう。ぼくに手を振る、駅員の男と、父さんがいた。感情的になってラーメンを啜るぼくをみて、爆笑していた父さんの笑い声が聴こえないのに聴こえた。おもわず涙がこぼれそうになった。けれど、ぼくはその涙を深い傷口を手でおさえつけるようにぐっと堪えた。脳漿に巡りめぐられていくこの街での日々は、ぼくにしたたかな感傷をぶつけてきた。そんなセンチメンタルにぼくは砂をまぶし、ごまかして紛らわせようと努めた。コートのポケットに入っているハサミで、前髪を切ったことを思いうかべてみる。けれど、どうしても涙を食いとめることはできなかった。無理だった。いろいろなことが、ぼくがプラットホームへと歩いてくにつれて掘りおこされていった。父さんと食べたラーメンのこと、開放された窓から部屋へはいりこんでくる風のこと、池にうかぶ蓮の花のこと、花言葉のこと、コハクさんのこと、ハナミのこと――。もうさよならの風は通りすぎてしまったけれど、あのピンク色のワンピースはいつまでも揺れているだろうと思う。それでいい、それでいいのだ、ぼくは口角をあげた。秒針がまばたきするように一秒を積んでいく。時刻は二十三時五十九分をぬけていく。線路がきしむ音がとおくから聴こえた。プラットホームにぼくは立つ。そのとき、列車がきた。もう振り返っても父さんはみえないだろうと思う。空気をつめこんだ缶を力任せにつぶしたような音がする。するとぼくの前で扉がひらいた。風呂敷からとりだしたばかりのような光が、ぼくの袖をつかんできた。
街は〇時となる。




